005 ヨウタ・キサラギ5
導入の終わりです。おおヨウタよ、しんでしまうとはなさけない
少人数指導を重ね、彼女を取り巻く環境に踏み込めるようになって、絶望はさらに深くなった。
クレアはリープフェルト家の屋敷から通学しているが、そのさい侍女と護衛をひとりずつ伴っている。二十歳の侍女ヒルデと、十歳の護衛ジョージだ。この二人が最悪である。
侍女のヒルデは格下の貴族家の子女に対して、あたかも彼女自身が上に立っているように振る舞い、それを受け入れない子供を、彼ら彼女らの使用人を通じてクレアから遠ざける。なまじ彼女自身が美しく、頭もよく回るので、行動がことごとく狙いどおりに進む。結果として、クレアの周囲には侯爵家の威光を恐れる子供たちしか存在しなくなる。
ヒルデはナンバーツーの侍女ということなので、これらはすべて筆頭の指示によるものだろう。筆頭の指示がリープフェルト公爵夫妻の意向をくんでいないはずがない。この異常な行動は家ぐるみの意思と言ってよい。
ジョージは奴隷上がりで、クレアの側仕えとして特に許可を得て同じ教室で学んでいる。だが、彼は勉学にはいっさい関心がない。なにも学ぶことのないまま、ただひたすらにクレアを不快にさせる存在を見つけ、排除していた。
ジョージの行動において、クレアが実際に不快を感じているかどうかは関係ない。彼がどう感じたかがすべてだった。あり得ないほどの美少年で女生徒や女教師の人気が高いため、好き勝手に行動することを黙認されているのでさらにたちが悪い。
英雄としてのヨウタから見てジョージの戦闘能力が尋常ではないのがわかる。異常といってもいい。だが、彼はヨウタの前ではいっさいその力を見せない。十歳の少年がそこまでヨウタを意識するところが、また普通ではない。
クレアはどんどん孤立していった。物理的には、サクラのような取り巻きは存在する。ただ、彼女と同じ目線で話をしようとする生徒は一人もいない。ついには、少人数指導にクレアを含めることにさえ困難を伴うようになっていた。そこまでにヨウタが培ってきた英雄、そして教官としての名声がなければ、クレアは個人指導とせざるを得なかったかもしれない。そうなると、ヒルデやジョージの警戒心をかきたてていた可能性もある。
そしてまた少し時が過ぎ、いよいよヨウタは満を持してリープフェルト侯爵家に乗り込み、クレアの両親と面談する。いまのクレアを取り巻くすべてをなんとか軌道修正したいと、彼は自分自身のすべてを賭けて広大な屋敷に歩を進めた。そして、彼が今いる絶望の行き着く先に、さらにに深い絶望があることを知った。
クレアの父親であるカールと母親のシルヴィアはクレアを盲目的に溺愛していた。クレアのすべてを肯定し、彼女が一言文句をいうたびに家庭教師を変え、使用人を変える。彼女を全肯定しない同年代の子女を遠ざける。 二人とも、求めるすべてを満たすことが高位貴族の娘の育て方だと信じて疑っていない。侍女や護衛もその考えの基にの行動も二人の指示だ。
口先で他人を言いくるめることには自信があったヨウタも、このふたり相手には説得のきっかけもつかめず、ひたすらすれ違いを続けることになった。二人は娘の望みを叶えることには熱心でも、その望むものの方向性を導くことにまったく無関心だった。婚姻での娘の商品価値にしか興味がないようにも見える。
そして、先に気力を失ったのはヨウタのほうだった。
肩を落としてリープフェルト侯爵邸を辞そうとするその時、クレアの乗る馬車が玄関先に到着した。ヨウタは端に寄ってクレアが馬車から降りるのを待つ。クレアが姿をあらわし、ステップに脚をかけた。
……と、少しいらだっていたのか、いきなり馬が大きく身震いをした。振動は車に伝わり、クレアが大きくバランスを崩して足を滑らせた。そのまま横に倒れて身体が宙に浮く。落下して地面に激突する寸前で、ジョージが信じられない身のこなしで身体を下に入れ、クレアを受け止めて事なきを得た。
だが、ヨウタは固まっていた。クレアがバランスを崩してステップから足を滑らせた瞬間から彼女のスカートは乱れ、おりから吹きつけてきた強い風でまくれ上がった。そして、彼女がジョージに受け止められてもまだ大きく乱れたままだった。ヨウタの目は、さらけ出されたクレアの脚、そしてその少し上の白い布に釘付けになっていたのだ。
暴れた馬は、車外の騒動にさらに興奮し、綱を振り切って暴れだした。そして後ろ脚で立ち上がり、前脚を勢いよく振り下ろした。まっすぐに、ヨウタに向かって。
魔導師とはいえ、ヨウタも勇者とともに魔王を倒した英雄である。身体能力、特に危険回避の能力は常人を遙かに凌ぐ。馬の異常に普通に気づき、普通に回避していればなんの問題もないはずだった。だが、クレアの脚とほかの何かに完全に気をとられていたヨウタは、背後の異常に対してもただゆっくりと振りかえっただけだった。そして、自分に向かってまっすぐに落ちてくる馬の前脚を、ジッと見つめることしか出来なかった。
衝撃がヨウタの顔面を襲い、直後にヨウタの意識は真っ暗な闇に閉ざされた。
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