悲しみを凍らせて
「ギシャアッ!!」
相手が己の影から呼び出した人造悪魔、ゲルゼビュートは、僕とはかなり違う外見をしていた。
考えてみれば、それは当然のことだ。僕は人間の浮遊霊を素材として生み出されている。エウレカは犬で、悪魔になった今でも見た目が変わっていない。
つまり、人造悪魔というものは、素材によって大きく見た目が異なるということだ。
目の前にいる相手が、随分と大きな蠅に見えるということは、あの悪魔の素材はそういうことなのだろう。
「ぐっ……」
四本の腕による人外の乱打。受ける骨は軋み、喉は素直に苦悶をこぼすけれど、それだけだ。
人外なのはどちらも同じ。むしろ人間のような姿をして、これだけの打撃を受けてその程度で済んでいるほうが、よほど狂っている。
戦闘の経験なんてほとんど無いけれど、身体に設定された能力値が僕を助けてくれた。
「凍れ」
反撃のため、僕は悪魔の力を振るった。
人の形をしていなくてよかった。もしも相手が僕のように人間に似た姿をしていたら、人造悪魔と分かっていても力を振るうことを躊躇っただろう。
地面から生えるようにして立ち並んだ氷柱は、相手を貫くのに充分に足るものだった。
無数の氷に貫かれ、ゲルゼビュートは動きを止める。
「……よし」
「安心するのは、まだ早くないかい?」
「え……」
「ギュルルルルル!!」
底意地の悪い言葉が響き、ゲルゼビュートが吠える。
ぶちぶちと肉がちぎれる音がして、相手は無理やりに身体を引きはがす。
それだけならば、ただの自滅だ。けれど、相手はそこで終わらなかった。
「ひっ……」
「ぐるるっ……!」
「……醜悪な。エウレカ。主を連れてここから離れなさい。あれはあまり見てはいけないものです」
イストリアが明らかに怯え、彼女を守るようにしてエウレカが唸り声をあげる。
不愉快そうなクェルの言葉を聞き届け、エウレカはイストリアの服の袖を引っ張ってその場から離れた。
離れるようにと言った理由は目の前で繰り広げられている映像を見せないのももちろんだけど、クェルの性格からして、一番の理由は戦闘に巻き込まないためだろう。
「……うわぁ」
そして、そのおぞましい様子を誰よりも間近で見ている僕は、気分の悪さが口と表情に出るのを止められなかった。
無理やりに拘束から抜けたせいでずたずたになった身体が、高速で再生していく。身体に空いた穴が塞がり、ちぎれた腕すらもうぞうぞと生えかわる。
明らかに生き物の道理から外れた復帰の仕方で、相手は完全に治癒した。
「虫はいいぞぉ……痛覚を感じない。ダメージを受けても、そこから無理やり再生を得ても、平気なのだからな!」
「なら、これで……世界よ、黙れ!!」
単純な物理攻撃で効果がないのなら、出力を上げるまでのことだ。
もうイストリアとエウレカはこの場から離れ、クェルは己の身をきちんと守れる。遠慮を捨てるには充分な環境だ。
はじめて悪魔の力を使い、竜を葬ったときに使った力。あのときは自分でコントロールができないがゆえに使ってしまった全力を振るうことを、僕は今度こそ躊躇わなかった。
夜風に揺れる草木の葉音すら止まり、世界に静寂が訪れる。
気温が下がるというよりは、世界そのものが異界に変貌したような錯覚の中で、相手は確かに静止した。
氷の柩に抱かれて、完全に沈黙したのだ。
「これなら……!」
「どうにかなると思ったかね?」
「っ……!?」
静寂の世界の中に、びしりと嫌な音が響く。
氷の柩に走った亀裂は徐々に枝分かれし、ついには崩壊の音を奏でて、砕かれた。
……力技!?
