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君への手紙

君の声が空を舞う

作者: まさかす

 私はとある人のラジオ番組を、毎週かかさず聞いている。その人のその番組はゲストやアシスタントといった人がいる訳では無く、その人が1人で担当している。他の番組で以って、その人が他の人と絡んでいる番組を聞いた事もあるが、その際には終始可愛い声を聞かせてくれていた。だが1人で担当しているその番組に於いては、ラジオという姿が見せない媒体である事、且つそこに1人でいるという安心感からか、地声で話す事も多く、地声のままに笑う事も多かった。

 浮いた話も無く、未婚のままに40歳を超えているその人の笑い声。それは年齢相応と言えるような笑い声。とはいえ、それを聞いていると心が和む。スピーカーから聞こえるそれら地声を含むその人の声が、私に一時の安らぎをもたらす。


 私から見て「2次元の人」と言えるその人は、そういった職種にありながら人との付き合いが苦手と言い、インドア派の引き籠り体質だと自ら言う。

 プライベートな情報はどうでも良い事以外は余り口にはしないが、時折話す過去を含めたプライベートな情報から判断するに、私から見れば十二分にリア充と言えるその人は、「自分はリア充では無い」と強く言う。そして周りのリア充と言えそうな人達の行動に疑問を抱くと共に距離を取るという。だが一連のそれらの言葉からは「本当はそのリア充の輪の中に入りたい」と、そういう気持ちがひしひしと伝わってくる。その人はそう云った矛盾するような事を度々口にする。時折そう云った矛盾を指摘されると、可愛くとぼける。そして僻みからなのか自己嫌悪からかは不明なれど、リア充と呼べる人達をディスり、自身のファンをディスり、そして自分をもディスる。といっても、それはあくまでも軽めの可愛いと言えるディスり。私を含めたその番組のリスナーは、その人がそういう人であるという事を知っているであろう事からも、その人がそう話す様子はそれはそれで面白く、そう話す姿を想像するに、微笑ましく且つ可愛い姿が想像出来ている事だろう。


 そんなラジオを聞いていて、ふと「その人もいつかはこの世から消えるんだな」と、そんな事が脳裏をかすめた。自分も人生の折り返し地点をとうに過ぎ、彼女もまた過ぎている。理由はどうあれ、それは自然であり必然。だがその人がこの世から消えたとしても、私を含めたリスナーの記憶にその人の声は残る。そしてそのラジオという番組のデータは未来まで残り、現代に生きる人々がいなくなる遠い未来まで、恐らくは残り続ける事だろう。


 当然、新しい物はその時点から生まれなくなる。過去のそれが記憶や記録に残っていたとしても、未来はそこで途絶える。そうした事は今迄にも沢山あったはずなのに、喉元過ぎればではないが、そういった「いずれは失う」という当たり前の事をつい忘れてしまう。そしてふとそんな当たり前の事を思い出すと、思わず感慨深くなる。今が永遠で無いという当たり前の事に、軽く落ち込む。

 少し大袈裟に言えば、歴史を学ぶという事は過去の人は凄かったなとか、酷い事があったなと感心するべきものでは無く、そういった過去を知る事で今へ生かす、又は過去の悲劇を繰り返さないが為に学ぶ物である。だがそれらの過去を忘れて同様の悲劇を繰り返してしまうのと同様に、そんな当たり前の事すらも忘れてしまい、ふと思い出すと感慨深くなって軽く落ち込んでしまう。


 ネット全盛の今の時代に於いて、ラジオを聞く人は少数派かも知れない。そして遠くない未来に於いては、ラジオという媒体は廃れ、若しかしたら消えてしまうのかもしれない。その遠くない未来、私と彼女のどちらが先かは神のみぞ知る所ではあるが、確実に私も彼女もこの世から消え去る。こちらがその人を一方的に知っているだけで、その人とは永遠に会う事は無いままに、互いにこの世から消え失せる。

 一度でもその人に会いたいかと問われれば「会ってみたい」と答えるかもしれない。だが私が知るその人の姿とは、あくまでもラジオという媒体を通して出来あがった姿である。きっと自分の中にあるその人の像と、実際のその人は多かれ少なかれ乖離はあるだろう。故に実際に会ってしまえば、自分の中にあるその人の像が崩れてしまうのではないかという不安がある。私は自分の中のその人を大事にしたい。その人の全てを知りたい訳では無い。故にどうしても会いたいとは思わない。いや、一度で良いから会いたいという自分と、会いたくないという自分が常にいる。とはいえ、簡単に会えるものでも無いのだが。


 未来に於いてその人がどのように評価されるのかは知るべくもないが、それはどうでもいい事。私は自分が消えるその日まで、空を舞うその人の声をただただ聴いていたいだけ。そして願わくば、その人よりも先にこの世を去りたい。更に願うとするならば、その人の訃報が永遠に、空を舞う事が無いよう願うのみである。





 そんな事が書かれた一枚の手紙があった。それは今から50年程前の2020年頃に書かれた物で、私の大伯父に当たる人物が書いた手紙。


 手紙に出てくるラジオという媒体。ネットの時代が来た事で、ラジオというメディアは廃れると言われていたが、幸い50年後の今でもそれは残っている。とはいえそれはエンターテイメント的な要素で残っている訳では無く、云わば国策として残っている。


 その手紙が書かれた時代、ラジオをアナログからデジタルへ置き換えようと試みた事もあったようだが、ネット黎明期とも言える時代と重なった事で、それほどラジオのデジタル化のニーズは高く無かった。デジタル化するには送信する機械を整えるのにそれなりの費用を要するが、収益性を考えれば簡単に出来る物でも無く、またそれを受信するリスナー側もデジタル対応機器を用意する必要があり、ネットの時代にそこまでして聞きたいというユーザーも少ないであろうが為に、結果ラジオのデジタル化は進まずアナログのままに残り、音波で発信すると同時に、それをネット配信するといった混迷とも言える状態にあったという。


