逆さ吊りの子
寝れなくて衝動的に投稿しました。拙い話ですが、少しでも読んでくれたら嬉しいです。
イヨタは花火を見たことがなかったが、真っ暗な部屋の中で、タバコの光が灯っているのを見るのが好きだ。
僅かな月明かりの中で、タバコの一筋の煙が、上へ伝っていくのを見るのも好きだ。
縮れ髪の下にある顔は、いつも茫然としていて、決してイヨタを見てくれなかった。
だからイヨタは眺め続けているしかなかった。
初めてイヨタが発した言葉が、『あ………』だった。
言葉を話そうとして発したわけではなかった。ただ口から出るものが、空気ではなかった。
見上げた先には、奇妙なオブジェがあった。
人が直立して、宙を浮いている。
イヨタは恐る恐るそれに触れた。
初めて触れた人肌は、妙に生温く、けれどはっきり冷たかった。
股の間からイヨタが時々出す液体と同じものが流れて、イヨタはその突き刺すような匂いのおかげで、それがイヨタと同じものであることを知った。
イヨタは嬉しくなって、それのつま先をプラプラ揺らして遊んでいた。
イヨタがまだ、4つか5つのときの話だ。
ガードレールの脇に、猫の死体があった。茶毛で、身体が左右反転していた。
まるで、元からそうだったみたいだ。いや、本当にそうかもしれないぞ。
そう思ったが、口元から舌がまろび出てて、その先にハエが集っていたのを見て、そうじゃないと知った。
スマホを取り出して、市役所に連絡する。猫の死体がある辺りの住所を告げて、そのまま学校に向かった。登校の最中だった。
あれがオブジェだとしたら、なんらかのメッセージ性を孕んでそう。残虐性とか、人間のエゴの犠牲とか、そんな感じの。
そんなことを、校門を過ぎる前に考えていたら、ふと、思い出した。
そういえば、前にもあんな奇妙なオブジェ、見たことがあるな。
猫の死体のオブジェが、形を変えて急に人になった。立ち姿のまま宙に浮いて、膝小僧が目の前でプラプラ揺れる。
そうか、あれか。
立ち止まって、少し反芻する。
間違いないな。
歩き出す。
一本道の廊下が、湾曲しているように見えた。頭の奥が痺れてきた。
また立ち止まって回復を待つのも、釈然としなかった。だから、そのまま教室に入って椅子に座った。
「あれ、どうしたの?」
蹲ってると、頭上から声がした。アキタだ。
億劫に顔をあげると、ぼんやりとした出立ちのアキタが、やはりぼんやりとした感じで大丈夫?と言ってきた。
「なんか………」
続きの言葉が出ない。
「あ、聞いちゃいけない感じ?」
「いや」
首を左右に振った。そうではないんだ。本当に。そういんじゃない。でも。
「言葉が見つからないというか…」
学校でするにははばかれる話というか。
「ふーん、体調は大丈夫?」
「うーん、途中下車するかも」
「おーけー」
そんな軽いやり取りの後、朝のチャイムが鳴るまで2人で取り留めのない話をした。昨日見たテレビの面白かったところとか、今日の授業マジだるいとか、そんな話を。
三次限目で吐き気がしてきたので、体調不良で早退した。
目の前のかっちりした男は、定型文を繰り返すように、質問していた。いや、これは確かに定型文だった。目の前のメガネの男と、何度目かは分からない、同じ問答を繰り返していた。
雑談にも似た定型文はいつもの通り淡々と繰り返された。男がボードにチェックを入れていく。シャーペンを時々突く。コンコン。
果たしてこの会話に意味などあるのだろうか。
この会話に終わりなどあるのだろうか。
会話やシャーペンの走る音、空調の駆動音、窓辺から聞こえる街の音。
やけに静かだ。少なくともこの空間は。
「今日、学校を早退したとのことですが」
一瞬、メガネの奥にある目が鋭くなった気がした。
「はい」
「体調は大丈夫でしょうか」
「それは、はい、大丈夫です」
男はしばらく黙して、シャーペンを走らせた。
「以上です。次回の検診は来週のこの時間に」
「分かりました」
