#12 嘘つきとウチ。 #2
ウチの視界はぐるぐるしてた。
その瞬間はわけわかんなくて……何があったかわかってるはずなのに、感触しか残ってなくて。
なんかふわふわと気持ちよかったんだけど――
煙草のにおいと、カケルくんの手の温度。
ほっぺたから顎を通って優しく撫でられて。
倒れそうになったウチは抱きかかえられて。
しっぽの辺りがむずむずして、力が入らない。
頭の中でリピートする、さっきのこと。
ふにふに。 ぺろぺろ。
はむはむ。 ざらざら。
「あ! ウチのファーストキス!」
「ばっ……声でか」
やっと思い出して叫ぶと、カケルくんが慌ててウチの口を塞いだ。その顔があんまり近くて、ウチは目を見開く。
でもさっきはもっと近くて――うそ、夢、じゃないの?
「って……あんだけ挑発しといて、今更そんなこと言うのか?」
カケルくんは真っ赤な顔のままそう言うと、そっと手を外して離れた。
ウチも起き上がる。きっと今、ウチもトマトみたいに真っ赤だよ……と思いながら。
「はぁ……なんだよ。俺ばっか損してんじゃないか」と、カケルくんはうめきながら頭を抱えた。
「損? なして? ウチの初めて奪っといてさぁ」
何それ。なして落ち込むの? ウチに失礼過ぎるしょや。
さっきまであんなに気持ちがふわふわしてたのに。カケルくんにドキドキしてたのに……急にまたムカついて来た。
「奪ったって――さっきお前が、できるもんならしてみろって煽ったんだろうが」
カケルくんは情けない顔になると、背中を向けて新しい煙草に火を点けた。
腕組みをしながら思いっきり吸って、ふぅ~って勢いよく煙を吐いて、怒ったような顔で振り向いた。
「でもこれで本当に懲りただろ。わかったらさっさと帰って、もうここに来んなよ――そのうち、もっと大変なことになってたかも知れないんだからな」
そう言うと、ウチを置き去りにしたまま奥に引っ込んでしまった。
驚いて呆れて何も考えられずにしばらくぼおっとしてたけど、カケルくんが出て来る気配はなさそうだった。
ケータイを見たら六時近い。もう帰らなきゃ……
* * * * * *
講習の日に雨が降るとユウウツが二倍になる。でも家政科は嫌だし、農高に行くのはもっと嫌だった。
明日から数日間は塾がお盆休み。
ママもパパもお休みになって、じいじとばあばも一緒にお寺に行って、お墓参りして――
その前にカケルくんに会いたい。カケルくんの声を聞きたい。あれはどういう意味だったのか教えて欲しい。
でもウチはカケルくんを怒らせちゃったみたい……今更どうやって会いに行ったらいいのかわからない。
あれから倉庫には行ってない。
行ったとしても、もうドアも開けてくれないかも……そんなことになったら、ウチ、絶対立ち直れないよ。
カケルくんに会えないのがこんなにつらいなんて、全然思ってなかった。
ため息しか出ない。
「雨すごいねえ」と言われて振り向くと、タイラ先生だった。窓際に佇んでいたウチの近くまで来て、隣に立った。
「帰らないの?」
「傘、忘れちゃって」
「僕の傘使う?」
「いいです」
外の景色は薄い灰色。大きな山も雲の中。
息を吐いたら、少しだけ窓が曇った。
今朝は晴れてたのに。
「ねえ……なんで髪切ったのさ」
タイラ先生がそっとウチの首筋を撫でた。去年の冬休みまでは好きだった先生。好きだった手。
「暑いからですよ」
切ったのは三年に上がる時だったけど。
「ふぅん……まぁ、短い髪も似合ってるけどね、香織ちゃん。かわいいよ」
「……そうですか?」
タイラ先生には、ほんとはずっと付き合ってる彼女がいた。
なのに「香織はかわいいね」とか何度もウチを口説いてた。サイテーな嘘つきだった。
それを知ってから、ほんとは触られるのも気持ち悪い。見られるのも嫌。したからウチは髪を切った。
「最近ちょっと雰囲気変わったよね? 大人っぽくなった」
なのにウチはまだ先生に未練もあって、先生がウチのことほんとに好きなのか、かわいいって思ってるのか、何度も試していた。
でもそれってやっぱり何か違う、って思いながら。
「ウチ、まだ子どもだったみたいです」
子どもだから、カケルくんを困らせてしまった。
ウチが大人だったらよかったのに。
「高校に合格したら、どこにドライブ行こうかぁ……」とつぶやきながら、タイラ先生はウチの髪をすくい上げる。
「あ、それ、もういいです」
「え? どうして?」
先生の手が止まる。きっと眼も丸くなってると思う。
「もう、いいんです」
窓の外を見たまま繰り返す。
「ひょっとして彼氏でもできた? でも受験生だよねぇ?」
「彼氏はいません。受験生だから」
彼氏じゃない。カケルくんはそんなんでない。
ウチが勝手に好きなだけ。
もう嫌われちゃったけど……考えるだけで涙が出そう。
「じゃあなんで――」
「だって、先生の彼女さんに悪いじゃないですか」
口に出した途端、苦い笑いが出た。そのままタイラ先生に向き直る。
ハッとした顔のまま、先生は固まっていた。
「ウチ、そーゆーの好きくないんです」
「そう……」とひと言、先生はつぶやく。
やっと言えた。
これで肩の荷が下りた。
また窓の外に視線を戻す。
ふぅ……とため息をついたら、タイラ先生も短く息をついた。
「じゃあ、もうちょっと大人になって、遊びたくなったらまた声を掛けてよ」
……はぁ?
思わず先生を振り返ったら、クスクス笑ってる。
信じらんない。
聞き間違いだったらよかったのに。
「じゃあね釘宮。気をつけて帰って」
先生はいつもの営業スマイルに戻り、教室を出て行った。
なにあれ、サイテー。
なしてあんな人が先生やってて彼女までいるんだよ。
なしてあんな人を好きになっちゃったんだよ……
サイテー。
タイラ先生も、ウチも。
ほんとサイテー……
* * *
小雨になったので走って帰った。
でもやっぱり途中でまた大粒の雨になって来て、しょうがないから結局コンビニに寄った。
まだ決心がつかない。
「おばあちゃん、雨宿りしてもいい?」と、大声で呼び掛ける。
おばあちゃんが店の奥から出て来た。
「あれぇ香織ちゃん。傘貸したげようか?」
「いいの、すぐ帰りたいわけでないし、時間潰すついで」
そうだ。何かお土産買おう。
また水羊羹……は芸がないから。何がいいかな? お酒は買えないし。
「あの、じゃあ俺はこれで……」と、奥から男の人の囁くような声が聞こえる。
「あぁはい、したらね山本さん、ありがとう。したらこれ持ってって。コンビニではもうなげなきゃないから、早めに食べて」
「いつもすみません」
「なんもさぁ。うちも手伝ってもらってるしさぁ、お互いさましょ」
「いえ……」
小声で挨拶を交してそのまますり抜けようとした後ろ姿を、ウチは咄嗟に両腕で捕まえた。
「ちょっと! ウチに挨拶ナシで帰るつもり?」
「あれぇ、知り合いかい?」
「いえ、人違――」
「ちょっとカケルくん!」
三日振りに会えたカケルくんは、ひどく狼狽しているように見えた。