 だが現代に於いても、ラジオ番組を音波とネットで配信するという混迷状態は続いている。ネット環境は全国津々浦々に整備され、当時とは比較にならない程に整備されている。それは領海内であれば海上でも容易に届く程である。そんな環境下に於いて、ラジオというメディアは本来不要かもしれないが、それが災害時の重要インフラと位置付けられた事で、今も国家の庇護の下に残っている。

 送信する側はそれなりの設備を要するが、受信する機械は安価且つ、それ程に電力を必要としないが為に乾電池1つで機能し、手回し発電した電気で以って容易に受信出来るといった物も存在する。そんな単純なアナログラジオであれば甚大なる災害時に於いても、重要な情報ツールとなると、そう政府に認識されていたが故に今も残っていた。


 それは電波の出力に比例して遠くへと届き、波長によっては山などの遮蔽物を回り込んで届き、電離層に反射すれば時に海をも超える。

 言う程に単純では無いが、知識さえあれば手作り出来そうな受信器。デジタルであれば正しく受信出来ないとまともに聞く事は出来ないが、アナログであれば混信するといったネガティブな要素は否定出来ずとも、少しでも電波を拾えさえすれば、ノイズ交じりとはいえ聞く事が出来る。それ故に緊急時に威力を発揮する。結局はそういったアナログ的な物が、最後まで残るのかも知れない。


 重要なインフラとして存続し、アナログの音波で以って毎日ラジオは放送されてはいる。だがそれをラジオの受信機で以って聞く人は多くない。それは全てのラジオ番組がネット配信されている為である。


 ラジオ番組その物は現代に於いても高く評価されている。映像媒体も良いが、こうした耳のみで聞く媒体は想像力を働かせる。どのような表情でしゃべっているのだろうか、愚痴っている表情はどんなだろうか、笑っている時の表情はどんなだろうかと想像させる。映像媒体に於いてはそれが弱い。音と映像で以って完成され、それをただただ受け入れるだけ。活字を読む、音のみを聞くといった物の方が想像力を働かせる。宙に映像を映すレーザーフロービジョンが当り前の現代ではあるが、そうした理由で以って、ラジオ番組といった物は今でも評価されている。


 そして大伯父が好きだったというラジオのパーソナリティ。その人は大伯父が亡くなった1年後に亡くなり、既にこの世にはいない。大伯父は願い通り、その人の訃報を聞かずに済んだという事だ。同時に、それは願い通りかは分からないが、大伯父はその人に会う事無く生涯を閉じた。そしてその人が亡くなってから10年が経っている今、そのラジオは今でも放送されている。それは過去の物が放送されている訳では無く、週末になると新たな物として、その人の声は空を舞っている。


 現代では故人を対象に、人をデータ化する仕組みが存在する。それは人造人間といった物を作る目的では無く、2次元で使用する。とはいえ、全ての人がデータ化されている訳では無く、それなりの思想や思考等の癖といった特徴を持った人のみがデータ化されている。そういった特徴的な癖が無いと逆にデータ化しずらいという逆説的にも思える理由で以って出来ないそうだ。いや、出来ないというよりは差別化出来ないといった理由で敢えてやらないそうだ。

 結果、エンターテイメント界で勇名を馳せていた人や、カリスマと呼ばれるような指導者だったりがデータ化の対象として選ばれる。そして大伯父が好きだったというその人も、思考等の癖に特徴があったという事で、データ化する対象として選ばれた。


 そのデータを利用する仕組みの1つに「Virtual Meet(仮想的に会う)s」という物がある。ディスプレイという平面、若しくはレーザーフロービジョンにその人の容姿を映し出し、データ化された「人」とリンクさせるというというその仕組み。それを利用すれば実体は機械ではあるものの、その「人」と直接会話をする事が出来るというその仕組み。

 そのデータ化された「人」は日常会話は勿論、何か質問すればそれなりに考え答えてくれる。そしてその「人」からも質問等を投げかけてくれ、人と見紛う程に豊かな表情も作り出しながらに会話できる。喜怒哀楽もその人のデータ通りに表現し、その時の会話もデータとして蓄積され、次に話す時にはその時の事を覚えてくれている。ネットからは最新情報を自動的に入手し、その人の思考パターンの下で解析し、それに対する意見もその人として口にする。そしてそれらデータ化された「人」は公共の資産として一般に開放されている。誰もが、それらデータ化されている「人」にディスプレイ越しに会い、会話する事が出来る。そしてその「人」が、ラジオのパーソナリティを担当している。


 一切年を取らないその「人達」は、云わば癖や思考パターン等を移植された、簡易的な2次元版クローンといった所だろうか。


 大伯父が好きだったというその人は、デジタル化された形ではあるが擬似的に今でも存在し、パーソナリティとしてラジオ番組を担当し、それが世に送り出されている。

 その人が生前にやっていたラジオのアーカイブ音源を聞いた事もあるが、その人の笑い方やディスり方といった特徴的な癖を含め、時折口にする自虐と思考パターン等、データ化されたその「人」は、それらを完全に再現していると言っていい程の出来であり、きっと大伯父がそれを聞いたとしても、それがクローンだとは見抜けないだろう。


 大伯父が好きだったというその人。既にこの世に存在しないその人の声は、今でも空を舞っている。


2020年09月07日 6版 誤字訂正他

2020年06月27日 5版 誤字訂正他

2020年06月14日 4版 誤字訂正

2020年05月03日 3版 ちょっと改稿

2020年04月29日 2版 ちょっと改稿

2020年04月26日 初版

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