今日も、検診は今日で最後にしましょう、とは言ってくれなかった。
部屋を出ると、看護士が男の名前を呼んだ。
「カワサキさん、カワサキさん、次の方呼んでもいいですか?」
「はい、大丈夫ですよ」
その瞬間、その男の名前がカワサキであることを、いつも思い出す。なんでなのか分からない。でもいつも、問答している間は、その名前が出てこない。
無味乾燥に思えた態度も、終わった途端、血が通ったように見える。
受付で薬を貰った。一週間分の薬は、酷く重たく感じる。
「忘れずに飲んでくださいね」
受付の女の人が、笑顔と優しく作られた声音でそう言ったので、へらりと笑って曖昧に頷いた。
スマホの時刻は七時を指していた。訳もなくテレビを見ながら課題をする。
アキタからラインが来ていた。「大丈夫?」
「大丈夫かも知れないし、ダメかもしれない」
嘘は書きたくなかった。でも本当のことも言いたくなかった。
「今日は早く寝るよ。課題、教えてくれてありがとう」
取ってつけたようなありがとうは、薄っぺらさが際立っていたが、つけない訳には行かなかった。
テレビの中で、スタジオにいる人たちが笑ったり、叫んだりしている。
美味しいクレープ屋さんのVTRが流れるころ、玄関のドアが開いた。
狭いアパートの一室では玄関が直で見える。
ボサボサのおっさんがそこに立っていた。
手にはコンビニの袋を握って、草臥れた作業服のまま、のっそりと玄関を上がって、向かいに座った。
袋からビールを取り出し、プルタブを開けて、一息付く。
おかえりというと、「おまえも食え」と言われた。
袋の中には、弁当が二つ、惣菜がいくつか入ってた。
弁当を取り出して、付属の箸で食べる。
いただきますは言わない。言っても意味はない。
おっさんはビールを三口飲んで、弁当を摘むを繰り返していた。
たまに惣菜にも手をつけた。
九時ごろになると、おっさんはテレビを消した。いつもは深夜まで見ることがあるのに。
「今日はもう寝ろ」
おっさんは顔を向けずにそう言った。
少しの間その横顔を見つめた。
昔見続けた人に少し似ている顔だった。
曖昧に頷き、寝る支度を整え、布団に着いた。
幾分控えめになったテレビの音が再開する。
襖にこぼれる光は寝る寸前まで、止むことはなかった。
おっさんの名前はキクカワという。流れ着いたこの後見人は、遠い遠い、北海道から沖縄までの距離にいる血縁だ。
もう三年以上一緒にいるけれど、おっさんのことがよく分からない。そもそもの会話も少ない。おっさんは挨拶を言わない。口から出る言葉は大概「食え」「寝ろ」のどちらかだ。長文を話したのは、おっさんと初めて生活する初日、「生活費、学費、通信費は払うが、小遣いはやらない」それだけだ。
バイトはドクターストップが掛かっているから出来ないし、しようとも思わない。だからスマホは三年前のやつをずっと使っている。
ここでの生活は情報が少なくていい。生活に必要なことはおっさんが提示してくれて、しなければならないことは学校が提示してくれる。唯一医局に通わなくてはならないのが、不満だが、それ以外は満ち足りている。
傷つけるものがいない世界は、驚くほど息がしやすい。そういう穏やかな世界に、身を浸している。
起きたら、おっさんはもう出勤していた。
パンと牛乳と蜂蜜を取り出して食べた。
着替えて、顔洗って、歯を磨き、荷物を持って外に出た。
昨日見た猫の死体はもうなくなっていた。アスファルトには僅かに赤が滲んでいたが、それ以外は何もなかった。
猫の死は痛ましいが、知らない猫の死はあまり痛ましくない。けれど、猫が生前どう生きていたのか考えてしまう。
もしかしたら、お腹が空いていたのかもしれない。もしかしたら、足を怪我していたのかもしれない。
生きたかったのかな。生きたかったんだろう。生きていたら、その体躯はどんな風に動いていたのか。風を切って走る猫の姿。ねじ切れて死んだその魂。
頭を振って、幻想を払った。そんなことを考えて、何になる?
