卒業式の驚き
この秋からディーが通うことになっている貴族学院では、華やかな飾り付けがふんだんに成されていた。ディーは父と共に兄の卒業式に出席する為にシンプルにも清楚なイメージの紺のドレスを着ていた。自身の通う学校の下見も兼ねてのことだ。
王城のすぐ近く、王都を流れる川の中州に建てられた美しく壮麗な建物だ。此処の卒業生はそのことを非常に誇りに思っているそうだが、さもありなんとひと目で分かる輝きを放つ建物だった。
ステンドグラスが印象的な大きなホールに、揃いの制服で丈の長い黒いローブを羽織った卒業生や見送る在学生、それに先生方や来客のお客様方、そして卒業生の家族が誇らしげに整然と椅子に腰掛けていた。
一昨日、シルヴィアは糸が切れたようにすっかり気力を失くし、熱を出して寝込んでしまった。母アンネローゼが付きっきりで看病しているため、ディーと父親の二人で参加することになったのだ。兄の晴々しい日だから、と思うのだがどうしてもいろいろ考えてしまい、寿ぐ気持ちは半分にへしゃげている。卒業生の兄も暗い気持ちを払い切れないのだろう、いつもの軽やかな笑顔が引っ込んでしまい、硬い表情のまま挨拶をする学院長の方を向いていた。
ディーの気持ちに構わずに式次第は進んでいく。聞き覚えのある声が聞こえてきた。卒業生の未来への誓いの言葉を述べているのは、第二王子のアーベルだった。それはその年の首席が担う役目だ。騎士コースへ進むとはいえ、さすが王族、勉学もきっちりと修めたらしい。
ディーは盛大に拍手を贈った。幼馴染みが首席なんて、誇らしいではないか。隣に座るのは兄のクリスだからどうやら次席だったようだ。上位貴族の令息たちを抑えての、たかだか田舎の子爵令息である兄の優秀さにディーはとても嬉しくなり、ちょっとだけ気持ちが浮上する。
最後の儀式である卒業生たちの被っている帽子が宙に舞うと、ディーは遮る父親から抜け出して一目散に兄に向かって駆け出した。
「クリス兄さま! 卒業おめでとう」
「ディー、ありがとう」
飛びつくディーを難無く受け止めると、クリスはようやく顔を緩めた。
「だけど、アーデルにはどうしても勝てなかった。それだけが心残りだ」
「何を言うんだ、最後の試験で何とかしのいだだけで、差は殆ど無かっただろう? 一応王子様なんだからさ、体面を保たせてよね」
「自分で王子様言うな」
二人は小突き合って相変わらずの仲良しだ。何だか気が抜けてディーも硬さの取れた柔らかな笑顔になった。
「殿下もおめでとうございます」
「ディーよ、こいつなんて褒めなくてもいいぞ」
「つれないこと言うなよ、クリス。ディー、それにしてもそのドレスとても綺麗だね。良く似合ってるよ」
さすが王子様だ、人タラシなところは全く変わっていない。こちらの思いを汲んで、きっちりと褒めそやす。褒められるとお世辞でも嬉しいじゃないか。
「ありがとうございます、殿下」
「アーデルでいいから。君はいつものままでいいんだよ」
「ユーリは何処へ行った?」
「ユーリなら、騎士コースの先輩に捉まっていたけどな。……あ、ユーリ! こっちだ」
人だかりの向こうに彼がいた。先輩ではなく、綺麗に着飾ったご令嬢たちに取り囲まれていた。ユーリだ。どきんとディーの心臓が跳ねた。いつ振りだろうか。それにしても。
「ユーリってモテるのね」
「そうだな、ここ一年くらいで印象が変わったよな」
「そうそう。前はさ、俺たちが女の子と一緒にいると近寄っても来なかったのに」
「背が伸びて身体つきが変わってきたからかな。あいつ自分に自信が持てるようになったんじゃないか」
「……傲慢になったってことなの?」
兄とアーベルがディーの言葉を聞いて、笑い声をあげた。
「おい、ディー、そんな奴じゃないよ。お前にも分かるだろう?」
「でも、鼻の下伸び切ってるじゃない?」
囲まれている女性たちに向かってにこやかに愛想を振りまいているユーリは、とても嬉しそうだ。昔の彼とは別人に見える。もしかしたら既に約束を交わした女性がいるのかもしれない。幼馴染みのことなどどうでもいいのだ。そうだとしても一言くらいはお祝いの言葉を言ってあげたいとディーは思った。
