悪魔の召喚
「さて、ファルレア。あなたは悪魔ですが、本来の悪魔とは違い、私が造った人造の悪魔です」
「うん、知ってる。物凄く認めたくはないけど、知ってるよ」
「くふふ。それはそうでしょう。あなたが生まれてもうそこそこの日が経つのですから、いい加減自覚してもらわなければ困ります」
くい、と眼鏡のズレを直しながら、クェルは満足そうに頷く。
彼女が僕になにかを教える時の眼鏡姿も見慣れてきた。もしかして形から入るのが好きなんだろうか。
怪しげにキャンドルの炎が揺らめく、暗い部屋。悪魔使いという言葉のイメージ通りにじめじめした場所で、僕はクェルの講義を受けていた。
お勉強だと考えると面倒にも感じるけれど、教えてくれるのがこんな美少女なら、少しいいかなという気持ちにもなってくるから、我ながら単純だ。
これで教えてくれるのが禁忌の技術なんてものでなければ、もっと良かったのだけど。
「ではでは、今回は悪魔召喚について教えます。造るよりもこっちの方が基本なので、ちゃんと覚えておくように」
「それ、必要なことなの?」
「今のところはありませんが、自分の仲間を見ておくのもいいでしょう?」
クェルは翡翠の瞳を細めて笑うと、懐から小瓶を取り出した。
中に満たされている液体は、濁った赤色。
「さて、ここに先日の買い物で購入したネズミの、新鮮な絞り汁があります」
「斬新な表現の血液だね……」
「搾りたてで、まだあったかいんですよ?」
そう言って、クェルは小瓶を頬ずりをする。
くふふと笑う声は、明らかに僕が嫌そうな顔をしているのを楽しんでいるしるしだ。
「まあ、いいでしょう。別にファルレアに悪魔を使役しろとはいいません。そもそもあなたはもう悪魔です。悪魔が悪魔と契約するという行為と、それによって発生する事象については実に興味がありますが、それはまたの機会にしましょう」
「僕は悪魔召喚なんて、絶対しないからね……」
「それは残念。でも、そのうち機会があるかもしれませんよ。どうせやろうがやるまいが貴方は人類の敵なのですから、その時が来たときのために知っておくのもいいでしょう」
こちらの意思を無視したように締めくくって、クェルは小瓶の栓を開けた。
撒き散らされる臭いは獣臭くて、鉄臭い。思わず顔をしかめるような濃密な血の香りを、クェルは迷いなく床にぶち撒けた。
赤色に汚れた床を、彼女はそっとなぞる。白磁のように美しく清らかな指先が血に濡れるけど、彼女は一切不快な顔をせずに、なにやら模様なようなものを描き始めた。
「さて、悪魔召喚にはいくつかの方法がありますが、今回はサイン――方陣を使うパターンです」
「方陣……?」
「悪魔にとっての家紋のようなものですね。この方法は悪魔への語りかけである詠唱をかなり省くことができ、悪魔使いの精神力の消耗も少ないですが……方陣を正確に描けなければ、悪魔を喚び出すことはできません」
「……絵心がないと喚び出せないってこと?」
「陳腐ですが、わかり易い言い方ですね。そう、美術は悪魔使いの必修科目ですよ」
くふふと笑いながら、クェルは床に血液で複雑な図形を描いていく。
描かれていく方陣とやらは、丸や三角、四角といったいくつもの記号を、一見すると無秩序に組み合わせたようにも見える、複雑なものだ。
「描くのに時間がかかりますから、急いでいるときなども不便ですが……ええ、これで良いでしょう」
「これ、家紋みたいなものってことは、悪魔によって違ったり……」
「もちろんしますよ。覚えるときは混同しないように注意が必要です。下手をすると、まったく予期していない悪魔を喚んでしまうこともありますからね」
言葉を紡ぎながら、クェルは懐からハンカチを取り出して、指先の血を拭う。どうやら描き終わったらしい。
完成した方陣は、一見すると規則性がなく、ともすれば記号を無数に重ねただけのようにも見える。
「では、続いて悪魔への呼びかけです。ここで本名を使ってはいけません。名は存在を現すものですから、気軽に悪魔に教えるものではありませんからね。だからこそ、悪魔使いはもうひとつの名前、ミドルネームを持ちます。私の場合は、クェル・フェル・エル……フェルというのが、悪魔を扱うときに使う名前です」
「……僕はすぐにフルネームを教えてもらったんだけど?」
「あなたは私の人造悪魔ですから、私に危害を加えられませんからね」
言われてみればそうか。生まれた時点で契約が確定している以上、人造悪魔の僕がクェルをどうこうはできない。
納得していると、クェルはこほんと咳払いをひとつ。そこまでの緩かった雰囲気を引き締めるようにして、真面目な顔になった。
どうやらいよいよ、悪魔を喚び出すつもりらしい。
「旧き契約に基づき、フェルたる我が、汝の扉を開く……ここに、一時の邂逅を……」
紡がれる言葉はどこか凛としていて、語りかけるというよりは、まるで尊い言葉を詠いあげるようにも見えた。
きぃん、と耳鳴りのような音がどこからともなく響く。机の上に乱雑に置かれたランプや本、よく分からない動物の骨などがカタカタと揺れる。