昨日結構無造作だったのにも関わらず、アキタはいつも通り接してくれた。大丈夫?と心配してくれた。
それでようやく笑うことが出来た。
昨日おっさんが早く寝かせたせいで、睡眠不足にならなかった。お陰で頭がよく回るし、不必要に周囲のことがよく見える。
取り止めのない話をする集団の中で、取り止めのない話をしていると、自分が鳥の群れの中にいるような気分になる。みんなと一緒にどこまでもどこまでも飛んでいく。でも行き先は誰にも分からない。
アキタがマサヨシに小突かれている。マサヨシがニヤニヤ笑っている。あいつ、そういうとこある。押しに弱くていじられやすくて流されっぱなし。
「やめなよ。アキタ困ってる」
「じゃあ何だよ。イヨタも気にならないのかよ。アキタの好きなやつ」
アキタの好きなやつ?アキタは好きなやつがいたのか。
「違う、違う。誤解だよ。そういんじゃないって」
「そういんじゃないって、だったら何だよ」
「それは、」
アキタが言うには、違うらしい。カフェで本を読んでいたのを見て、綺麗だなって思っただけらしい。
「雰囲気がさ、そう、雰囲気が、綺麗だなって」
「ふうん」
マサヨシが鼻を鳴らした。
「それってつまり、ヒトメボレだろ」
「違うよ〜」
アキタが困った顔で違うよ〜、違うよ〜、と繰り返し囀ってる。それをマサヨシが笑ってる。
結局、アキタは授業のチャイムが鳴るまでマサヨシに揶揄われ続けた。
お昼休み、余程マサヨシに揶揄われるのが嫌だったのか、早々に屋上に避難して、一緒に昼ご飯を食べていた。
屋上が開放されている高校は珍しいと思う。大抵は開放されていないのがほとんどじゃないか。扉に鍵が掛かっていたり、鎖が付いていたり、三角コーンが立てられていたり、生徒の安全と万が一にでも自殺者が出て、学校の評判が地に落ちないように。
でもなぜかこの高校は開放されている。それはこの街が自殺者なんて考えられないほど牧歌的で、ちょっと古い街だからかもしれないし、死ぬなら勝手死ねみたいな、学校の意思表示でもあるのかも。それはちょっと穿ちすぎかな。
今現在屋上にいる生徒は2人だけだ。アキタと2人。
空は晴れ上がって、日差しが少々厳しいけれど、風も凪いでいて絶好の屋上日和だと思うけれど、2人だけだ。
そも、屋上というのは、冬は寒くて、夏は暑くて、風が強くて昼飯が吹き飛ぶなんて日もあれば、屋上に巣食う鳥の糞が落ちてくることもある。
天候に左右されやすく、鳥が喚いているとなれば、誰だって自然と足は遠のく。だったら空調の効いた校内で食べたほうがずっといい。階段登るのダルいし。
みたいな感じで、屋上で食べるのは高校生活に憧れを抱いている一年生までだ。それも何回か経験したら、以上の理由から来なくなるから、7月にもなった今生徒は殆どいない。
2人でしばらく黙って食べていた。
聞こえるのは、鳥の飛び去る音と、鳥の着地する音と、鳥の鳴き声と、鳥じゃない何かの音だけ。
購買で買った菓子パンの味が口の中で広がる。自販機で買ったカフェオレで流し込む。
砂糖が欲しかった。体質にもよるけれど、砂糖は、人間が最も安価に手に入れられる麻薬だと思う。
そういうものが必要だった。何も考えないでいられる何かが、砂糖は、そのいくつかある手段の内の一つだ。
無心でパンを摂取していると、横でアキタが徐に口を開いた。
「イヨタもさ、俺がヒトメボレしたって思う?」
少し考えたが、秒で考えるのも面倒くさくなって口を開いた。
「いや、綺麗なものを綺麗って思っただけだろ、なら、違うんじゃないか」
「そうなのかな…」
自信なさげに呟くアキタを見て、深く考えずに言った。
「もう一回見れば分かるんじゃないか。見れればだけど」
アキタはその言葉に、何か閃いたみたいに、俯きがちな顔を、勢いよく上げた。
「なら、一緒にその人を見てほしい!!」
一瞬度し難いその言葉を理解出来なかった。が、アキタはこう言っているのだ。一緒にその綺麗な人を盗み見てほしい、と。
「なんだってそんな突拍子もないことを」
呆れたような眼差しに、アキタは大慌てで返事をした。
「いや、だってさ、比較しなくちゃ俺のこの思いが恋かどうかなんて、分からないじゃないか」
最もなことを言っているようで、納得しかけたが、アキタはただ、臆病風に吹かれて自分も巻き込もうとしてると気づいた。
いや、確かにその思惑はあるのかも知れないが、根底にあるのは単なるヘタレだ。アキタはその綺麗な女性を1人で垣間見ることも出来ない。純真なジャパニーズ男子高校生なんだ。
