初めての夜会(1)
「はい、出来たわ」
そう言ってアンネリーゼは膝の上にくしゃっと丸めて置いていたドレスをばさばさと捌き、ほらと両手で掲げて見せた。昼間着ていた紺のドレスは、肘まであった袖を取り外し、代わりに短いレースを重ねて二の腕が出るデザインになっていた。首元を隠していた白い襟も取り去って鎖骨が覗くデコルテラインに変わっている。腰には刺繍の入ったシフォンのオーバースカートを重ね、昼間の印象をがらりと変えて違ったドレスに見せていた。
機織り職人としても優秀だが、アンネリーゼはもともと裁縫の得意な少女だった。今でもこうして娘たちの衣装を工夫しながらちくちくと縫うのが楽しみのひとつだ。
「これに長い手袋をしたら、夜のパーティーにはぴったりね」
せっかくディーが考えてシルヴィアが織った布で仕立てたドレスだ、一回限りのお披露目なんて勿体ないとアンネリーゼは考えたのだ。
「貧乏くさいなんて言わせないわ」
「お母さまったら誰もそんなこと思わないわ。だって本当に良く出来ているもの」
シルヴィアは寝台の上に身体を起こしてドレスの手直しを手伝っていた。熱は薬湯のおかげか下がっていたが、夜のお出かけは許可出来ないと医師にも父親にも言われていた。
「姉さま、やっぱり具合が悪い? 一緒に行けない?」
不安げな様子でディーは問い掛けるが、シルヴィアは静かに首を振った。
「せっかくの兄さまのお祝いだけど、止めておくわ」
「姉さまがいなかったらどうしていいか分からないもん」
「大丈夫よ、お父さまも兄さまもいるんだもの、ね」
「そうね、これも経験よ。滅多と来ない王都でのパーティーだもの。楽しんでいらっしゃいね、ディー」
シルヴィアの身に何が起こったのか、ディーにはまだ詳しい説明はなかった。弱々しく辛うじて微笑んでいる姉を気遣いたいけれど、自分がパーティーに参加することを思うと、緊張で口から心臓が出てしまいそうだった。あの後シルヴィアの様子を真摯な瞳でディーに尋ねてきたアーデルに、何の説明も出来ないままだったので、どうしてものかとも思っていた。
「姉さま、姉さまの具合が悪いって伝えたら、アーデルが心配していたよ」
「そうなのね。……体調が戻ったら連絡しますとお伝えしておいて」
「手紙でも書けばいいのに」
「アーデルは、……あの方は王子殿下なのよ。下手に残るものは差し上げられないわ」
そういうものなの? とディーは軽く考えた。王子って面倒なのねと。
ディーはメイドの助けを借りてドレスに着替えた。美しいがふわふわと纏めにくい髪は、編み込まれてシルヴィアの作った造花を飾る。首にも造花をつなげたネックレスを巻いている。十三の娘には宝石類はまだ早いというのがアンネリーゼの考えだった。貴族らしくない思考だが、実際貴族ではなく商家の娘だったが、母親としてはそこは譲れないと考えていた。宝石など無くても出来栄えには満足だ、私の娘たちはこんなにも愛らしい。
「ディー、用意は出来たかい?」
とんとんと軽くノックをして入ってきたのはクリスだった。クリスも大人と同等の正装姿だった。ちょっとの間、ディーは兄の姿に不躾に視線を送って見惚れていた。
「兄さま、とってもカッコいい」
「ありがとう。我が妹もとても素敵だ。ドレスが良く似合ってるよ。さすがはうちの領地産のシルクだね」
「それ、わたしを褒めてるの?」
「勿論だとも。さてディー、今日は俺がエスコートするからね」
そう言って腕軽く曲げてディーへと差し出した。彼女もにこりと笑ってその間へと手を滑らせる。
「ああ、……ディー、その、……悪かったよ。まさかユーリが本気で受け取ったとはまるで思ってなかったんだ。しかも二年も前の話だ、確かにあれからお前はユーリとは会ってなかったけれど」
