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世界の敵

「……ふう。少し落ち着きました」

「大丈夫、クェル?」

「問題はありませんが……まあ、もう少しこのままでいてください。楽ですから」

「うん、分かった」


 素直に頷けば、クェルは満足げに頷いて身体を預けてきた。

 痛くない程度に抱きしめを強くすれば、彼女はまるでひだまりで丸くなった猫のように目を細める。

 少しの時間を置いて、クェルはイストリアに向けて言葉を作った。


「よく頑張りました、イストリア。初めて儀式の準備をしたにしては上出来です」

「はい。お師匠様。その……とっても、とっても、ありがとう!」

「くふふ。感謝するのは構いませんが、もう食事のときに私のことを祈るのは止めてくださいね」

「ふふ。そうね。お祈りの時間は、もうおしまいにするわ」


 軽口を返すイストリアの顔に悲壮なものはなく、むしろスッキリとしたものだ。

 その傍らには、いつもと変わらないパートナーの姿があった。


「あおんっ」

「えへへ。良かったね、エウレカ!」


 嬉しそうに尻尾を振るエウレカを、イストリアは抱きしめる。

 なにもかも元通りというわけにはいかない。これで彼女は立派な悪魔使いであり、陽の当たる道には戻れない。

 エウレカも見た目は犬のままだけど、中身は悪魔になってしまった。溢れてくる魔力の質は明らかに僕と同類だと分かるほど濃く、存在の変化は明白だ。

 それでも、イストリアは再びエウレカと笑い合うことができたのだ。そのことはとても尊くて、大切なことだと思う。


「エウレカ、ごめんね。僕が軽率な行動をしたせいで、君たちを傷つけてしまった」

「……わんっ」


 エウレカは僕の足元で、こちらを見上げて一度鳴くと、いつものようにそのモップみたいな身体をこちらに寄せてきた。


「お兄さん、エウレカは気にしていないって言ってるわ」

「そう……?」

「うん。なんとなく、なんとなく分かるの。前よりもずっと、エウレカの考えていることが」

「あなたたちは元から深い絆があったようですからね。魂レベルで結びつきができたとしても、不思議はありませんね。定着の仕方次第では、テレパス……離れた位置から考えていることを伝えることすら、可能になるかもしれません……っと、いけませんね、つい分析を。ファルレア、やるべきことは片付きました。隠れ家を破棄しますよ」


 もう満足したのか、クェルは僕の腕からするりと抜け出てしまう。

 先ほどのしおらしくて可愛らしい態度はどこへやら。本当に、まるで気まぐれな猫みたいだ。

 彼女のテンションに慣れてきたことを自覚しつつ、僕は疑問符を投げた。


「荷物をまとめるの?」

「ええ。最低限、持てるものだけを持っていきます。移動中に誰かに悪魔使いとしての証拠となるようなものを見られるとまずいので、それは極力ここに捨てていきますよ」

「ああ、なるほど……」

「偽装が外れてしまった布はここから離れたあとで再度、偽装を施します。エウレカにもなにか、悪魔であることを偽装する装飾が必要ですが……幸いなことに見た目が犬なので、一見では正体は割れないのはずですから、そっちはおいおいでいいでしょう」

「お師匠様、どこへ向かうの?」

「隠れ家はいくつかありますが、かなり騒がせてしまったので、距離を取ります。やか……いえ、少し行かなくてはいけないところもあるので、まずはそっちへ向かいます。長旅になると思ってください」


 おそらくは“夜会”という言葉を、クェルは直前で飲み込んだ。彼女のことなので、疑問が生まれるような単語を渡すのを避けたのだろう。


 ……旅になるのか。


 悪魔使いの組合、“夜会”の場所がどこにあるのかは分からないけれど、旅になるのならある程度の準備は必要だ。

 寝袋や調理器具、着替えなど、最低限にすると考えてもそこそこの大荷物になってしまう。移動距離にもよるけれど、食料調達の手段だって問題になってくる。雨や風をどう凌ぐのかも。


「わんっ!!」

「わ、エウレカ?」


 どうまとめたものかと考えているところで、エウレカが大きく吠えた。

 吠え声はいつものように元気のいい、甘えるようなものではなく、明確な敵意が見て取れた。

 明らかに切羽詰まった吠え声を聞いて、イストリアが鋭く反応した。


「お師匠様、お兄さん! エウレカが、なにかがいるって!!」

「っ……!?」

「……まさか、もう追手が? いや、それはいくらなんでも早すぎ――」


 ――クェルが否定を口にしようとしたところで、がんと強い音が地下室に響いた。

 音は一度で終わること無く、連続した。それは明らかになんらかの打撃に寄るもので、つまりは地下への入り口である、床の扉を破壊しようとする音だった。


「……というわけでも、ないみたいですね?」

「ど、どうするのクェル!?」

「慌てないでください。そこそこ頑丈には造っていますし、火でも放たれない限りは……」

「わんっ」

「お師匠様、エウレカが焦げ臭い臭いがするって!」

「……可及的速やかに逃げましょう」


 さすがのクェルも額に汗を浮かべて、そう結論づけた。

 彼女は部屋の隅へ行くと、本棚の本をいくつか並べ替えた。

 なにを始めたのかと思ったのも束の間。彼女が本を並べ替え終わった瞬間に、ずるりと本棚が横へと動く。


「隠し通路……!?」

「備えあればなんとやら。昔の人はいいことを言いますね。ほら、行きますよ。ファルレア、通ったらあなたの冷気で分厚い氷でも作って、蓋をしなさい」

「わ、分かった! イストリア、エウレカ、行こう!」

「う、うん!」

「わうんっ!」


 ろくに準備もできていない状況だけど、クェルが急かすのだから、本当に状況としてはまずいのだろう。

 イストリアの手を取り、エウレカを連れて、僕はクェルの背中を追う。


「道よ、閉じろ!」


 扉を破壊する音を遮断するようにして、僕は氷の壁を現出させた。

 こんな逃走用の通路まで用意している辺り、やはりクェルは悪魔使いとしてかなり用意周到に、賢く立ち回ってきたのだろう。

 そうして守ってきた生活を自分のミスで壊してしまったことは申し訳なく思うけれど、その謝罪は彼女に受け取ってもらえなかった。ならば、ここから挽回するしかない。

 今度こそ下らない失敗をしないために、僕は彼女に従った。

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