納得したフリをして、軽く頷き、ついでに分かったよと投げやりに返事をした。
「ありがとう!!」
アキタはまるで救いを見つけたかのようだ。実際そうなのかも知れないけど、ちょっと大袈裟すぎる気がする。
その後は、安心したアキタが色々話しかけてきて、授業のチャイムの数分前まで2人で話した。
教室に帰ってきた途端、午後の気怠さと砂糖による血糖値の急激な上昇が全身を襲って、残りの学校時間を緩やかに消化した。
アキタには投げやりに返事をしたが、放課後予定ができたのは素直に嬉しかった。
普段はすることもなく、金もないため、もっぱら図書館で漫画を読むか、川辺をぶらぶら歩いたり、スマホゲームしたり、TVみたり、宿題したりして、暇を潰している。
特にやりたいこともない。
だから、部活にも入ってない。いや、入ろうか考えたことはある。
見学に行こうかとも思って、楽そうな漫研の部室を覗いたことがあった。
みんな楽しそうに、お菓子と漫画を持ち寄って漫画を読んでいたり、イラストを描いていたりしていた。
机に投げ出された漫画は、今話題の最新作ばかりで、図書館の手塚治虫等の古い漫画しか読んだことのない身としては、この輪に入れないことは明白だった。
そんなこと思いつつ、結局は、まぁ、臆病風に吹かれたのだ。
それに、楽しそうにキラキラしている彼らを見て、なんだか自分が空っぽな人間である改めて分かった。だから逃げた。一言も発さずその場を去った。自分が空っぽな人間なのは、百も承知だが、だからといって直視したい訳じゃない。
アキタはご機嫌で先導していた。足取りがスーパーボールをぶん投げてあちこちに跳ね返っているくらい軽い。
「今もその綺麗な人はカフェにいるのか」
発した疑問にアキタは歩くのをやめて答えた。
「いるよ」
はっきりとした断定口調だった。
「その人はいつもカフェのテラス席で本を読んでいるんだ。でもそれを思い出したのは今日だよ。今日突然、その人がその…綺麗だと思ったんだ」
「ふーん」
割に暇人なんだ。その綺麗な人。
国道に続く道なりはたくさんの店が並んで騒々しい。
3つ挟んだ交差点の角に、大手のカフェチェーン店が見える。
綺麗な人はそこにいる。アキタはあんなに悩んでいたのが嘘のように迷いなく店の中に入ってカウンターで抹茶フラペチーノの注文した。
アキタがこちらを向いたが、首を横に振った。するとアキタは追加でカフェオレを頼んだ。
「おい、いいって」
「これぐらいさせてくれ」
いつになく頑ななアキタの口調にちょっと困った顔をして「じゃ、遠慮なく」と言った。
もうちょっと遠慮したほうが良かったかもしれないが、コーヒー店のカフェオレは初めてで正直言って興味がありすぎた。
アキタは慣れたように(実際慣れていると思う)会計をして、カップを貰うと、カフェオレを寄越した。
厚手の紙コップから伝わる熱に感動していると、アキタが右手と右足を出しながら歩いていることに気づいた。
いつになく声音が固いのは緊張していたからか。
アキタの緊張がこっちに移ったみたいに、身体が若干固くなった。
少し早足で机の間を歩いて、角の二人席に座った。
アキタはやっぱり緊張しているようで俯いて、抹茶フラペチーノをちまちま飲んでいた。
店内の心地よいBGMと人の会話がさざなみのように聞こえてきて、こっちは緊張が解れてきた。
初めて飲むコーヒー店のカフェオレは、甘さが自販機のそれと違って上品な感じがした。丁寧に作られた味がして幸せだ。端的に言ってもう自分は満足してしまっている。
アキタが意味深な目をこちらに向けて遠くを
見るようにチラチラ視線を動かした。
ちょっと忘れかけた当初の目的を思い出して、アキタの視線の先を一瞬だけ追って振り返る。
茶髪でロングの髪は、しっかりと手入れされている感じがした。目元は若干つり目で、ストローを咥えながらスマホを見ていた。
綺麗、美人だと思う。でもなにより目を引いたのは、爪に施された血より濃い赤のネイルだった。服は割と淡い色味のワンピースで、そのせいでなおさらネイルが目についた。
別に嘘をつく必要もないので、正直に言った。
「綺麗だね」
アキタはその言葉を聞いて嬉しそうな顔をした。そして困り眉で首を傾げた。
「でも好きかどうかはわからない」
「きっかけになるかもしれない」
そうは言ったけど、どうだろうと思った。アキタもどうだろうといった感じで、ぼやけている顔をさらにぼやかしてきた。
「あっ」
アキタがそう言って俯いた。
振り返ると、その人はイスを立って帰り支度をしていた。
アキタは俯いた顔をちょっとあげて、また俯いた。
