夏の思い出
彼女はディートリンデ・カウフマン、子爵家の次女だ。家族や親しい友人たちは皆「ディー」と呼ぶ。
父と兄は王宮で官僚として勤めていて、二人とも優秀でそれなりの地位にある。元々は領地を持たないしがない宮廷貴族だったが、数代前のご先祖様が何やら華々しい活躍をしたおかげで小さな領地を賜っている。とは言え、領地からのあがりだけでは暮らしは成り立たないので、やっぱり代々王宮で働いている。
カウフマン領は山に囲まれた高地だ。小さいながら桑畑が広がり養蚕業が盛んで、手作業で紡ぐ豊かな風合いの生糸は希少価値があり、高く売ることが出来た。それに機織りの技術で付加価値を高めたのは、織りの技術に優れた隣の領地から嫁いできた祖母だ。隣とはいえ、その境界には山あり谷ありで簡単に行き来出来る場所ではなく、昔からさほどの交流もないところだった。ところが、貴族の基本的な教育を授けるべく通うことが義務化されている王都の貴族学校で、たまたま出会った祖父と祖母は、まるでロマンス小説のような恋をして結ばれたらしい。
祖母の機織りの技術は素晴らしいもので、その秘密が流れるとカウフマン家への輿入れを反対する者も大勢いたのだという。風合いは良いものの扱い難いことで有名だったカウフマンの生糸を、容易く織り上げてみせ、見事な絹生地とした。それが王家御用達の服飾職人たちの間で評判となり、希少価値も相まって益々名声を高めた。魔法のような機織りの腕を持つ祖母は、当代随一の機織り名人として名を馳せ、今も遠く隣国へもその名が鳴り響いている。
家の経済状況が悪くとも働く術を持たなかった領地の少女たちを弟子に取り、祖母は自分の技術を惜しみなく与え、何人もの優れた職人を育て上げた。そのうちの一人がディーの母となるアンネリーゼだった。祖母を介して出逢ったアンネリーゼとディーの父親は、穏やかに愛を育み、やがて三人の子どもに恵まれる。長女シルヴィア、長男クリスティアン、そして次女ディートリンデだ。
シルヴィアもディーも、幼い頃から祖母や母たちに交じり、機織りを学んだ。特にシルヴィアは名人の祖母の全盛期を彷彿とさせる見事な技量を発揮して、十を過ぎる頃には一端の職人となっていた。十四の頃には特に細い糸を巧みに操り、極薄手の紗を織ってみせて皆を驚かせた。姉は絹糸の神様に愛されているのだ、ディーも周囲もそう考えた。彼女もそれなりのものを織ることは出来たが、姉にはまず敵わない。それよりも生地に織り込む地紋を考えることの方が楽しくなっていた。シルヴィアも妹の考えた地紋を織り上げるのを喜びとしていて、姉妹はたいそう仲が良く、見た目の美しさも相まって<絹の神に愛された姉妹>と称された。だが。
「本当にディーったら。土台は悪くないんだから、少しは身なりに構ったらどうなの」
「綺麗なお姉ちゃまには勝てないもん。この方が走り易いからね。まだ舞踏会へ行く歳じゃなし」
シルヴィアは、機織りを無上の喜びとし、言葉少なく一心に機織り機に向かう少女だった。輝くプラチナブロンドの髪に澄んだ藍の瞳で、見るからにお淑やかな小さなレディだった。一方のディーは、機織りをしている祖母や母の側で丸一日でも過ごすのが当たり前だった姉とは違って、兄クリスのお下がりのズボンを履き、野山を駆け回るのが大好きだった。明るいシャンパンブロンドの髪を持ち、父親譲りの碧の瞳という見た目だけは姉に似た美しい少女だったが、男の子に負けない運動神経の持ち主だった。格好に構わず走り回るディーを、野猿のようだと村の子どもたちに揶揄われ、僕には<弟>がいるんだと兄には言われていた。機織りもするけれど、山に入って茸を取ったり湖で釣りをしたり、木登りだって得意でボートも漕いだ。お淑やかな姉とは真逆だったが、天真爛漫に育ったディーは皆の人気者でもあった。