竜の肉体を芯まで凍らせて絶命させるような冷気を受けてなお、相手は動いてきた。
同じ悪魔ではあるけれど、その頑丈さに思わず驚いて、思考が止まってしまう。そして、相手はその隙を見逃さなかった。
耳障りな叫び声を震わせて、ゲルゼビュートが蠅そのものの羽を広げた。
「くっ……!?」
「ギイイイイイッ!!」
突進は高速で、反応できたのは相手の予備動作が大きかったためだった。
両腕で顔を守るようにして、僕は相手の突撃をなんとか受け止める。
ぎしりと骨が悲鳴を訴え、くらりと視界が揺れた。
「く、うっ……!?」
「ファルレア……!」
攻撃は単なる打撃ではなく、ホールドの動作が入っていた。
まずいと思ったときにはもう、僕の足は地面から離れてしまう。
クェルが名前を呼ぶ声が遠くなり、僕は空へと連れ去られた。
「このっ……!」
なんとか引き剥がそうと相手に蹴りを浴びせるけれど、体勢が安定しないためか、期待した成果は得られなかった。
冷気の力を使おうにも、今しがた全力で使ったばかりだ。連発ができないことは、自分の中の疲労感が訴えている。
冷えた空気から逃れるようにして、相手は僕を連れて高く、高く上昇する。凍った木々の葉を散らし、ぐんぐん速度を上げていく。
気がつけば地面は遠く、星が近くなっていた。
「ギャハッ!!」
「く、そぉっ……ぐあっ!?」
まるでゴミを捨てるようにして、真下に向けて投げられた。
近づいた夜空は遠くなり、背中に感じる空気は高速の中で冷たくなっていく。せめて頭を守るために、僕は身を丸くする。
長い長い浮遊感を経て、懐かしの地面が、僕を歓迎した。
「かふっ……!」
漏れる言葉は悲鳴というよりは、衝撃によって呼気が押し出されたというのが正しかった。
己が凍らせた草木を散らして、僕は地上へと帰ってきた。
加速のついた肉体は、なんでもない地面を凶器として迎える。
全身は着地のダメージで、痛覚すらも曖昧なほどだ。
「ぐっ……うううっ……!」
それでも、まだ敵を倒していないという事実が、僕を立ち上がらせた。
……僕は、悪魔だ!
人間であれば、とっくに五体がバラバラになっていただろう。
だけど僕は悪魔であり、その程度ではせいぜい死ぬんじゃないかなと思うくらいに痛い程度だ。いやほんと、めちゃくちゃ痛いけど、立つ。立たなくてはいけない。
なぜならば、クェルが見ている。そして勝てと言っている。
僕は彼女によって生み出された、人造の悪魔だ。
彼女はいつだって研究に熱心で、真剣で、だけどそれとは別で、僕のことを認めて、大切にしてくれていた。
その僕が、彼女の技術を盗んで生み出された相手に、負けるわけにはいかない。
「まだ……負けてないっ……!」
相手の苦悩など、知ったことか。お前の挫折なんか、心底どうでもいい。
天才悪魔使いクェルが、己の才能に甘えず、必死で努力して生み出した人造の悪魔。それが僕だ。
自分の才能や弱さから逃げ、努力を放棄した臆病者が造った悪魔なんかに、負けてたまるものか。
「負けるんだよ、お前たちは! その悪魔じゃあ速度が足りない! 力が足りない! 治癒力が足りない! おぞましさが足りない! なにより非情さが足りない! 無駄な心なんてものを持たされて生まれた、出来損ないの悪魔なんだから!」
「くっ……」
「悪魔に心なんて必要ない! 道具に遠慮や優しさなんていらない!! 強く、便利であればいい!! くちづけが対価だなんてバカバカしい! 悪魔らしく、もっといいものがあるだろうが!」
相手は今の状態に心底満足しているようで、ひどく楽しそうに喚き散らしている。
うるさい雑音だ。今すぐに消してやりたいけれど、それをするための力すら湧いてはこない。
「……下衆ですね」
「クェル!? 前に出たら、ぐっ、ダメだよ……!」