その間にその人は会計を済ませて帰った。
「行っちゃった」
少し寂しさを含んだ声が、間延びした空間にひっそり溶けた。
カフェオレの甘さがまだ口の中に残っていた。
あれからアキタは、漫画の上の空みたいな絵図で日々を暮らしている。授業中は頬杖をして窓の外を見ているし、何度か呼びかけないとこちらに気づかない。
でもそうしているときのアキタの顔は、いつもより輪郭がしっかりしているような気がした。ぼんやりの顔に、輪郭が上書きされたようだ。
あれからアキタとカフェに行くことは無かったが、アキタは度々行っているみたいだ。
そのたびに夢心地みたいな顔をしている。今日もアキタと相手を傷つけないとりとめのない話をしている。口を開くたびに、喉の奥で飲み込めないものを、無理に飲み込もうとする感触を感じる。
それがどういった類いの感情なのかは分からないけれど、少なくともアキタは彼女に対して明らかになにかしらの感情を抱いている。人はそれを恋と呼ぶのかもしれない。
アキタはそれを口にすることはなかった。
マサヨシに揶揄われてもうっかり口を滑らせなかった。
アキタが存外自分の気持ちを大事にする奴だと、そのとき初めて知った。
明け方の空は、どこか空々しい。もちろん、優しくこの世界を照らす太陽にはなにも罪はない。ただの気の持ちようだ。だけど夏休みに入って本格的にすることもないと、自分が一日中何も考えずに生きているゴミのように感じる。つまり、居場所がないことでより孤独を感じてしまう。
それでもこんな時間に目覚めるのは久しぶりだ。時計を見ればまだ5時前。
隣の布団ではおっさんが口を半開きにして寝ている。無精髭が顔の下半分に生えていて、それを毎朝剃ってるのかと思うとちょっと笑える。
おっさんの口を人差し指と中指で閉じた。そのままなんとなくおっさんの顔を見つめた。
別におっさんの顔なんか見ても面白くないけど、寝ている姿は明け方の光によく合っていた。
変に目が冴えてしまった。
いつも通り、身支度して、パンに蜂蜜を塗って食べ、牛乳を飲んで、そっと家を出た。
まだ明け方のせいで陽射しは弱く、そこまで暑くない。湿っぽい空気も感じなかった。ずっとこうだったらいいのになんて、無意味なことを思ってしまう。
アパートの周りは住宅街で誰一人外に出てなかった。そのせいか、仄暗さを帯びる家々にどこか圧迫感を覚える。
自然と足は建物のない川辺に向いた。名前は知らない。大きくも小さくもない、普通の川だ。雨で増水するので、ちゃんと堤防が整備されてはいる。
昼よりマシだが虫の音がする。草刈りしたばかりの地面をサクサク踏む。
あてのない散歩で時間を潰すことは、暇なときによくやる娯楽だ。
散々歩いてクタクタになって、布団に身体を投げ出すと、爪先から溶けてくように感じる。そういう日は、夢も見ずに寝れる。それがとても心地いい。
頑丈に建てられた鉄筋コンクリートの橋の下で、初めて人を見つけた。
口の先から煙が上っているので、煙草を吸っているのだろう。髪も長い。女性かもしれない。何気なく通り過ぎようとしたとき、その人の正体に気づいた。その人は、アキタが綺麗だと言った人、アキタが好きかもしれない人。
先程より近くなった距離では、あの血より濃い赤のネイルが仄暗さにひっそり潜んでいるのが分かってしまった。
少し迷って、やっぱりそのまま通り過ぎることにした。アキタの恋を応援するには、ここで話の一つでもして個人情報をゲットするのが友達ってもんだろうけど、アキタはそんなこと望んでいないような気がした。それにこんな早朝に人と話したくなんかない。
会釈だけして通り過ぎた。
その数歩先。
一瞬虫の音も何もかも、周囲の音が途絶えた気がした。
その人の声だけが頭に響く。
「あなた、あの子の友達?」
振り返った先に、煙草を燻らせて川を眺めていた人が、ゆっくりこちらを向いた。
「最近、視線を感じるの。あの子から。嫌な感じじゃないけど、なんか気になって。あなた、あの子の友達?一緒にいたよね、前」
一瞬、息を呑んで応えた。
「アキタです。そいつの名前」
「そ、アキタ君。あなたの友達?」
「だといいなと思ってます」
間近で見たその人の顔は、たしかに綺麗だった。猫目の目はこちらを集中させる強さがあって、孤を描くような笑みとよく合っていた。
「あなたの名前は?」
「イヨタ」
「そ、イヨタ君。わたしはチカ」
チカという女性は、何度か瞬きして、ゆっくり口を動かした。
「アキタ君は、わたしのことが好きなのかな?」
嫌な事実を当てられたように、心臓がどくんと一鳴きした。
