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王都へ向かう

 

「ディー、お支度は出来たのかしら?」

「お母さま、もう少し待って」


 鏡を覗き込んでいたディーは、一度被った帽子をまた被り直していた。そんなことを繰り返すので、せっかく整えた髪も次第に解れていく。手出しはするなと言われたが、仕方ないとばかりに、側で見守っていた母付きの侍女が手を差し出した。

 本当は帽子の角度にこだわりがあって自分でしたかったのだが、これ以上遅れると母親の怒号が飛んでくるだろう。


「ありがとう、ミニーメイ」


 レースの手袋を嵌めながら礼を言うと、階段をそれこそ転がり落ちるように駆け下りた。まあディーったら! という母の小言に知らぬ顔をする。本当は手摺りの上を滑るのが一番早いのだが、さすがに十三にもなってそれをやるのは拙いだろうことはディーにも分かっていた。


「お母さま、お待たせしました。さあ、行きましょう」

「まったく、……あとでお説教ですよ、ディー。ヘンリー、留守をお願いね」

「はい承知つかまつりました。旦那様とクリスティアン様に使用人一同の祝福をお伝えください」

「皆さん、ありがとう。では行きますよ、ディー。頼むからお淑やかにね」

「はーい」

「はい、お母さま。と仰い」

「はい、お母さま」


 明後日には兄クリスの通う貴族学院の卒業式が行われる。母アンネリーゼとディーは、それに出席するためにこれから馬車と汽車を乗り継いで、王都へ向かうことになっていた。

 数年前に大陸の技術を取り入れて、まずは王都から北の港へと真っ直ぐに引かれた線路は、徐々に枝分かれして数を増やし、カウフマン領の隣、王家の直轄領にある離宮の側まで敷かれていた。昔は馬車で何日も揺られてでないと行けなかった王都が、汽車のお陰で随分と時間の短縮となっている。まだまだ運賃が高額なので気軽には使えないが、貴族の端くれであるカウフマン家ではなんとか賄える額だった。宮廷勤めの父も年に数度、汽車に乗って領地へと帰って来れるようになっていた。


 兄のクリスも同級のアーデルもそれからユーリも、貴族学院の基礎課程を卒業し、次はそれぞれの道へと別れる。クリスは文官コースへ、アーデルとユーリは騎士コースへの進学が決まっていた。クリスは父と同じく、王宮での文官としての出仕を目指している。アーデルは王太子を支える王族としての倣いで、剣を極めて戦略や戦術を学ぶそうだ。既に国王の補佐として宰相の元で働いているフェルディナンド第一王子の補佐を公言している彼だ、敬愛する兄の為に強くなりたいという気持ちに嘘はないのだろう。

 ユーリはどうするんだろうと、ディーは思っていた。辺境伯の三男だから、騎士になるのは当然なのだろうが、王都の近衛騎士団入団でも目指しているのだろうか。それとも領地に戻って辺境騎士団に入るのだろうか。


 なんとなく関係がぎくしゃくした湖畔のお出かけから二年になるが、ユーリがカウフマン家に遊びに来たのはあの夏だけだった。長い休みには辺境伯領地に顔を出しているという話だったが、あれ以来ディーはユーリと会っていなかった。クリスから簡単な消息を聞かされるのみだ。それをずいぶん寂しく思っていた。

 長く伸ばされた前髪越しにぎこちなく笑っていたユーリ。あまり表情が変わることもなく、口数も少なかったが、笑うととても柔らかな表情になり、優し気に目を細めてディーを見つめた。別れ際、ぽんぽんとディーの頭を軽く叩いて、元気で、の一言だけを残して、後ろを振り返りもせずにディーの知らない紳士と共に去って行ってしまった。


 そういえば、ドレス姿で彼の前に立つのは初めてじゃなかったか。

 その事実に気付くと、妙に緊張してきて初めて乗る汽車の座席でかちこちに固まってしまった。それまでおのぼりさんよろしくすっかりはしゃいで王都について質問攻めにしたり、興味深げに窓の外に夢中になっていた娘が、ふいに黙り込んでしまったのを母アンネリーゼは不審に思った。見ると暑くもないのに汗を掻き、顔が青い。王都に着いたらまずシルヴィアと合流しようと決心した。長女シルヴィアは花嫁修業の一環で、父方の伯母のタウンハウスに行儀見習いに上がっていた。こんなに浮き沈みの激しい娘だったかしら。ディートリンデを心配というよりも訝し気に見つめた。貴族出身ではないものの、娘のシルヴィアのようにお淑やかなレディとして有名だったアンネリーゼは、自分の娘ながらディーを御する自信が無かったのだった。


「ディー、顔色が悪いですよ。どうかして?」

「……何でもないの。ちょっと酔ったのかも」

「あれだけ揺れる馬車の中が平気な貴女が? 無理せずこちらへと凭れていいのよ」

「大丈夫です、お母さま。すぐに治ります」


 そう言ってディーは窓を少しだけ開けた。埃交じりの風が吹き込む。

 ユーリに会ったらどう言えばいいのだろう。あの時はどうしたのって聞けばいいのかしら。どうしてさっさと帰ってしまったのって。わたしを嫌いになったの? なんて、聞けるわけもないけれど。

 兄のことよりもユーリのことばかりに想いを馳せてしまう。そんな自分の心情の変化にディー自身も戸惑いを持て余していた。


 普段は王宮内の官舎で過ごしている父の手配で、家族で滞在できるよう、王城から程近いところに小さな家を借り上げていた。駅に迎えに来てくれた兄クリスと共にその家へと向かう。悩んでも仕方ないと少し気分が上向きになっていたディーは、気を取り直してあちこちに視線を巡らせて今度はあれこれ兄を質問攻めにしていた。一転元気になったディーを見て安心したアンネリーゼは、仮の家に就いた途端、今度はシルヴィアの変わり様に驚いた。