「静かにしなさい、ファルレア」
クェルは僕の身体に、優しく触れてくる。
その行為にすら痛みが走るけれど、そんなことを構ってはいられない。
「く、クェル……離れて……」
「静かにしなさいと言ったでしょう」
僕の言葉を、やはりクェルは受け取ってくれなかった。
了承でも拒否でもなく、無視して自分の言葉を押し付けてるその様子は、いつも通りに自分勝手で悪魔的な態度だった。
「やはり、悪魔使いとしてあなたは劣っています」
「は……!?」
「悪魔の贄としてどのようかものがいいのかは、一概に決めることはできません。悪魔によって好むものは違い、悪魔使いがなにを大切にするのかも違います。即物的なものを良いと断じるようでは、底が知れます。……それとも、美少女のくちづけの価値がわからないほど、品のない年増なんですか?」
「こ……のクソ女ァ!! まとめて潰してやる!! ぐちゃぐちゃにしてやる!! ゲルゼビュートッ!!」
狂ったような相手の言葉が空へと届く。そして、不愉快な羽音が上空から降ってきた。
聴覚に触る音は、徐々にその音量を増していく。
主の言葉を受けて、悪魔が契約を果たすためにやってくるのだ。
「っ……クェル、早く離れて……!」
「少しだけ時間を作ります」
前も聞いたような言葉を語り、クェルは空中をなぞり始める。
それは悪魔召喚ではなく、彼女の使うもうひとつの力。
人の身でこそ操れる、世界に許された小さな奇跡、魔術の力だ。
「言葉よ響け、世界を揺らせ。想いよ届け、世界を満たせ。式を編む我、クェルたる我が願い乞う。今、一時の安らぎを――」
世界に囁き、祈り、唱え、念じる。
そうして、彼女の言葉は世界に承認された。
「――吹きすさぶ風の音すら、留まれ。【凪】!」
結ばれた言葉は、ほんの小さな変化を起こす。
上空から飛来していた相手の羽音が止まる。悪魔の視力は優秀で、見上げてみれば上空のゲルゼビュートがなにか見えないものに捕まえられて暴れているのが見えた。
「不可視の風による拘束です。といっても効果時間は短く、拘束する力も弱いですが……人の魔力では、できてこの程度ですからね」
「な……なぜ、悪魔使いのお前が魔術を使える!?」
「こんなもの、純然たる技術だからに決まっているでしょう」
「有り得ない……! 確かに魔術の仕組みは解明された、『技術』だ! だが、悪魔使いが魔術を使えるわけがない! それは世界に許されなければ使えない! 世界を愛していない悪魔使いに、魔術が使えるわけがないっ!!」
怯えたように叫ぶ相手に、クェルはただ微笑んだ。
「……世界を愛している悪魔使いがいたっていいでしょう。自由に生きるというのは、そういうものですよ」
「クェル、今の話は……」
魔術というのが技術だということは、クェルが教えてくれたことだ。生前の僕にはそれが使えなかったのか、魔術に関する知識もほとんどなかった。
今の話が本当なら、クェルは悪魔使いでありながら、世界のことを嫌っていないということになる。
疑問を作りかけたところで、クェルがこちらに手を伸ばしてきた。
「んっ……」
「ふぐっ……!?」
まさかこの状況で、くちづけされるとは思わなかった。
全身の痛覚が吹き飛ぶほどに、その口付けは甘かった。
舌で歯をノックされ、僕は彼女と粘膜を絡めることを受け入れる。
まるで自分のすべての神経が彼女を貪ろうとしているかのように、クェルの唇の柔らかさと、唾液の甘さしか感じられない。
「ん、ちゅ、ふぁう、えあっ……」
「く、ぇる……ん、ちゅう……」
周囲の状況を忘れ、お互いの名前を呼び、縋り付くようにくちづけに没頭する。
ちゅ、と湿った音がして、唾液が混ざったものが糸を引いた。
くちづけの時間は短いはずなのに、長く触れ合ったような充足感を得る。