「…分からない。直接的なことは何も聞いてないので」
「そう」
チカは横髪を耳にかけて、少し俯いた。前髪がないから、まろい肌のおでこが朝日に優しく照っていた。
「そうじゃないかもしれないけど、アキタ君に伝えてくれる?もうカフェに行かない方がいいって」
「いいですけど、何でですか?」
チカは若干下り眉で薄く笑った。
「あ、いや、すみません。不躾でした」
「ううん、いいの。別にただわたしがもうあのカフェに行かなくなるから、無駄足踏ませるのもどうかなって」
「あ、そうなんですか」
会話の行く末が分からず、親指と人差し指を一頻り擦った。このまま立ち去ってしまいたかった。
「イヨタ君、ちょっと時間ある?」
諦めて手を宙に浮かした。
こんな不可思議なことが起きていいのか。分からない。しかし確実に言えることは、アキタが好きかもしれない人と早朝歩いている。今はもう時間が過ぎて、早朝とは言えないかもしれないけれど。
大分歩いた先で川から離れて、国道から少し離れた道に出た。周囲の喧騒が一気に広がる。そこから横道に逸れて、閑静な住宅街よりの奥まった場所に小洒落たカフェがあった。
営業しているらしく、チカは迷うことなくドアを開ける。入った瞬間、コーヒーの芳香が漂う。
シンプルなエプロンに身を包んだ店員が窓際の席を案内する。
座って窓の外を見ると、愛らしい原色の花々がプランターの上に咲き誇っていた。
「コーヒーを」
チカがこちらを見た。黙って首を横に振った。
「それじゃカフェオレを一つ」
口から言葉がまろび出るより前に、チカが言った。
「カフェオレが好きそうな顔だから」
口元が綻ぶのは、残念ながら隠せなかった。
「好きです」
店員は一つ礼をして、その場を去った。
「さて、何から話せばいいのかな」
チカは一呼吸置いてから、話し始めた。
そうそう珍しい話じゃないの。ただ昔から人より自律神経って奴が乱れがちでね。あ、イヨタ君は自分語りとか大丈夫な人かな。あ、そう。なら良かった。そう、それで情緒がいつもグラグラ湯気みたく茹だってさ。やんなっちゃうよね。ずっと五月病みたいな。年がら年中やる気ないの。ずっと怠くて重くて、このままずっと一生そうなのかななんて思うと酷く辛くなっちゃってさ。ある日ピンと来たんだ。
「死のうかなって」
チカは、新しいバックでも買おうかなっという顔で平然とその言葉を吐いた。
もちろん、本当にそうするつもりはないよ。本当に、いやマジで。でもそう考えるとさ、急に楽になったんだ。生きることとか、いや、そんな重いもんじゃないな、ほら、大学に行くとか、ご飯を食べるとか、あるでしょ。そういう日常みたいなもの。そういうのをこなすことが、一気に楽になったんだ。もう死ぬんだから別にいいじゃん。みたいな。投げやりになっているわけじゃないんだけどさ、開き直りみたいなもんかな。今までずっと結構苦しくてさ、だから本とか音楽とか映画とかアニメとか漫画とか、あと不健康だけど酒とかタバコとかに逃げてたわけ。でもそれをする必要がなくなったの。だから、あのカフェにはもう行かない。
訥々とした喋りが終わって、チカはこちらをじっと見つめた。多分、これは正しくなくて、これがチカの普段の態度なんだと思う。でも、見つめられ続けることに慣れてないから、どうにも落ち着かない。チカの話にも、落ち着かない。背筋が少しむず痒い。
気づけば結構時が経っていた。チカが一つ喋る毎にコーヒーを飲むせいだ。それにトイレにもよく行く。カフェオレを3杯も飲んで、トイレに行った。トイレは清潔で綺麗だった。花の香りがした。
「またちょっと歩こうか」
チカは席を立った。お会計する後ろ姿に少し胸が嫌な鼓動を立てた。カフェオレはびっくりするくらい美味しかった。その分値段も相応だったから。
ドアを開けて、歩道を進むチカの後ろ姿は凛としていた。とても、死のうかな、なんて言った人には見えなかった。人は見かけじゃないとはよく言うけど、これは、少し違う気がする。
「どっか行きたい場所ある?」
「特に」
このまま1人になりたかった。1人になってこの話を焼却したかった。それか、忘れてしまいたかった。整理するのは、難しすぎる。
「ハハ、じゃあ適当に行くね」
