価値観の違う人とは議論をしても無駄なのか・・・
それぞれの価値観に対して、それは違うと言っても仕方ないのですね。
よく言われるたとえとして、グラスに半分残ったワインが挙げられます。
「まだ半分も残っている」
「もう半分しか残っていない」
と、同じ現実を前にしながら、全く違う感想を持つのが我々です。
生物の生存戦略として考えるなら、ポジティブに捉える人は楽観視する事によってツライ現実にも耐える事が出来、明日への希望を持って生き延びる事が出来る可能性があるでしょう。
悲観的に捉える人は、だから将来に備え、未然に危機を防ぐ事が出来そうです。
逆に、楽観的な人はその場のノリで考えて死地に自ら足を踏み入れるか、悲観的な人は安全だけを考慮して、結局時間切れでゲームオーバーになる危険性もあります。
どちらが優れているとかではなく、どちらかが生き残る事によって人類という種そのものがこの世界で生存してきたのだと思います。
狩猟と採集が生活の基盤であった時代、どこに行けば食べ物が多いかは、部族の生死を分けかねない重要な判断だったと思います。
前に多かったからと考えて以前にいた場所に移るか、行った事がない土地に向かった方が良いと考えるか。
それとも、山から白煙が上がり、このままここに居たらマズイと考えるか、大丈夫だと思って住み続けるか。
どちらかが正解という場合もありますし、どちらでも良かった場合もあるでしょう。
また、どちらも駄目かもしれません。
しかし、種の全体から考えれば、それぞれがその時々に判断して別れていったので、結果として人類は滅びなかったと考える事が出来ます。
いくら資源が豊富で住みやすい環境であっても、一カ所に住んでいると何かの拍子で全滅しかねませんが、世界に散らばっていたらその危機を回避する事が出来ますので。
価値観の違いは遺伝などではなく、持って生まれた個体差や教育の問題かもしれません。
兄弟でも性格が違う事はありますからね。
それぞれが違うから意味があるというヤツです。
こんな事を考えたのも、価値観が違う人とはいくら話し合っても無駄に終わるのだなと、今更ながらに痛感したからです。
グラスに半分も残っているじゃんと思っている人に、たった半分しか残ってないよといくら訴えても、どうしてそんな悲しく考えるんだいと言われて終わったからです。
私は私の考えた事などをエッセイにしてますが、私がそう思った、感じた事に反対されても困る訳です。
明らかな事実誤認や数値の間違いについてはいくらでも修正出来ますが、個人の思想や信念は、なかなか変えようがありません。
何かの事件や出来事に関し、解釈の仕方はそれぞれの自由だと思うし、他人に強制は出来ない筈です。
反社会的な思想の流布であるといった、規約違反であったりしたら管理者に通報して削除なりしてもらえますが、そうでないなら思想言論の自由の筈です。
そんな考え方はおかしいだろと言われても、私はそう考えたのでどうしようもありません。
あの事件に対し、そんな感想は間違っていると指摘されても、私はそう思ったので仕方ない。
そんな相手と話し合っても時間の無駄になりがちです。
事実はグラスに半分のワインですが。
ワインが嫌いな人は「まだ半分も残っている(ウンザリ)」かもしれない。
ワイン好きは「おかわりしよう!」かもしれない。
金欠な人は「これで最後にしよう」かもしれないし、デートの最中だと「もっと酔わせてムフフな展開に」と下心アリアリな考えかもしれない。
好きなワインなら「ゆっくり心ゆくまで味わおう」の可能性もあるし、「マッズ、もういらん!」かもしれない。
それぞれがそう感じた事の否定は出来ないし、個人の感想を相手に押し付ける事も間違いです。
思想的なエッセイを書いている身としては反省すべき事も多々ありましたが、価値観の違う人といくら話し合っても意味がないと感じました。
「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前の中ではな」でいいです、お互いに。