男爵領とは反対側にある王家の直轄領に、美しい離宮が建っていた。この国の第一王子と第二王子は、母が違っていても王子同士は仲が良かったが、母親同士は子どもたちのようには上手くいかなかった。第二王子の母は側妃で身分的にも低かったので、正妃に遠慮し、息詰まる王宮を避けるようにこの別荘地でひっそりと暮らしていた。共に暮らしていた第二王子のアーデルベルトは、自然ディーたち姉兄妹と仲良くなった。煩いことを言う教育係もいないので、それこそ転げ回って遊びに遊んだ。
十三になった兄クリスがアーデルと共に王都の学校へと入った年の夏、級友だとしてひとりの少年を連れ帰った。それが領地の向こうの辺境伯家三男ユーリだった。
「ユーリ、紹介するよ。僕の<弟>のディーだよ」
相変わらず兄のお下がりを着て髪に葉っぱや草を絡ませた妹の姿に、クリスはいつもながらの冗談を飛ばした。ユーリはといえば、クリスがアーデルと二人笑い転げるのをさほど面白くも無さそうに一瞥したあと、囁くような小さな声でよろしくとだけ言って、ディーの握手の為に差し出した手を無視した。顔を見られるのが嫌なのか、長く伸ばされた前髪越しに、上目遣いでディーを見据えていた。自分のことが気に入らないのだろうかと気になったディーは、兄に<弟>と言われたことを、その時は聞き流してしまったのだった。
姉のシルヴィアは王都の貴族学校で知り合った友人の領地へと招待を受けていて、その夏は帰って来なかった。自然、ほとんどの時間をクリスとアーデルとユーリ、それからディーの四人で過ごした。
初めはなかなか打ち解けてくれなかったユーリも、一緒にいる時間が長くなるとそれなりに話をし、控え目ではあるが笑顔も見せてくれるようになっていた。口下手で大勢で遊ぶのは苦手なようで、ディーが村の子分たちを引き連れて遊んでいる時には近寄っては来なかった。仲間内に身体の大きい乱暴な者もいたのがどうも怖いらしい、とディーは気付いた。男なのに、どうして。ディーには理解出来なかった。それでも、話しかけると返事が返ってくるようになったのは大きな進歩だと嬉しく思っていた。
「兄さまたち、午後からおやつを持って湖へ行かない?」
「ああ、ディー、悪いがアーデルに客人が来るんだ。俺も一緒に会うことになっているから、ユーリの相手をしてやってくれ。というか、相手してもらうんだな」
「えー、どうして?」
「お前は知らなくていい」
普段は明るくいつもにこやかな兄が、少し険しい顔を見せた。何だろう? と疑問に思うものの、まだ十一だったディーには到底見当も付かなかった。それよりもユーリと二人でどうやって過ごすか、楽しさだけに考えを向けていた。
「あそこの木の下がいい」
「じゃあ、ブランケットを引いておくよ。バスケットを貸して」
ディーは始終機嫌が良かった。その日のお出かけは、後日ユーリと二人きりで過ごした大切な思い出となった。ディーは拾った木の枝を振り回し、湖のほとりで足を浸け、小魚が足を突くに任せていた。時折水を掬いあげてユーリに向かって放り投げる。きらきらと輝く水滴とディーの屈託のない笑顔を、ユーリはブランケットに座り込んで飽くことなく眺めていた。
「ユーリ! ほら、魚がいるよ」
ディーはユーリを引き起こすとそのまま湖へと引っ張る。砂浜の広がるここいらは、四人のお気に入りの秘密の隠れ家だった。もっとも、秘密と思っているのは子どもたちだけだったのだが。
「ほら、あそこ、見て?」