適当なところ、という割にはチカの足取りは確かだった。橋を渡って、家々を抜け、林を過ぎて、田んぼの畦道を通った。十分くらい歩いたのかもしれない。でも十時間くらい経ったように思った。車の、アスファルトと擦れる音、川の音、そこではしゃぐ家族連れの人たちの笑い声、小鳥の囀り、虫の音、田んぼに近づくにつれ、カエルの鳴き声が大きくなっていく。そこにチカの鼻歌が聞こえる。ゆったりしたメロディーの曲だ。でも知っている。これはゆっくり死に逝く人を看取る歌だ。いつかは忘れたが、いつも図書館にいる爺さんに教えてもらった。じいさんは川辺で薄く笑ったチカのように、やはり薄く笑って、もう終わりが近い、死にたかないが、終わりが近い、なんて曲を聴き終えたときふとそう零した。いつのまにかじいさんはいなくなって、じいさんの指定席だった場所には、別の知らないじいさんが座っていた。
妖精の通り道みたいな、蜃気楼めいたものを感じていると、古びた一軒家に辿り着いた。ここが終着点らしい。そこそこ大きい、二階建ての家で、庭があった。庭には立派な松の木と、寄り添うようにもう一つの木があった。
チカが門を開けて、中へ入ってく。玄関の戸を右へずらして、靴を脱いで、廊下を歩く。
チカに釣られて入った場所は、他人の家の匂いがした。でも、全然嫌な匂いではなかった。
「麦茶でいい?」
徐に頷いた。そこに座って、というチカの言う通りに、座布団の上に座る。少ししてガラスのコップに入った麦茶が出てきた。置く時、カランと氷の音がした。
「ごめん。こんなところまで連れてきて」
「いえ、別にそんな」
便宜上の言葉は、上っ面をなぞって、木々のせせらぎに流れた。
「それで、どうだったかな?わたしの話は」
「どうって」
「イヨタ君が、どう思ったのかって」
「なんで」
「知りたいから」
感想なんて聞いて、何になるんだろう。チカの考えは分からない。さっきの話も分からない。何もかもが、分からない。
「チカが言って欲しい言葉じゃないかもしれない」
「それで構わないよ」
そうかな、そうじゃないかもしれない。誰でも、人の心なんて分からない。分からないから、分からないから、何もかも曖昧で、それが心地いいのに、チカは、何で、それを壊そうとするんだろう。
「分からない」
「分からない?」
「チカの言葉、何もかも、分からない。多分、ハッキリしすぎてるんだ。それが嫌なんだ。理解したくないなんだ。理解できない訳じゃない。きっと、多分そう思う時もあると思う。忘れたけど、そう思ってた時期もあった。そして、チカ、躁鬱みたいになっているのはチカだけじゃない。毎日薬飲んでいるのもチカだけじゃない。きっと誰だってそうなんだ。みんな見えないところで、足元の恐怖と戦っているんだ。それを眼前に出して何になる?真実は人を切り裂くって言うけど、チカのそれは臓腑を引き摺り出しているみたいだ。チカはすごい。ちゃんとそのことを考えて生きている。多分、誰も知らんぷりしているところと、ちゃんと真剣に向き合っている。それは体質によるのかもしれないけど、チカが選択したことだ。チカはすごいよ。でも、分かりたくない」
喉がカラカラ渇く音がした。それは幻聴だけど、チカの顔を見たくなくて俯いた。俯いた先には握り拳があった。その拳は震えていた。発したことのない激情が、喉を焼くようだ。
そのとき、チカのフッと笑う音がした。馬鹿にした感じじゃなかった。思わずチカを見た。周辺が遠のく。空間は伸びて、チカの目、目だけが鮮明だった。燃える炎の音がした。チカチカ、カチカチ、ボウボウ、吹き上げた火の粉が空に走った。
チカが静かに微笑んだ。
「ありがとう。そう言ってくれて、でも、そうなんだ。わたし、イヨタ君のこと間近に見たとき、なんて大人びた子なんだろうって思ったよ。捻くれているわけではなくて、イキっているわけでなくて、ある種の達観したものがあるなって思ったの。わたしの話も静かに聞いてて、人の話を聞ける人なんて、中々居ないよ。みんな話したがりばっかだから、嬉しくて、家にまで連れて込んで、感想とかも聞いちゃったけど、
そっか、あなた、ちゃんと子どもだよ」
それは、馬鹿にした訳ではなく、ただただチカの率直な感想だったかもしれない。でも、そのとき、何だか、全ての肯定されたような、心の底から浮き上がる激情とは違う何かが、身体を支配して、目が鮮やかになった。
それから少し、いや、結構取り止めのない話をした。明日には忘れてそうな話を、気づいたらずっと話してた。
チカは人差し指と中指でタバコを挟み、口元に加えた。ジュ。
片手でマッチに火をつけてタバコに潜らせた。
タバコの煙が一筋、木目の天井に昇る。
チカが怠そうにこちらを見た。
タバコを咥えている口元が少し歪に笑っている。笑いすぎて、上手く笑えてないのかもしれない。
煙を吐き出しながら、チカはタバコをこちらに向けた。
