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初仕事からハードすぎてもう一度死にそう

「ひええええ!」

「もう。ちゃんと働いてくださいってば。契約違反ですよ?」

「無茶言わないで!?」


 僕にお姫様抱っこされたままで、クェルが不満気な声を出す。

 女の子の身体だ。触れるとあちこち柔らかい。

 けれどその柔らかさに対してよこしまな感情を抱くどころか、意識する余裕すらなく、僕は必死で足を動かしていた。


 ごうっ、という音が熱気を連れて背後から迫ってくる。

 炎ではない。けれど明らかに灼熱と言っていい息吹が、こちらに向けて放たれているのだ。

 背中に流れる冷たい汗が、熱気によって即座に乾いていくのを感じながら、柔らかい草むらを蹴って花を散らし、青臭い香りの中を切り裂くように疾走する。


 悪魔の身体は優秀で、女の子を抱えてももの凄い速度で走れることができていた。そうでなければ今頃、とっくにふたりとも捕食者のお昼ご飯になっている。

 腕の中のクェルはまるで興味がなさそうに金色の髪をいじりながら、僕の背後を指差して、


「知ってますか? あのタイプは炎ではなく熱気そのもの……高熱の吐息で獲物を蒸し殺して、半生程度に調理してから食べるんですよ。グルメですよね?」

「いらない! 今その情報すごくいらないよ!?」

「あ、枝毛みっけ……くふっ」

「聞いて!?」


 背後から迫ってくる脅威の食事方法なんて教えられても、自分が蒸し肉になる過程を想像できてしまうだけだ。

 ちらりと後ろを振り返ると、相も変わらずそれはそこにいた。大地をえぐるように駆け、僕らを追ってきている。


 熱された鋼を噛み合わせたように赤く、美しいとも言える天然の鎧を身にまとった巨体が、バランスを取るために尻尾を力強く振りながら走ってくる。四足移動で、見かけよりも素早い。

 ぎらついた瑠璃のような瞳は明らかに空腹を訴えていて、僕らを見据えていた。

 口にはたやすく肉を食いちぎるだろう鋭い牙がぞろり。その隙間からは、陽炎(かげろう)を伴う高熱の吐息が漏れだしている。


「グルルルルルゥゥゥ!!!」


 どう見てもドラゴンだった。

 まごうことなく捕食者の、絶対強者が背後にいた。


「まったくもう、情けないですね、ドラゴンごときでみっともない」

「ごとき!? みっともない!? あんなのに敵うわけないでしょ!?」

「今のあなたは悪魔ですよ。ふつうの人間だった頃のように考えてはいけません」

「ぐ……そうだけど、サイズ比考えてよ!?」

「ふう……模範的な常識人ですね。じゃあ、ちょっとだけ教える時間を作ります」


 呆れたようにそう言うと、クェルは空中をなぞりはじめた。

 明らかに先ほどまでのふざけた態度とは別人のように集中している様子だ。片手で髪を押さえるのは先ほどのような遊びではなく、抱きかかえられたままで走っているために髪の毛が暴れているのを鬱陶しいと感じてだろう。

 別人のように集中した表情で、クェルはなにかを空間に描いている。

 描かれる軌跡がなにを示すのかは分からない。ただ彼女が指を動かすたび、空気が明らかに冷え込んでいくのが分かる。

 竜の撒き散らす吐息で上昇していた気温が、下がっていくのだ。


「言葉よ響け、世界を揺らせ。想いよ届け、世界を満たせ。式を編む我、クェルたる我が願い乞う。今、一時の静寂を――」

「クェル、それは……!?」

「――滴る水の音すら、停まれ。【氷庭】!!」


 叫ぶように言葉を紡ぎ終えた瞬間、世界の一部が停止した。

 草原は氷の庭になり、ドラゴンはその巨体を冷たい檻に覆われる。僕らを睨みつけたまま、動かなくなる。

 まるでここだけが切り取られてしまったかのように、急激な世界の変化が起きたのだ。


「はい、これが魔術です」


 するり。猫のように僕の腕から抜け出して、彼女は氷原に下り立った。

 寒いのか、大きなマントの中で縮こまるようにする姿は小動物のように可愛らしい。

 そんな彼女に若干見とれていると、声をかけられた。


「魔術のことは分かりますか?」

「あっ……う、うん。身体の中にある生命の力……魔力で、奇跡を起こす力だよね」

「はい、大正解。この世界の人間が使う、この世界の(ことわり)に従った純粋な『技術』。それが魔術です」


 ゆえに、と彼女は言葉を繋げた。


「この世界のルールに則ったことしかできない。世界にささやき、祈り、詠唱し、念じることで、世界に許されなければその力は発揮されない」

「…………」

「しかし、あなたは悪魔です。人間ではなく、本来ならばここよりもずっと深遠な場所にいるべき存在。あなたは私が造りましたが、それでもあなたは悪魔です」


 そっと、相手から手が伸びてくる。

 触れてくるものを拒まずにいると、雪でできているかのように白く繊細な指が僕の胸をなぞった。


「名前は魂に、魂は肉体に、肉体は世界に。あなたのすべてはこの世界に有ります。それでも、あなたは紛れもなく悪魔です。クェルではなく、フェルの名で私が契約した、私の、私だけの悪魔」

「あ……う……」

「生まれるときに、しっかりと刻んであげたでしょう? ならば、高らかに吠えていいんですよ。だってあなたは世界に許されなくても、そうすることを選択できるのだから」


 心臓が砕けるかと思うほど、どくんどくんと動く。

 なのに、全身が氷のように冷えきっていく。

 自分が凍ったままで生きているかのような、不可思議な感覚。

 透き通るような(みどり)の瞳に魅入られたかのように、身体が動かない。

 揺れる視界の中で、ドラゴンを封じ込めていた氷に亀裂が走る。


「あ……」


 教える時間。そうクェルは言った。そして今彼女がなにも言わないならば、その時間はもう終わったのだ。

 びしびしと窮屈に不満を訴えるかのように、音を伴って檻が砕けていく。

 亀裂から吹き出す吐息は高熱で、氷を破砕するだけでなく、溶かすことで崩壊を加速させているようだ。気温が上がり始め、匂いが熱を持つ。

 僕はそれを見据えながら、ただ右の手のひらを突き出す。

 もう、身体は動いていた。


「……僕は悪魔だ」


 世界に愛をささやかなくていい。

 世界に許しを祈らなくてもいい。

 世界に想いを詠み唱えなくていい。

 世界に己のことを念じなくていい。


「僕は、悪魔ファルレア。世界よ――『黙れ』」


 ただ、言葉を紡ぐ。

 それだけで、すべてが静止した。

 檻から抜け出ようとしていた赤色(せきしょく)の竜は、檻よりも強固な氷の棺に覆われる。

 周囲には氷の柱すら立ち上り、氷原はもはや、花畑を閉じ込めた水晶の宮殿のような様相になっていた。

 花の蜜を味わう蝶すらも、そのままで留まった世界。

 あたりで動くものはなにもなく、ただただ静寂だけがそこにあった。


「よくできました。それが悪魔が使う、この世界の外にある法――『魔法』ですよ」


 僕の手を引いてくる小さな力に、僕はもう抗わなかった。

 望まれるがままに跪き、くちづけを受け入れる。

 悪魔として、契約を果たしたがために。

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