狩られる立場
「っ……はぁ、はぁっ……」
「クェル、大丈夫!?」
「ええ……なんとか。少し休みましょう。は、すみませんが、ファルレア、贄の支払いは、もう少しあとでお願いします……」
「ううん。そんなの気にしなくていいから、休んで」
「お師匠様、本当に大丈夫……?」
「くふふ……隠れ家にはいくつも罠を仕掛けてあるので、大丈夫ですよ。ただ、逃げながら色々と仕込みをしたので、少し疲れてしまいまして……」
どうやらクェルは走りながら、追っ手を撒くために手を打ってくれていたらしい。
すっかり日が沈み、暗くなった森の中で、僕たちは少しだけ休憩を取ることにした。
クェルは相当疲れているのか、夜の肌寒い空気の中だというのにかなりの汗をかいている。
ぐったりとするクェルに、エウレカが心配そうに寄り添って、手指を舐めた。
「くぅん……」
「くふふ……私の心配もしてくれるんですか?」
「エウレカも、今がどんなに大変かは分かってるの。お師匠様のおかげで、自分が生き返ったのも。とっても、とっても感謝しているわ!」
「そうですか……くふふっ……それは、悪い気はしませんね……」
クェルが悪魔創造プログラムなんてものを考案したのは、結局のところ、悪魔使いの生活を便利にするためだ。
喚び出すことすら危険で、しかし強力な力を持つ悪魔の力を、より簡単に、安全に、便利に使えるようにしようと考えた結果として、僕は生み出された。
その気持ちはきっと、誰かを助けたいという純粋なもの。
クェルが今、微笑んでいるのは、自分の成果に満足したからだろう。
「しかし……はあ、妙ですね。いくら私たちが世界の敵で、教会が優秀とはいえ……こんなに早く追っ手がかかるなんて……なんらかの手引きがあったとしか……」
「クェル……?」
名前を呼んだ声は、今の彼女には聞こえていないようだった。
クェルは乱れた息を整えて、ぶつぶつとなにごとかを呟いている。漏れる言葉は明らかに誰かに向けたものではなく、単純に思考の整理のための、つまりは独り言だ。
「この追っ手の手際は偶然ではありえない……だとしたらこの状況はどこから、作為的になものに……? 私たちがイストリアを助けたとき……処刑台に上げられたとき……ファルレアがエウレカを治したとき……それとも、もっと前の――」
「――やっぱり、しぶといなぁ」
「……!?」
聞こえてきた声は、今ここにいるメンバーではありえないものだった。
僕はもちろん、クェルでも、イストリアでも、ましてやエウレカでもない。それでいて、僕が知っている人の声だった。
声の主は木々の奥から、ゆったりとした様子で現れる。
いつものようにどこか余裕のある態度の彼女は、やはり思った通りの人物だった。
「ミルフィ……!」
「おっと……さすがにここで私が出れば、どういうことなのかは察されるか」
クェルが叫ぶように呼んだ名前に、ミルフィさんは涼しい顔で応えた。
「やはりこれは、あなたの仕業ですか……!?」
「それはそうだろう。だからこそ、私がこの場面で出てきたんだ。確実に君を葬るためにね」
「っ……ど、どうして!? ミルフィさんは、クェルと仲が良かったはずじゃ……」
クェルから聞く限り、彼女を“夜会”へと招いたり、素材を集めてきてくれたり、ミルフィさんは昔からクェルに世話を焼いてくれていたという。
僕が生まれてからだって、見ている限りでは仲が良さそうに見えた。
けれど、今回のことはすべてミルフィさんの手引きだと、たった今、彼女自身が語った。
何故、というこちらの疑問を解消するように、ミルフィさんは言葉を紡ぐ。
「仕込みが気になるなら教えてあげよう、クェル。最初から――悪魔創造プログラムの存在を知ったときからだよ」
「っ……!」
「素材集めの手伝いをしたこともそう。君の可愛い悪魔に契約書のことを教えたのもそう。そうして種を撒き、ちょうど良く生贄が来てくれた」
「まさか、あの事故は……ミルフィさんが……?」
「そうそう、そのとおり。いやぁ、こんなに上手くいくとはさすがに思わなかったよ。思った以上に、悪魔らしくない悪魔が出来上がったお陰で助かった……良心につけ込めるから、ね。あとは、君たちを殺せば、悪魔創造プログラムは私のものというわけさ」
にたぁと口元を歪めるミルフィさんは、今まで見たどの表情より邪悪だ。
悪魔使い。そう呼ばれても納得ができるほど、今の彼女の顔からは、どす黒い感情が見て取れた。
「……ひどい」
イストリアが悲痛な声をこぼす。感じているものは、僕も同じだ。
すべての元凶であったことを明かした彼女に対して思うことは、自分の身が焦げるかと思うほどの怒りだった。
今まで騙していたこともそうだし、なによりも自分の欲深さのために、エウレカやイストリアを傷つけて、クェルの信頼を裏切った。許せない。許せるはずもない。
「……あなたは、ミルフィではありませんね」
「え……?」
湧き上がる不愉快と怒りに震えて、感情に支配されそうになったとき。
クェルの言葉で、少しだけ心が冷えた。
彼女はゆっくりと起き上がると、未だ疲労が抜けていない自分の肩を抱く。
それでも相手を見据える瞳は、どこまでも美しい翡翠の輝きだった。
