004 ヨウタ・キサラギ4
ヨウタの脳内の暴走が加速していきます。書いていて楽しくて楽しくt……(←ダメなやつ
「悪役令嬢」、それはヨウタの永遠の渇望であった。
正統派ヒロインは常に美しい。だが、その美しさはさまざまな力に守られ、それらと化学反応して輝きを増す美しさだ。もちろん、才がなければヒロインにはなれない。だが、彼女たちは勇者、国、民衆、あるいは神に愛され、守られ、力を与えられることで、自らの輝きをさらに磨いていく。
「悪役令嬢」は孤高の存在である。何ものの力も借りないその輝きは、孤独によってのみ磨かれる。正統派ヒロインの優しい輝きとは違う、ギラギラとした、他者をひれ伏させるような強さを持つ。ヨウタは、真っ先にその前にひれ伏す存在でありたい、できることなら自らの背を踏みつけてさらなる高みに行ってほしい、とずっと願ってきた。
ヨウタにとって「悪役令嬢」は美しくなければならない。「悪役」がカリスマを手にする上で美貌は必須であり、これは何をおいても必ず満たされなければならない条件だ。存在そのものが周囲より一段高みにあらずして、なんで「悪役令嬢」たりえるだろうか?
また、ヨウタにとって「悪役令嬢」は知識の吸収に貪欲でなければならない。あらゆる局面において知識で他者を圧する存在でなくして、どうして「悪役」を演じ続けられるだろうか? 「知らない」という言葉は、「悪役令嬢」はけっして口にしてはならないのだ。
さらに、ヨウタにとって「悪役令嬢」は愚かであってはならない。自らの考えを、持てる知識と広い視野を総動員して瞬時に理論武装できずして、どうして常に「悪役」を演じられるだろうか? そして、自分の言葉や態度が持つ意味を理解できない愚かな娘には、けっして「悪役」はつとまらない。
加えて、ヨウタにとって「悪役令嬢」は敗北を知っていてはならない。文においても武においても、一度でも敗北を知れば誇りに傷がつき、また敗北を恐れるようになる。それでどうして「悪役」がつとまるだろうか? 敗北を知った上での誇り高さもまた美しいが、ヨウタは興味がなかった。
一方で、ヨウタにとって「悪役令嬢」は愛情豊かでなければならない。自分を自分たらしめる環境をすべて愛することが出来ずして、どうして誇りを持って「悪役」を演じられるだろうか? 冷たい言葉の中に用意された逃げ道は、凡百の徒に示される道しるべなのだ。
つまり、ヨウタの思い描く「悪役少女」は、美しく、強く、誇り高く、甘えをいっさい許さず、自らの背で人々に進むべき道を示す存在なのである。けっして乙女ゲーのモブや、悪辣な振る舞いで悲惨な末路をたどる敵役であってはならない。
ちなみに、素直かどうかは必須の条件ではないので、ツンデレはあれば嬉しい、という程度の要因でしかない。ただ、正統派ヒロインは褒め、励まして導く。「悪役令嬢」は叱り、誤りを突きつけることで押し上げる。ちょっと捻れた人間でなくては、なかなかこんな損な役回りは演じられない。したがって、結果としてツンデレがおまけとしてついてくることは少なくない。
ヨウタはまったく気づいていなかった。自らの求める「悪役令嬢」像が、すでに「悪役令嬢」の範疇を大きく逸脱してしまっていることを。自らの求める「悪役令嬢」が、もはや「国母」といってもよいような存在であることを。
だが、仮にヨウタが勘違いをしているとしても、それはヨウタにとってどうでもよいことだった。ヨウタは、なんのためらいもなく自分の求める存在を勝手に「悪役令嬢」と定義していた。そして、いまのヨウタに何よりも重要なことは、クレアが「悪役令嬢」ではなく、将来の「悪役令嬢」でもないという悲しむべき事実がそこに存在することだった。
クレア・リープフェルトは美しい。幼女として美しく、しかも将来にわたって美しくあり続けることは疑いない。この点においては、彼女は条件を満たしている。
クレア・リープフェルトは成績は上の下で物覚えもよい方である。だが、この時点で複数の条件が満たされないことになる。知識の吸収は完璧でなく、群を抜く賢さもない。
クレア・リープフェルトは敗北を知らない。だがそれは、敗北した自覚がない、あるいは敗北を回避しているだけにすぎない。戦えば負けるとわかっていて回避するのは、敗北するのと同じである。
クレア・リープフェルトは自分のすぐそばのことにしか目を配れず、しかもその範囲ですら愛情は感じさせない。ダメダメである。
初等科までは生徒のダメさは環境のせいであると、ヨウタは確信している。
ヨウタはこれまで以上に慎重にふるまい、半年ほどかけてようやくクレアを少人数指導の対象にした。そしてさらに慎重に教導院における彼女を観察した。そして、たどりついた結論は、「手のつけようがない」という最悪のものだった。
クレアはもともと頭の回転も速い賢い子である。ただ、その頭をどう使えばよいかがわかっていない。おそらく入学前には家庭教師がついていたと思われるが、そいつの怠慢だ。
クレアの知識には偏りがある。貴族社会のどうでもいい知識は豊富なのに、身のまわりのちょっとしたことを理解するための知識が足りない。応用の利かない知識しか与えられていないのだ。
教導院において、クレアはおのれを全肯定する以外に能のない役立たずしか友人として与えられていない。彼ら、彼女らがそこにいるのは、それによって自分達におこぼれを期待できると考えているからにすぎない。全肯定は成長途上の「悪役令嬢」にとって百害あって一利なしだ。
そもそも「悪役令嬢」は孤高の存在であり、多くの友人は必要ない。必要なのは、「悪役令嬢」と対立しつつもその発言に存在する「利」を理解する「好敵手」のような存在だけである。
お読みいただいた方へ。心からの感謝を!