ぼうっとした頭の中で、彼女の言葉が響いた。
「ファルレア、少しだけ、あなたの拘束を外してあげます」
「こう、そく……?」
「……あなたに使った材料は、“夜会”に提出した悪魔創造プログラムのものよりもずっと高等なものです。元々の質も、私の仕込みもね。ゆえに、あなたはスペックノート……本来の予定値より、高い能力を持っています。高すぎる能力の暴走を防ぐための拘束……今のくちづけは、それを外すものですよ」
クェルは僕を見つめ、柔らかく微笑む。
翡翠の瞳は吸い込まれそうなほど美しく、濡れた唇は契約なんてなくても触れたいほどに麗しかった。
こちらの胸に触れ、彼女は優しく言葉を紡ぐ。
「あなたの名前はここに、私が刻みました」
「……うん」
「それは忌まわしい名です。世界に疎まれる力です。恐れられる存在です。けれど、私はあなたにその名前を与えました」
「……そうだね」
「誰に許されなくても、高らかに吠えていいんですよ。その自由は、あなたに……いえ。きっと、誰にでもあるのですから」
それは僕に向けた言葉でありながら、誰かに祈るような言葉だった。
胸に染み入り、心を溶かすようなあたたかな響き。
彼女に言葉を返そうとして、けれど、飲み込んだ。
今言うべきは、そうじゃない。
「僕は……僕は、悪魔ファルレア!!」
世界に忌まわしき名前。それでも僕が今、僕であることを示す名前。
囁くのではなく、祈るでもなく。
唱えるのではなく、念じるのでもなく。
悪魔ファルレアの名を、僕は高らかに吠えた。
自分でも明確に、身体の中を巡る力が強くなるのが分かる。
拘束を外すと言ったクェルの言葉どおり、窮屈な枷から解き放たれたような気分だ。
既に相手の姿は、上空に見えている。拘束を外して、改めてこちらを殺すためにやってくる。
四本の腕を振りかぶったゲルゼビュートが、再び急加速してくる。おそらくはこのまま、僕たちを潰すつもりなのだろう。
「いい加減に、黙れッ!!」
枷を外された力を振るうことを、僕は躊躇わなかった。
開放された僕の力は、無意味な影響を与えなかった。
周囲の空気を冷やすことなく、草木を止めることなく。ただ不愉快な存在だけを凍らせる。
羽音どころか、もはや悲鳴をあげることすら許さず、僕は相手を氷漬けにした。
「……可哀想に」
彼は意味のある言葉を語ることすら許されない。口は人のものではなく虫のもので、漏れるのは言葉でなくただの雑音だ。
相手の悪魔使いの口振りでは、ろくな扱いを受けていないだろう。あんなふうに人間とはかけ離れた姿では、人里に降りて息抜きをすることすら許されない。
生まれたときから道具であることが定められて、名前すらもただ、呼びつけるための記号としてあるような存在。
「ゲルゼビュート。僕が君の名前を呼ぼう」
ただの言葉ではなく、僕が君の名前を呼ぼう。
同じ人造悪魔として、醜悪な姿と生き方を与えられた君を憐れみ、止めよう。
悪魔は恐ろしい力だ。それはきっと人造である僕たちも変わらず、疎まれるのも変わらない。
それでも、クェルとミルフィさんはその力をただ便利なものとして、より安全に使おうと努力した。
決して、可哀想な存在を生み出して、奴隷を作り、誰かを傷つけるために生み出されたわけじゃない。
だから、意にそぐわない使われ方をする悲しさは、ここで終わらせよう。
「眠れ、ゲルゼビュート!!」
凍らされた相手が、羽の音ではなく落下音を伴ってやってくる。
ひゅ、という風を切り裂く音を砕くようにして、僕は拳をぶち当てた。
破砕の響きが夜空に昇り、消えていく。
今度こそ静寂が訪れた世界で、僕は吐息を吐いた。
「ご苦労様です、ファルレア」
満足げに微笑んで身を寄せてくるクェルのくちづけを、僕は迷うことなく受け入れた。
それが、僕が貰うべき対価なのだから。