ひそひそと何人もの子供が囁いているような、聞き取ることが出来ない声がして、肌が自然と冷えていく。
「こ、これ、大丈夫なの……!?」
「普段はもう少し静かに喚べるのですが……くふっ、今日はサービスしておきますね♪」
「いらないよそんな演出の追加!?」
いつもの悪戯なのか、単純に悪魔召喚の基本的なプロセスを見せようとしているのか。
どちらにせよ、決して心地いいとはいえない、まるで出来の悪いホラー小説のような雰囲気を放ちつつ、儀式は進んでいる。
「さあ、おいでなさい――汝、現世での名は、サブルム」
なんらかの名前を呼ぶような言葉。それが紡がれた直後に、描かれた方陣が光を放った。
輝きは怪しく、血液と同じ暗い赤。
血が滲むようにして広がった光は、周囲に置かれた本や置物を、毒々しく彩った。
耳障りな音が強くなり、肌を撫でる不愉快さが増していく。
思わず細めた視界の中で、方陣の中からゆっくりと、それは現れた。
まるで濁った水の中から浮かぶようにして現れたそれは、体長は目測で一メートルあるかないかという、泥人形のようなものだった。
泥人形はのっぺりとした顔で、その顔に表情のようなものはまるで無い。ぎぎ、とぎこちなく右手を上げて、くすんだ人形は手を振った。
「これが、悪魔……」
「ええ。個々によって見た目は違い、下手をすると無形の者もいますが………。ちなみに、これは土いじりが得意な悪魔、サブルムです」
サブルムと呼ばれた悪魔は、こちらを見上げてゆっくりとお辞儀をする。
表情のない顔は正直見ていて気分のいいものではないれけど、ぎこちなく動く様子はどこか健気でもあり、気持ち悪いのか可愛いのかちょっと判別がつかなかった。
「あ……ぁ……ぅ……」
響いてくる言葉は少年のように高い声で、しかし意味は分からなかった。どうやら、話すのは苦手なようだ。
たっぷりと時間をかけたサブルムのお辞儀を見届けて、クェルは満足げに吐息した。
「では、契約に基づいてその力を見せなさい、サブルム」
言葉が響いた瞬間、空気が変わる。
冷え冷えとした空気はさらに冷たくなり、室内を包み込む。表情のない土くれの人形の顔が、どこかおぞましいもののように見えた。
サブルムを中心として、明らかに冷たい空気が流れてくる。
そして、悪魔は力を発揮した。
「っ……!」
ずん、と突き上げるような揺れが一度。
地震というよりは、なんらかの巨大な質量が地面へと落ちてきたような振動だった。
「贄も少ないですし、見せるだけなので軽くではありますが……今のがサブルムの能力の一端です。軽く地面を揺らすくらいなら、お手の物ですよ」
「……土いじりって規模じゃないと思うんだけど」
「見解の相違ですね?」
「クェルの見解の方が絶対に少数派だよ……」
「まあまあ、いいではありませんか、細かい事は」
細かくないとは思うけど、クェルはこちらの言い分を完全に無視した。
「このように、サブルムは土を操ります。ファルレアにも悪魔として、出来ることと出来ないことがあります。もしも自分の手では足りないと思ったら、別の悪魔の力を借りるのもありだということは覚えておいてください」
「なるべく、ていうか絶対に手を借りたくはないけどね……」
「あなたの氷と冷気は割と万能な部類です。そのふたつほどの強さではないですが、癒しの力も持っているので、困ることは少ないでしょうけどね」
クェルはくふふと笑って言葉を締めくくると、サブルムへと向き合って、ひらひらと手を振った。契約は終わりと、そういうことだろう。
「それではサブルム。いつも通り、契約の対価を持っていきなさい」
「う……ぅ……」
サブルムはやはりどこか油の切れたブリキ人形のようにぎこちなく頷くと、土塊のような身体をゆっくりと方陣に沈めていく。
出てきたときと同じように、どこか怪しい光を放つ方陣へと、サブルムは吸い込まれていった。
静寂が戻ってきた室内で、悪魔が去ったあとに残された方陣が、ゆっくりと消えていく。
床に染みるような消え方ではなく、まるで霧散するかのように。その場から消失していくのだ。
「……これが、対価?」
「ええ。これくらいのことなら、動物の血で充分ということです。常連なので、割引もききますしね」
「行きつけの喫茶店みたいだ……」
「くふふ。それでは、方陣は割引特典つきのメンバーズカードですね?」
悪魔の対価というのは意外なほど、フレキシブルらしい。知りたくもない知識と比喩を、またひとつ増やしてしまった。
そんなことを思ってげんなりしていると、クェルが小首を傾げて、
「それにしてもファルレアはいいですね。悪魔の血なんて貴重品ですから、手首を軽く切るだけでかなりの悪魔が喜んで従ってくると思いますよ?」
「絶対にやらないからね……!?」
「どうしてですか? どうせ多少傷ついても癒やしの魔法で治せるでしょうに。なんなら契約用の名前を私が授けてあげますよ?」
「傷がどうとかの問題じゃなくて、悪魔を使役したりはしないって言ってるんだよ……!」
微妙にずれたことを言ってくるクェルに少しだけ辟易としながら、僕は否定の声をあげた。
ファンアートもらえたので、後であげるかと思われます。