見覚えのない道
今回のテーマが「帰り道」ということで、中学2年生の時の話をする。今まで誰にも言えなかった。今から10年ほど前の話だ。
同級生のA君が下校途中に行方不明になるという事件があった。彼は特に親しくもない、ただ近所に住んでいるだけの男子生徒だった。最後にA君を見たという目撃情報があったのは、私の家からそう遠くない住宅街だったため、母はとても心配し、私は彼が見つかるまでの間ずっと送り迎えをされていた。
A君は一向に見つからず、周囲も半ば諦めかけていたのだが、ちょうど3週間がたったころ、彼は突然帰って来た。失踪していた期間の記憶を全て失った状態で。誰に何を訊かれても、A君は「何も思い出せない」と言うだけだった。
A君が学校に顔を出したのはその一日だけで、すぐに学校に来なくなった。理由は何も聞かされなかったが、教室にはなんとなく不穏な空気が流れたのを覚えている。噂によれば、彼は何かの「治療」のために遠くの町に引っ越したのだという。警察の捜査をもってしても、この事件の全貌は何ひとつ明らかになることはなかった。彼を誘拐した人物も浮上せず、何か事故に巻き込まれた形跡もない。私は噂でそう伝え聞いた。
やがて私は母の送り迎えから解放され、自分の足で歩いて下校するようになった。ちょうどA君が戻ってきてから二週間ほど経った頃だったと思う。あの奇妙な道を見付けたのは――
家まで数百メートルの地点に丁字路があり、いつもそこを左に曲がって帰るのだが、その日、私は奇妙な事に気が付き足を止めた。本来行き止まりのはずの場所に真っ直ぐ道が続いており、十字路になっていたのだ。辺りは閑静な住宅街で、道が続いている場所には本来家が建っていたのだが、その家も始めから無かったかのように、綺麗に取り払われ、両側を高い塀に挟まれた長い長い一本道がどこまでも続いていた。
道を間違えたのかと思った。しかし他の家や景色にはしっかり見覚えがある。では見ない内に新しい道が出来たのだろうか?とも考えたが、そもそも昨日までこんな道はなかったのだ。もしそうならあまりに仕事が早すぎる。
こっちに行ったら何があるんだろう。
私は好奇心を押さえきれず、その道へと歩みを進めてしまった。我ながら馬鹿な事をしたと思う。冷静に考えればおかしいはずなのだが、この時の私は少しも恐怖を感じていなかったのである。それどころか、妙にわくわくしていた。
道の両側は高い塀があるだけで、その向こうに何があるのかはわからなかった。道の先は霧のようなものがかかっているのか、白く濁っていて見通せない。それでも私は歩みを止めなかった。
霧はどんどん濃くなり、やがて辺り一面をすっぽりと覆い隠してしまった。目の前が真っ白になるほど濃厚な霧に包まれて、身体中がじっとりと湿り気を帯びたところで、やっと私は我に返った。ここはおかしい。そう思って引き返した。しかし、どんなに歩けども元来た場所に辿り着けない。この道に入って5分ほどしか歩いていないはずなのに、引き返してから十分、二〇分と経ってもずっと霧の中から抜け出せないのだ。何も見えず、何も聞こえない。恐ろしかった。無の重圧に押しつぶされ、半ばパニックになってしまった私は、右へ左へと闇雲に歩いて回った。すると、道の両側にあった塀すらもすっかり無くなっていることに気が付いた。道ですらなくなっていたのだ。どこに行くこともできず、私は絶望し、どうしようもなく恐ろしくなって、その場に座り込んで泣いてしまった。
どれくらいそうしていただろうか。もう一生家には帰れないかもしれないと諦めかけていた時、ふいに鈴のような音を聞いた。音は段々とこちらに近付いてきており、私は人が来たのかと思って急いで立ち上がった。そのまま音のする方へ足を進めたのだが、音の正体が目に入った瞬間、「あっ……」と声を漏らして後退りした。
いったい、何と説明したら良いだろう。そこにいたのは人ではなかった。あんな生き物は今までに見たことがない。人間によく似た胴体に無数の蟹のようなゴツゴツとした足が生えており、頭はまるでカマキリのような逆三角形で、真っ黒な目玉が2つ付いていた……ように思う。霧の中でそこまで鮮明に見たわけでもなく、ましてやまじまじと観察する余裕などなかった。飽くまで私の目にはそう映っただけなのかもしれないが、それはとにかくおぞましかった。こうやって特徴を羅列するだけで鳥肌が立ち、気分が悪くなるほどに。見上げた記憶があるので、大きさもかなりあったのだろう。
白い霧の中に佇む大きな灰色の影は、ムシャムシャと何かを食べている最中だった。生臭く酷い悪臭が鼻を掠めた。鈴の音は、2本の足で器用に持ち上げている物体から聞こえており、それが強靭な顎で物体を引きちぎる度にチリチリと乾いた音を鳴らしている。その物体がいったい何なのかは考えたくもなかった。
