#09 カケルくんとタイラ先生。 #1
「モデルの人から口説かれたことってない?」
休憩時間、背中をうーんと伸ばしながら訊いてみた。したらカケルくんは呆れたような顔になった。
「そんなことに興味持ってどうするんですか」
「したってさぁ、真剣に見つめられたらさ。なんか、ウチのこと好きなんでない? って思っちゃったりして」
漫画とかドラマとかも、恋に落ちる瞬間って見つめ合ってるのが多いしさぁ。
「恋愛をすると、俺の比じゃない熱視線を相手から受けると思いますけど」
「そうかなぁ……だってウチ、熱い視線で見られたことないよ」
タイラせんせいが勉強教えてくれる時も、ウチのことだけ見てくれるから嬉しいけど、描いている時のカケルくんみたいな熱い視線って、もっと気持ちいい。
「それは多分、香織さんがまだお若いからですよ」と、カケルくんは立ち上がりながら苦笑した。
「ウチが子どもだって言いたいの?」
思わずほっぺたを膨らませる。
「まぁ……というより、そうじゃないということは、相手もそれほどじゃないということでは?」とカケルくんは肩をすくめる。
えぇ……そうなのかなぁ。
「じゃあ、そろそろ次の――」
「でもさぁタイラせんせ――」
その瞬間、お互いはっとした顔で見合った。
内緒だっけ。ヤバい、って考えていたら、カケルくんが先に視線をそらした。
「……聞かなかったことにしておきます――次のポーズですけど」
ポーズを変えてもらって、ウチはまたマネキンになる。
でもカケルくんの視線はさっきほどは熱くなかった。
* * * * * *
マネキンって筋肉痛になる。何日経ってもあちこちピキピキしてる。
「先生、さっきの課題なんですけど」
「あぁ、釘宮――いいよ、今日は空いてるから。どこ?」
タイラ先生と久しぶりに二人になった。できれば避けたかったけど、ほんとにわからない所があって。
でも『今日は』って言ってた。まさかウチの他にも教えてる子がいるの? 胸の中がモヤっとする。
「――したら、この言葉がここに掛かるってことなんですね」
身体を捻ろうとしたら、ピキって痛む。
「そう、わかってるじゃないか」と、先生は満足げな笑顔になった。
「先生は、ウチのことあんまり見つめないんですね」
「なんだい? 突然」とタイラ先生は笑う。
ウチだけでない。女子たちの誰にも、焼き殺すような熱い視線は送らない。大人だからと思ってたけど、そうでないのかも。
カケルくんにアドバイスもらってから、女の子っぽいよりも『女性的』に見えるような服装に変えてるけど――ママに「お洒落もいいけど、勉強してよねぇ?」って釘刺されたけど――、タイラ先生は、前より少しだけ授業中もウチの方見るようになったかなぁ、って程度だし。
「香織ちゃんだって僕を見ることがあまりなくなったじゃないか……寂しいな」と、先生は髪に触れる。
『ちゃん』付け、わざとらしい。タイラ先生が機嫌取る時のテだよね。
先生は髪フェチでないかなぁ。
ウチだけの時は気付かなかったけど、最近先生がよく話してる女子も脱色とかパーマとかしてない、真っ黒でまっすぐな髪の長い子ばかりだから。
したからウチは髪を切った。先生は名残惜しげにウチの髪を触るけど、前ほどしょっちゅう触って来ない。
やっぱり短いのは好みでないんだ……そやって考えたら、切ってよかったって気持ちと切らなきゃよかったって気持ちの両方で、心がモヤモヤしたけど。
「ウチのこと、熱い視線で見る人がいたらどうしますか?」
「そりゃぁ、どっちを好きになるのかは香織ちゃんが決めることだろう」
先生はブラウスの袖を指先で引っ掛け、ウチの腕をそっとなぞる。
「他の男に――なんて考えたら悲しいけどさ。香織ちゃんが幸せになるなら、僕はそれで」
タイラ先生はずるい。いつも、自分が悪者にならないように上手く立ち回る。
「香織だけだよ」って囁いた言葉、きっと他の子にも同じようにしているんだ。
「――だから、絶対誰にも内緒にしておいてね」
甘い声で、女の子の心に鍵を掛けさせて。
* * *
「……なんで毎日来るんですか?」
カケルくんは煙草をくわえながら出て来た。
「したって帰り途中だし」
今日はカケルくんの呆れ顔に対抗できるくらい、ウチのほっぺたは膨れてる。ついでに眉間にもシワが寄ってるし。
「まっすぐお帰りなさいな。親御さんが心配なさいます」
でも膨れてることは何も訊かずに上げてくれるとことか、カケルくんは優しいと思う。
「ウチ、心配されないし」
「そんなことないですよ。先日も、お礼を持って行くようおっしゃったでしょう?」
カケルくんは出してあったグラスに麦茶を注いで渡してくれた。
「それはさぁ、うちが客商売だからしょ? 世間体っての?」
「香織さんを大切に思ってることには変わりありませんよ」
そうかなぁ。どうかなぁ。
「でもウチ頭いくないからさぁ、兄貴ほど大事でないよ。ウチは高校卒業したら就職しなきゃないし」
「お兄さんがいらっしゃる?」
「うん、ウチ、五人兄弟の二番目なんだ。兄貴は今高一、あと小五の妹と、弟が三歳。んで、今年もうひとり妹が生まれた」
カケルくんは、しばらく右斜め上を眺めて黙っていた。
「ご両親は、割とお若いのですね?」
「んん……ママは今年三十八だよ。パパはそれの五つ上――あ、ママ若いのか」
「賑やかそうです」
ふっと楽しげな笑顔になった。
「そんな顔もするんだぁ」
ふわっと優しい気持ちになる。でもカケルくんは指摘されたことが気に入らなかったらしくて、ムッとした。
「……だから、どうしていちいち」
「いやぁ、なんか普段ぶすーっとしてるから?」
「なんでもない時にヘラヘラと――」
「そうでなくてさ、カケルくんてなんか、ウチといるの、つまんなさそうで」
したら、カケルくんはポカンとしてウチを見た。
「――そう見えますか?」
「あ、ごめんね? ウチがそう感じただけなんだけど」
「いえ……」
そう言ったっきり、カケルくんは考え込むように黙ってしまった。
絵を描く準備も始めないので、ウチはメイクを始める。
いつも家に帰ってから練習してるんだけど、最近はここに来ててあまり時間が取れないし。
講習には大人っぽいメイクで来てる子もいる。ウチは背も小さい方だしメイクで少しでも大人っぽく見えればいいな、と思って始めたんだけど――最初はクレヨンで塗ったみたいになったりして、結構難しかった。
「……何やってるんですか?」
「んー? メイクの練習」
「そんなの、モデルには必要ないですよ?」
「わかってるけどさぁ……どう? だいぶ上手くなったと思ってんだけど」
ファンデーションとアイシャドウ。アイライン引いて眉毛も描いて口紅も塗った。チーク入れるのもいいんだけど、暑い時は普通に顔が赤みさすから、今はいらないかなぁ、って思ってる。
「どうでしょうね……」と、難しい顔で腕を組むカケルくん。
「えー、感想ぐらいくれてもいいしょや」
「じゃあ言いますけど、子どもにそんな化粧は似合ってませんよ――落として来てください」
「もー、意地悪だなぁ、カケルくんは」
どうせ、下手だからって言うんでしょ。
ムカついたから、ウチはメイクを落とさずそのままマネキンになった。