じっと見ていると、ふとこちらに気付いて愛想笑いをいっそう深め、手を軽く上げて向かってくる。
「クリス、アーデル、ここに居たのか。クリス、トーラス先輩が話があるって呼んでいたよ」
「分かった。あとで訪ねるよ」
「それで、……?」
ユーリは怪訝な顔をしてディーの方を見た。視線が交わるとさらに心臓が煩くなってきた。何か話さなきゃ、と思うだけで口が上手く動かない。先にユーリが動いた。しどろもどろなディーの手を取り、騎士の如く手の甲に唇を寄せたのだ。
はっ? 彼はいったい何を。
「はじめまして、ですね、レディ」
手を取られたディーも、クリスもそれからアーデルも、ユーリの言葉にその場で固まった。
今日のユーリは、昔はうっとおしく伸びていた前髪を半分は片耳に掛け、残りはすっきりと撫で上げていた。ディーとさほど変わらなかった身長が、いつの間にかアーデルの背を越している。身体も制服の上からでも鍛えられているのが分かるほどに厚みが増していた。すっかり騎士然としたユーリは、以前とはまるで違って見えた。遠慮がちにおどおどしていた引っ込み思案な少年は何処へ行ったのか。ちょっとしたプレイボーイ気取りじゃないの。
「ユーリ、何言ってんだ、こいつはディーだよ?」
「確かに女っぽくなったよな」
「お前、人の妹に女っぽくなんて言うなよな」
クリスとアーデルが肩を震わせながら、ユーリに畳み掛ける。一方手を取られたディーは令嬢扱いされて真っ赤になっていた。
まさか、まさかと思うけど?!
眼を限界まで見開いて、ユーリは愕然とした表情を見せた。
「……ディー? いや嘘だろう? 女の子じゃないか」
「……それどういう意味よ」
「だって、……ディーはクリスの<弟>だろ? 女装してるのか?」
「……はっ?」
「……えっ?」
ユーリはわたしを男の子だと思っていたんだ。
そう気付くと、ディーは取られた手を力いっぱい振り払った。先ほどとは違う意味で顔に血を上らせてユーリに向かって噛み付いた。
「わたしはっ、女よ! 昔っから女だった!」
「だって、クリスが弟だって、……それにいつもズボン履いてたし」
「う、動きやすいかったからよ!」
「……ドレスなんか着たの見たことなかったし、……」
「……っ!」
「あ、あの、……ディー、……ごめん」
「ユーリなんて、……ユーリなんて……」
「ごめん、ディー」
「……だ、だいっきらいよ!」
堪えきれなくなったクリスとアーベルの大きな笑い声が響く中、ディーはくるりと後ろを向いてハイヒールにも関わらず、ずんずん歩いた。油断すると涙が零れそうだったが、泣いてなんかやるものか。せっかくのドレス、ユーリに見て貰いたくて一生懸命選んだドレス。でもユーリはわたしを見て、はじめましてと言ったのだ。しかも女装? 男だと思っていたなんて。
寝込んでいる姉のことなど吹き飛んでしまうほどに、頭が沸騰しそうになっていた。ユーリはわたしをやっぱり嫌いなのだ、いや、どうでも良かったのかもしれない。ひと夏のただの暇潰しだっただけだったのだ。
ユーリなんて、大嫌い。ユーリなんて。……。
無表情だったユーリ、ちょっとだけ笑うようになってとても嬉しかった。わたしには笑顔を見せてくれた。ぎこちないけれど、はにかんだ笑みは確かにわたしに向いていた。あれは淡い好意だった。そして今、大嫌いと宣言してはっきりと分かった。わたしはユーリが好きだったのだと。
ホールから中庭に出て出鱈目に歩いて奥まって人目につかないところを見つけ、耐えられなくなってしゃがみ込んだ。薄っすらと視界が曇る。綺麗なドレス、シルヴィアが紡いで織り上げ仕立ててくれた美しい地紋の入ったドレス。この地紋はディーの考えたものだ。一言でいい、ユーリに褒めてもらいたかったのだと気付く。もう遅い。大嫌いだなんて言ってしまった。先ほどユーリに取られた左手を右手で握り込んだ。ユーリの触れた指先、掛かった吐息を思い出す。熱を持ったように熱くなってきた頬に、涙が一筋、零れ落ちた。