序章
遠目から見ればそれは怪物の舌先のようだった。
暗闇を舐める真っ赤な舌先だ。
燃えさかる炎を前に満天の星空もくすんでしまっている。
もしこの星空が神のキャンバスだというのなら、神はさぞかし不服にお思いだろう。
(まあ、仮に神がいればの話だが)
その場所は小高い丘に囲まれるように湖が広がりっていた。
炎が身をくねらせて盛大に踊るのは湖畔の街だった場所だ。
「あそこか」
数分前にキャッチした救難信号は絶え間なくつづいていた。それは躊躇うことなく炎の中心部へ向かう。
「遺跡に人間が暮らしていたのか」
ここに来る途中、満天の星の下を戦闘爆撃機HIX-03が飛び去っていくのを見ていた。
あれがわざわざ出撃したということは、ここにあった残存コミュニティは、それなりの大きさを誇り、地下にも人間の巣窟が広がっていたのだ。
戦闘爆撃機HIX-03は光を反射しないダークグレーの塗装が施されている。
この夜空のなかではきっとそれはポッカリと空いた穴のようにも見えただろう。
機体からは容赦のないミサイルが降り注ぎ、隠れ場所となる地下すら吹き飛ばし、生きている人間がいたとしても虫の息だ。
だが、救難信号は未だ止まない。
しかもこの救難信号は前時代のもので、いまはもう使われることのない忘れ去られた技術のはずだった。
基本的に現代の通信プロトコルはケルーブ・ハイ・ネットワークに接続することを前提とされている。
それを前提としない通信は、どんな強力な発信器を持とうともその信号を受信するシステムが存在しないため、あらかたがただ虚空をさまよう無用の長物になる。
そのため、この救難信号は公然のものではなく、ひどくプライベートなものだ。
近距離且つ、全時代の通信プロトコルを受信できる奇特なシステムを持ったものしか受取手に成り得ない。
それが偶然ここを通過しなければ、だれも受け取ることがなかっただろう一方通行の孤独なシグナル。
故に興味が湧いた。
影は身軽に爆心地のなかへ進む。
炎は最初の勢いを失いつつあった。
川べりにあった前時代の建築物――とはいってももともとが遺物だ。きちんとした建物の体はなしてなかっただろう――はひとたまりもなく砕けて欠片と化している。
十字架のようなシンボルも黒焦げになって地面に突き刺さっていた。
この場所にあったのは教会だったのかもしれない。
付近には人間の死体がやたら多く転がっている。
まだ生きている人間だっているかもしれなかった。
だがそれは気に留めることなく真っ直ぐに救難信号を追う。
死を目前にした人間がなにを思うのか、それにはわからない。
ただ不可思議だった。
こんな時代になってもなにもせずにいる神にすがるなんて、無駄な行為ではなかろうか。
なにかを踏んづけて、人間の手首だと気づく。
だが、それは避けることもなく石ころを踏みつけるようにそのまま歩きつづける。
元来、人間は感情豊かな生物だという。
その欲望が終末と人間たちが嘆く事態を引き起こし、情動がインテリジェンスよりも感情を優先させる。
なにを見てもなにを聞いても動じることがないのは、心がないからだろうか。
それとも、人間と深く関わりあうことなく過ごしてきてしまったからなのだろうか。
それは考える。
仮説は試みるにふさわしい。
この身体には道楽を認めるだけの長い年月が許されている。
ふと、ある場所に差しかかり、目を細める。
若木ばかりの林だった場所のようだ。
ほとんどが爆風のためなぎ倒されており、燃え始めている。
何者かの気配はしない。
だが救難信号はいよいよ強くなっていた。
「そういうことか」
どうりで戦闘爆撃機HIX-03の最新のレーダーからも逃れることができたはずだ。
基本あのレーダーは生きている人間を探知し逃すことがない。
それはなにもないはずの空間に向かって手を伸ばす。
目がくらんだ。
障壁は簡単に解除されない。
さすがHIX-03のレーダーから逃れただけある。
なかなかに強力なステルス機能が張られていた。
少しの干渉では破れたりしない。
それどころかジリジリとこちら側の意識を侵食してこようとしている。
指先からピリピリとした感触が入りこみ、腕を這い上ってくる。
「へえ……」
思わず口もとがほころんで舌なめずりする。こんなものが外界にあろうとは。
視界がブレる。
認識のエラーだ。
無視するよう命じる。
だがこちら側を喰らおうとさらに命令を上書きしてこようとする。さらにそれを上書きする。
上書き上書き上書き上書き。
処理速度で負けるはずがない。
つぎの瞬間、ステルスは砕け散る。
視界が現実を映しだす。
炎のなかで揺らめく人影のようなものを捉える。
救難信号の発信源は近づいていた。
あれは人間だろうか。
「なんだ、おまえは!」
「どっから湧いてきた!」
怪我をし、血まみれの男たちが動揺しながら怒鳴った。
目が血走っている。
そんなに興奮してはますます血が流れてしまうだろうに。
「落ち着けよ」
それは好意を表そうと笑った。
だが男たちにはその笑顔は不気味に映ったらしい。
似つかわしくない場所に、似つかわしくない人物、そして似つかわしくない表情――。
ただただ警戒心を煽る結果となる。
骨董品と言っていい道具を握る手に力がこもったのがわかった。
(ふう、やれやれ)
自身の失態に気づき、それは思った。
感情を慮るという行為は本当に難しい。