「本当だ、たくさんいるね」
「今日は竿も網も持ってこなかったけど手で掴まえようよ」
「ディー、素手でなんて無茶だよ」
ユーリにきらりとした笑みを寄こして、ディーは袖を捲り上げた。そうっとゆっくりと手を水の中へと沈み込ませる。気配に気付いた魚たちがするりと逃げた。
「待って、待って!」
ディーは如何にも楽し気な声を上げて魚を追い掛け始めた。ばしゃばしゃと遠慮なく水飛沫が舞った。それじゃ魚は掴まるもんか、とユーリは思うのだが、それよりもはしゃぐディーが眩しくて仕方がなかった。
ディーはクリスの弟だ。なのにこの気持ちは何なのだろう。
ユーリは、学院ではアーデルやクリスの影に隠れるように過ごしていた。見目良い二人は一年目にして既に学内の人気者で、時には学年を越えて年上の貴族令嬢にも懐かれてもいた。好奇心からもしくは本能から、そうして擦り寄るご令嬢と付き合ってみたり、ということもあるようだった。
第二王子と子爵家の嫡男である二人と、自分の立場を比べてみる。辺境伯令息とはいえ自分はスペアにすらならない三男だ。爵位を継げないため、身を立てるには王宮勤めの文官になるか、騎士になるかの二択しかない。自分で事業を起こすのは、貴族という身分では恥ずかしいことだというのがまだまだ一般的な見方だった。幸い身体を動かすのは苦ではない。このまま進んで騎士コースを選択しようと考えていた。養父である辺境伯は、騎士になるユーリを誇りに思ってくれるだろう。肩身の狭い思いをしていた生家から引き取ってくれた辺境伯には多大な恩を感じている。辺境伯も令夫人もたいそう良くしてくれている。それでも遠慮しながら育ったせいか、騎士になるには控え目過ぎる性質となった。
だからアーデルやクリスのように、令嬢たちに擦り寄られることもなく、これといって惹かれる女の子に出会ったことも無かった。それなのに、だ。こちらへあどけない信頼し切った笑顔を向けているクリスの弟に、何とも形容し難い感情を感じている。
短い叫び声が上がった。ディーの足元にある石が邪魔をして水の中へとひっくり返りそうになっていた。慌てて背中を支えるべく、ユーリは手を伸ばした。
遠慮なくぶつかってきた背中を抱き支える。途端、ぞわりとした知らない感情が湧き起こった。
「ありがとう、ユーリ」
ディーが後ろを振り返り、見上げてふわりと笑った。ディーの両腕を掴んでいたユーリは愛おしさで胸がいっぱいになって、気付けば背中から手を回して抱き締めていた。
一瞬何をされたのか理解出来ずにいたディーは、ユーリの腕の中から逃げ出そうと慌てて身を捩った。
「な、……か、帰ろうか。そろそろお客様も帰ってるだろうし」
「……」
ユーリは恐れおののいた。自分はもしや同性にしか惹かれない質なのだろうか、と。そんなことを考え始めて、ディーの姿も見られず、話もまともに出来なくなってすっかり挙動不審になった。
ディーはディーで、支えられただけでなく、抱き締められたことに困惑していた。触れられた背中や回された腕に感じた熱が収まらない。だが、彼女はまだまだ未熟な子どもだった。突然頑なになったユーリの態度に不安を感じ、それは嫌われたのだという結論に達していた。
ディーにもユーリにも、楽しいひと時が一転、戸惑いの思い出となったのだった。屋敷に戻ったらお茶でも飲みながら、話をすればいい。明日になったらまた一緒に遊べるだろう。
ディーはそう考えていたが、戻ったユーリは離宮を訪れていた客人とその日のうちに共にこの地を去ることになった。残されたディーは、やっと心を開いてくれたと思っていたのにどうやら嫌われたのだとすっかり落ち込む羽目になった。