 玄関ポーチで母と妹を出迎える為に佇んでいたのは、見るからに痩せて顔色の悪いシルヴィアだった。ディーも驚いた。確かに元々が華奢ではあったが、田舎の領地にいた時はもっと血色のいいふっくらした笑顔を見せていたのに。


「シルヴィア、いったいどうしたの、何かあったの」


 挨拶もそこそこにアンネリーゼは痩せた娘に駆け寄り、肩を引き寄せ抱き締めた。


「お母さま、……」


 母親の肩口に顔をあずけたシルヴィアは、目を瞬かせたと思うと綺麗な藍の瞳からはらはらと涙が流れ落ちた。しかし何も言わない。黙ったまま母の腕の中で静かに泣いていた。


「とりあえず中へ入ろう。お茶を持ってこさせるから」


 訳知り顔のクリスが二人をなんとか扉の中に押し込んだ。玄関で呆然としたままのディーにこうも言った。


「ディー、悪いが二人を頼めるか。父上を呼んで来る。少し時間がかかるかもしれないが頼むよ」


 こくりと頷いた妹の頬に軽くキスを残して、二人を乗せてきた馬車に乗ってクリスは出て行った。勝手知らずの家に残されたディーは、溜め息をついた。父の雇った見知らぬ使用人に荷物の運び入れを頼み、メイドらしき女性を捕まえてお茶を淹れてくれとお願いする。料理人は通いの近くの主婦らしい。今は買い物に出ているそうだ。とにかく姉を何とかしなくては。でもどうやって。


 シルヴィアはこの春婚約が整ったばかりだった。祖母のように貴族学院で隣の領地のベッカー男爵令息マティアスに見初められたのだ。祖母以来のお隣同士の婚約だ、身分的にも反対する理由がなかった。マティアスはアーデルのように見目麗しい男性ではなかったが、愛想のいいにこやかな青年だった。学院で領地経営を学び、将来は領土に帰って父を助けるのだと語った。そこに君が居ればどれだけ素晴らしいだろうか、そう言ってシルヴィアを口説いたらしい。へえーと大して感銘も受けず、姉の惚気話を聞き流したディーだが、どうにも義兄となる予定のマティアスが気に食わなかった。何故だろう、姉が羨ましいと思ったのか。それともマティアスの外面の良さに辟易したのか。姉の為に、それは単なる気の迷いだと思いたかった。

 機織りをしていればそれだけで幸せ、という姉である。伯母のタウンハウスに機織り機も持ち込んでいた。華やかな都会の遊びに現を抜かすこともなく、ディーの送った意匠を嬉々として織り込んでいたと、一番最近の手紙には書き添えていたのに。

 婚約者はいったい何をしていたのか。ディーの中で怒りが込み上げてきていた。


 メイドがお茶のセットを乗せたワゴンを運んできた。自分が部屋に運ぶと言ってメイドを下がらせ客間の扉を開いた。頑是ない子どものように、ソファに腰掛けた母親の膝に頭を乗せて、シルヴィアはぺたりと力なく座り込んでいた。母アンネリーゼはその美しい瞳に悲しみを湛え、シルヴィアの髪を撫でていた。ディーはその様子を見て、居心地のいい領地の邸の居間に戻ったように感じた。何か悩み事があったとき、悲しい出来事があったとき、母はいつもこうして私たちの側にいてくれたのだ。


「ディー、ごめんなさいね」

「謝らないでお母さま。お姉さまもお茶をお持ちしましたから、どうぞ召し上がって」


 カップに紅茶を注いで差し出した。茫洋としていたシルヴィアが、お茶の香りに惹かれたようで、ディーの方を見てくれた。ここへ来てから初めてだ。


「ディー、随分とお淑やかになったのね。本当に綺麗になって」


 まだ目に涙の残るシルヴィアがぽつりと誉め言葉を口にした。ようやくまともな反応を見せた姉を、安心させるように笑いながら答える。


「シルヴィー姉さま、わたしもう十三になるのよ」

「そうね、大きくなった」

「姉さまと兄さまにお土産持ってきたの。あとでお渡しするから見て下さいね」

「ありがとう」


 床に座り込んだまま母の膝から頭を上げるとシルヴィアは、ディーの淹れた紅茶を啜った。


「……美味しい」


 先ほど玄関先で見た姉は今にも儚くなりそうだった。だけれど、少しの間にお母さまに何かご相談出来たのかしら。お茶を美味しいと感じ取れるのなら大丈夫だろうか。

 安心してほしくてことさらににっこりと笑ってみせてから母にもカップを差し出す。


「そうですね、ディーも女の子らしくなってきたわね、それなりに」


 母はそんなことを言いつつしかし、興味があるような口ぶりではなかった。


「お茶の味は良いですね。茶葉もいいものだわ」

「この焼き菓子は最近王都で流行りのお店のものだそうです。美味しければ領地の皆に買って帰りましょう」


 表面的には他愛の無い会話が淡々と続いていた。そのくせ何処か緊張感も孕んだものだった。話すことも無くなって、陽射しがかなり傾いてきた頃にようやく、父と兄が帰ってきた。


 久しぶりに会ったにもかかわらず、碌な挨拶も無しに開口一番、父はこう言った。


「シルヴィアの婚約が白紙に戻った」


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