黙ってじっとしていると、可笑しそうにチカが手のひらを向けて、タバコと唇を合わせてきた。
吸いはしなかったが、タバコに苦い匂いが鼻腔をくすぐった。
苦い匂い、何もいい香りはしない。
チカが今度は声をあげて笑った。
多分、眉間に皺を寄せているのがおかしかったんだ。
チカはタバコを元に戻して、また吸い始めた。
天井に煙が上ってく。
数口吸うと、灰皿で火種を潰した。
まだ大分残っていたけど、チカは満足そうな顔をしていた。
すくっと立ち上がって、チカがクシャクシャと頭を撫ぜた。枝葉に頭を掻き回されているみたいな感触だった。
それが別れの合図だった。さよならも言わず、またね、もなく、チカという人は、そのままどこかへ行ってしまった。
きっともう2度とは会えない。
きっとそういう出会いだった。
チカを猫に重ねてみた。あの道路で亡くなった猫を。奇妙なオブジェを。
猫みたいに軽やかにその足はどこまでも進んでいく。でも彼女は猫じゃない。奇妙なオブジェでもない。死に方を探している、でもきっと死なない、日々を精一杯過ごす、ただ1人の人だ。
戸を開けると、外は暗かった。街灯が辺りを照らして、川には月が揺れて見え、家々の明かりが夜を照らしていた。
近くからも遠くからも虫の音がする。とても耳障りだ。
それが心地いい。
道路の片隅にある小石をポーンと蹴飛ばした。
石は歩道を渡って石垣に当たる。カコーン。
足取りが妙に重かった。
家に帰るのが億劫なのかもししれない。
目の前を羽虫が通り過ぎた。その拍子に、ふとチカの言葉が脳裏を過ぎる。
あなた、ちゃんと子どもだよ。
その言葉はずっと記憶の片隅ある。聞いた瞬間思った。きっと一生忘れることはない言葉だと。たまにそんな言葉がある。何気ない会話や所作が、その後人生のふとした瞬間に現れる。そんな言葉。CMソングに似ているのかも知れない。その言葉に、万人のキャッチーさはないけど、心のど真ん中を突き刺した。
まだ子ども、子ども。
何も知らない子ども。
世間を知らない。仕事を知らない。親を知らない。世の中の仕組みを知らない。お金を知らない。生活を知らない。大人を知らない。
知らないことが多すぎる。
いや、知らなければならないことが多すぎる。
気づくと、もう家に近かった。木造のアパートは、いくつか明かりが灯っていた。
もうおっさんは帰っているだろうか。
帰ってテレビを見て、夕飯を食べているだろうか。
スマホを取り出して時間を見た。午後11時、こんな遅くに帰ったことはない。
何か言われるかもしれない。何も言われないかもしれない。
帰るのやめようか。一晩くらい野宿でも、大丈夫だろう。
そう思ってスマホを開くと、電話の履歴が異様なほど溜まっているのに気づいた。
全部おっさんからだった。
固まった思考の代わりに、指が通話の表示をタップしていた。徐にスマホを耳元に近づける。ワンコールで繋がった。
「おい、今どこだ!」
声が若干二重に聞こえるのは勘違いじゃない。おっさんは木造アパートの前で立ち往生していた。
明らかに声に焦りが出てる。なんで?
「おい、返事しろ!大丈夫なのか?」
「あっ」
おっさんの再度の声に固まっていた心臓が乾いた音を立てて動き始めたような気がした。
おっさんは近くにいることに気づいていないようだった。結構近くにいるのに。おっさんがスマホ越しで喋っているのが見えるくらいに。
「なんかあったのか?怪我でもしたのか?それともただ、ダチと遊んでるだけか?おい、返事しろ」
「うっ」
「うっ?」
通話を切ってスマホをポケットに仕舞った。
おっさんの方に歩き始めた。足は億劫に、でもだんだん早くなって、ついに駆け足になった。
足音に気づいたおっさんが目を見開く。そのままおっさんの胸に飛び込んだ。
「おわっ!」
込み上げる衝動のままに、キツく抱きしめる。おっさんは結構胸厚で、胴回りがガッシリしていることがそれで分かった。
胸元に顔を埋めた先から、おっさんの汗とか体臭とか酒とかの匂いがした。おっさんの匂い。全部おっさんの匂い。実はちょっと、自分の匂いもする。
キツく抱いた腕を幾分か緩む。
「どうしたんだ、一体」
おっさんが乱暴に頭を撫ぜた。乱暴なのに、なんでこんなに泣きたくなるんだろう。
チカの言葉が、また頭をよぎった。またあのときの感情が身体を覆った。
あなた、ちゃんと子どもだよ。
そうだ。その通りだ。まだ子どもだ。子どもなんだ。でもそれでいいんだ。まだ子どもでいたいんだ。守って欲しいんだ。
途方にくれるおっさんを尻目に、強く思った。強く願った。
まだ、大人にはなりたくない。
完