「ミルフィがどんな人間か、私はよく知っています。彼女は悪魔使いとして私より才能も実力もありませんでしたが、決して愚鈍ではなく、むしろ聡明でした」
「……ほう、それで?」
「……ミルフィは自分が悪魔使いとして優れていないことを知っていました。私は自分が優秀であることを知っていました。そして私たちはふたりで語り合い――悪魔創造プログラムを作成することにしたのです」
「は……?」
「悪魔創造プログラムは、より安全に、たとえ力や知識のない悪魔使いでも、悪魔の力が使えるようにと願って組み上げたものです。分かりますか? 知ったときもなにも、ミルフィは始めからそのつもりだったのです。私に功績を渡すことも含めて、彼女は了承していたのです。だから、あなたはミルフィではありません」
きっぱりと断言するような口調。
問い詰めるのではなく、ただ確信めいた言葉に、先ほどまで余裕を見せていた相手は押し黙った。
「……かの者の、現世での名はデルマ」
「っ!」
「他人の皮や顔を剥ぎ、奪い取る能力を持つ悪魔です。あなたはそれを使いましたね?」
「く……くくっ……ははははっ! やっぱり誤魔化せないか! さすがは“夜会”も認める天才だ! ああそうだ、その通り。私はミルフィじゃあない!」
「……確かに私は天才ですが、愚かです」
闇の中にあってなお煌めく金髪を揺らして、クェルは絞り出すかのように言葉を紡いだ。
真っ直ぐに前を見据える瞳は、どこまでも美しい翡翠の色だった。
「あなたに種明かしをされて、ようやく裏まで気付くようでは、とても聡明とは言えません。友人にも顔向けできません。ですが……」
「……クェル」
「……この怒りを飼いならせるほど、私は聖人ではありません」
ぞわりとした感覚が、背筋を走った。
クェルの身体から漏れるのは、明らかな殺気。
叫ぶのでも、喚くのでもなく、ただ淡々と自らの間違いを認めて、しかしきっぱりと相手への憎悪を口にする。
それは今までに見た、どんな表情の彼女よりもずっと静かで、けれど激しかった。
……そうだ、クェルだって怒っているんだ。
僕は騙されて、クェルのことを裏切って、イストリアとエウレカを傷つけてしまった。
イストリアは大切な家族を失わされた。
そしてクェルも、ミルフィさんを騙った相手に騙された。
恐らくはあの口振りでは、本物のミルフィさんはもう生きてはいないのだろう。
相手の言葉通りなら、僕が生まれる前からミルフィさんは本物ではなくなっていたのだから。
だとすれば、僕は本物のミルフィさんに会ったことはない。それでもクェルの語ってくれた想い出は、彼女の怒りを察するには充分すぎた。
そんなこちらの気持ちなどすっかり無視して、相手は自分の言いたいことだけを言う。
「いい気味だなぁ、クェル・エル! どうだ、大事なものを踏みにじられて、己の成果までも奪われる気持ちは!!」
「……どんな気持ちか、ですって?」
「ふん、お前は知らないだろう。私の名前など! 天才ともてはやされたお前には! “夜会”の上位陣からも一目置かれ、その席を常にお前のために空けておくだなんて、特例中の特例の扱いを受けている天才様には!! だから、分からせてやったのだッ!!」
「ああ、なるほど……よく分かりましたよ、あなたのこと。なにか私と争って、悔しい思いでもしましたか」
陶酔したように語る相手に向けて、クェルは冷たく言い放った。
「当然、あなたのことなど知るはずもないでしょう。自分の顔を隠して、人の積み上げたものをかすめとり、それでようやく人前に立てるものの名前を私はひとつしか知りません。……臆病者っていうんですよ、あなた」
「……殺すッ!!」
激昂した相手が、声を荒らげる。
クェルの静かな怒りに対して、彼女の方は明らかに激しく、害意と悪意に、そして憎悪に満ち溢れていた。
高く高く。天へと掲げた手を振り下ろし、ミルフィさんではない彼女は叫ぶ。
「契約に基づき、そいつらを八つ裂きにしろ、ゲルゼビュート!!」
響いた言葉に共鳴するようにして、耳障りな羽音が響く。
彼女の影を引き裂くようにして、それは現れた。
それは一言で言えば、巨大な蠅だった。
身体から伸びるのは四肢ではなく、虫のように細く毛の立った六本の足。そのうちの二本で、相手は大地を踏みしめる。
ぎょろりとした瞳は無数の鏡のようですらあった。
全身に生えた毛はおぞましい震えとともに揺れ、膨らんだ腹はゆるく脈動し、それが紛れもなく生き物であることを主張していた。
「これが、私が創造した悪魔! ゲルゼビュートだ!」
「……自分が産んだ技術をこうも堂々と他人に我が物顔で使われると、さすがに不愉快ですね」
「クェル」
「ええ、お願いします、ファルレア」
大きな声で命令されるまでもなく、僕は前に出た。
自分の役割がどこにあるのかは、もうきちんと理解している。
魔力を隠すことなく露出させれば、冷気を被ったようにして思考が冷えた。
……僕は、悪魔だ。
生まれてから、何度も心の中で繰り返した言葉を唱える。それが心を落ち着けていく。
氷のような思考の中で、感情だけが激しく燃える。
「君たちはもう、黙ってろ」
主人の命令は、僕の気持ちと一致している。
ならばもう、無駄に言葉を重ねる必要は無い。
ただ、契約を果たすだけだ。