私は走った。声も上げず、脇目も振らず、方向も考えず、とにかく一心不乱に走った。だが、その生き物は私の行く先々に現れた。一匹だけではなかったのだ。何もない真っ白な世界の中に突然現れるおぞましいそれは、私の心をへし折るには十分すぎるほど恐ろしかった。やがて私は疲れ果て、とうとう霧の中に倒れこんだ。乱れきった呼吸を何とか整えようとしていると、無数の足音がゆっくりとこちらへ迫ってくるのがわかった。
私は固く目を閉じ、普段は殆ど信じてもいない神に祈った。殺されたくない。死にたくない。どうか助けてください。必死にそう願った。
足音は私のすぐ近くで足を止め、何やら話でもするように、ゴニョゴニョと鳴き声のようなものを発し始めた。もう駄目だ……そう思った時だった。
凄まじいクラクションが辺りにこだましたのだ。私はびっくりして反射的に顔を上げた。一台の黒い車がこちらに向かって突っ込んできたかと思うと、一匹のそれを勢い良く撥ね飛ばした。まるでおもちゃのように首がもげ、真っ赤な鮮血が火花のように辺りに飛び散った。この濃霧のなかどうやって車を走らせているのかわからなかったが、私は動揺すると同時にひどく安心し、無我夢中で車の方に駆け寄った。その時、はじめて数十体のそれが私を取り囲むようにして集まっていたことを知った。
「こっちだ!」
「早くおいで!」
車の窓から顔を出した30代くらいの男女2人が私に呼び掛けた。私は泣きながら車のドアを開け、なんとか後部座席に転がりこんだ。
「また入ってきちゃったのか。同じところの口が開いちゃったのかな。先月も同じくらいの歳の男の子が入ってきちゃってね。他のチームが保護したんだけど、大変だったみたい。でも大丈夫。元の場所に帰してあげるからね」
車を運転する女性がキリっとした顔つきで、ミラー越しに私の方を見て言った。A君だ。 すぐにそう思った。A君もあの道を見付けてこの世界に入り込んでしまったに違いなかった。
「彼は3週間もいたらしい。酷い話だよ」
助手席の男性がこちらを振り返りながら言った。優しそうな容貌をしてはいたが、その目の奥には光がなく、どこか冷たさがあり、絶対に信用してはいけない気配を感じさせた。
「君、いつからここにいるの?」
「数時間前からです」
「おお。じゃあ、まあいっか。でも念のため聞くけどさ、君はアレ、食べてないよね?」
「アレ……?」
「あの変な生き物だよ。食べられた形跡のある死骸があったからさ」
あれを食べるだなんて、いったい何を言っているんだと思った。だが彼は至ってまじめに質問しているようだった。
「食べるわけないじゃないですか」
私がそう言うと、男性は一瞬顔を強ばらせたかと思うと、ニタリと笑って前に向き直った。
その瞬間、私は背筋が凍りつくような悪寒に襲われた。そういえば、A君はこの世界で3週間も生き延びたわけだが、その間食事はどうしていたのだろうとふと気になった。そして少しだけ考えて、すぐにやめた。
「あいつら、強そうに見えて結構簡単に殺せるからね。首とかすぐもげちゃうんだわ」
女性が言った。
「あの、この世界は何なんですか? あの生き物は? あなた方は平気なんですか?」
「ごめん。それは答えられないんだ。気になるだろうけどね。言ったら帰せなくなるから」
私の質問責めに女性は小さくため息をついた。そして暫くの間、沈黙が続いた。
「……よく運転できますね。すごい霧なのに」
「ナビの通りに進めば意外と大丈夫なんだよ。ほら、もう着くよ」
女性がそう言うと、一気に霧が晴れ、いつの間にか元いた丁字路に戻っていた。日はすっかり落ち、街灯には無数の蛾が集っていた。例の道は塞がっており、いつもの家があるだけだった。
「じゃあ気を付けて。何事もないと良いね。もしかしたら夢に出るかもしれないけど、今日のことはあまり気にしないで」
女性は真っ直ぐ前を見据えたまま、目を合わさずに言った。私は車から降り、いつも通り家に帰った。帰りが遅くなったため、母からは酷く叱られたが、とても本当のことを言う気にはなれなかった。
あれから10年の月日が経つが、今でもあの日のことは頻繁に夢に見る。いい加減我慢の限界が来ている。あの時点で既に手遅れだったのかもしれない。長い長い時間をかけて、奴らは私の脳を蝕んでいるのだ。
夢の中で、私はあの奇妙でグロテスクな生き物に何度も何度も襲われている。何度も何度も何度も。こんな馬鹿げた話をしても誰も信じてはくれないだろう。私だって信じたくはない。だからここに「小説」として書き記しておく。素人の書いたオチのない創作だと思って笑ってもらえたら良いのだが、ひとつだけ約束してほしい。もし見覚えのない道を見付けても、絶対に通ってみようなどと思わないでほしいのだ。どこにつながっているか、わからないのだから。
無数のあれに飲み込まれる情景が目に浮かぶ。私を欲している。あの真っ黒な目の中に、私の姿が映っている。
あちらの世界が何なのかはわからないが、私を完全に帰してはくれないようだ。