「兄さま、その話はもういいの。ユーリとはちゃんと仲直りするし、誘ってくれたらダンスだって踊るつもり」
「そうか。なら良かった」
クリスはディーの顔を覗き込んで、お前は俺の可愛い妹だと念押しするように微笑んだ。
昼間、卒業式が開かれたホールは、雰囲気をがらりと変えて、王宮で開かれる王家主催の夜会に負けないほどのものだった。貴族出身の卒業生たちは勿論のこと、大人顔負けの煌びやかな服装に身を包んでいる。それぞれにパートナーと腕を組み、にこやかな微笑みを浮かべてあちらこちらで歓談していた。
初めての本格的な夜会の雰囲気に呑まれそうになりながら、ディーは惚けたように会場を見渡していた。普段野山を走り回っていても、人並みには女の子らしい憧れは持っていた。綺麗なドレスを身に纏い、昔読んだ絵本に出てきたような素敵な騎士様と、こうした夜会でワルツを踊るのだ。まずは今夜のパートナーの兄クリスとだが。
「今夜は王族の方々も出席される。挨拶が終わったら音楽が始まるから、そうしたらダンスの時間だ。とりあえずお前は兄の俺と踊ることになる。その後は自由にしていいぞ」
よくよく見ていると、兄はどうやら注目の的だということは、まだおぼこいディーにも分かった。ホールに入った途端、あちこちから視線が突き刺さらんばかりに飛んできているのが分かったからだ。改めて背の伸びた兄を見上げると、整った顔立ちに柔らかな笑みを浮かべている。金髪碧眼の絵に描いたような王子様然としたアーデルとは少し違った甘さを持った顔立ちだ。母に似たことを感謝するべきね、とディーは思う。
「ダンスするのは好きだからいいけれど、誰にも誘ってもらえないかも」
「何を言うんだ、妹よ。アーデルが誘ってくれるよ。奴は呼び水としては上等だ」
「変なこと言わないの。それよりも兄さま、本当はわたしじゃなくてエスコートしたい人がいたんじゃないの?」
「お前こそ変なところに気を遣うんじゃないよ」
ふっと含みのある目付きになったクリスは、さあ踊ろうとディーの手を引き、ホール中央へと足を踏み出した。
軽やかな音楽が流れ始める。運動神経のいいディーはダンスも得意だった。兄妹で息の合ったダンスを披露してみせて、ぱらぱらとだが拍手を貰った。とっても楽しい。シルヴィアのことを思うと少し辛いが、今はそれよりも楽しさが上回っていた。
「ディー、とても綺麗だね。しかもダンスが上手じゃないか。すっかりレディだ」
優雅な足取りでアーデルが側にやってきた。惜しみなくディーを褒め上げて、にこにこと笑って次は僕だと手を差し出した。
「クリス、君の妹をちょっと借りるよ」
「ああ、踊ってやってくれ」
アーデルはディーの手を取ると、迷いなくホールの中央へと彼女を導いた。第二王子とのダンスはディーの考えていた以上に注目の的となっていた。周囲の目に怯むディーを巧みにリードして、兄クリスと踊った時よりもよりもとても楽しくなっていた。
「楽しそうだね」
「うん、アーデルも。とても踊り易い」
「それは何よりだ」
「ねえアーデル、……」
普段物怖じしないディーが何やら言い淀んでいるのを不審に思ったアーデルは、こうしてダンスの最中なら誰にも聞かれないから言ってごらん、と促した。
「姉さまのことなんだけど」
「うん」
「お父さまも兄さまもわたしにはちゃんと説明してくれないんだ。とにかく熱が出て今は家で寝てる。でももう元に戻ると思う。元気になったら連絡しますって」
「そうか。早く元気になって欲しいな。タウンハウスにお見舞いを贈るよ。受け取って」
「ありがとう」
「話は聞いているよ。シルヴィアの為だから」
そう言ったアーデルの表情が一瞬だけ暗く歪んだように見えた。ディーには気のせいだと思えるくらいに刹那的なものだった。