決意の目は
「傷よ、退け」
暗くじめじめとした悪魔使いの隠れ家で、僕は言葉を紡ぐ。
語られた言葉は魔法として、世界に結果をもたらした。
イストリアの身体につけられた無数の傷はすっかりと消えて、元の綺麗な肌へと戻る。
彼女は自らの身体に起きた変化をゆっくりと眺めて、僕を見上げた。
「……お兄さんは、悪魔だったのね」
「……ごめん」
謝って済むような問題じゃない。それが分かっていても、口からは謝罪の言葉がこぼれた。
僕がしたことは彼女たちを救いたいという気持ちからしたことだ。そこに嘘はない。
けれどその結果として、イストリアは悪魔と関わったことで処刑されそうになり、一度は助けたエウレカは殺されてしまった。安易な気持ちで力を使ったことによるしっぺ返しを、僕は嫌というほど味わったのだ。
そして今。なによりも責任を取らなくてはいけない相手が、目の前にいる。
「僕は確かに悪魔だ。本当の名前は、フェリオじゃない。悪魔……悪魔、ファルレアという」
「……お兄さんは、私を……私を食べてしまいたかったの?」
彼女の視線は真っ直ぐで、心底逃げたいと思うけれど、それは許されないことだった。
クェルからお説教されたとおり、これは僕の安易な考えで起きてしまったことなのだから。
「違うよ。君に出会ったのは偶然だった。それは本当のことだし、食べたいなんて思っていない」
「……お兄さんは、世界を壊してしまう、悪魔なの?」
「どうだろう。できないんじゃないかな。少なくとも、僕はそれを望んでいない。望んでいたら……エウレカを治したりしない」
エウレカという名前に、イストリアは確かに反応した。
彼女は目を見開き、大切な家族の亡骸を抱きしめる。既に冷たくなりはじめているエウレカの身体を、僕は撫でた。
「イストリアと友達になれて嬉しかった。エウレカと仲良くできて楽しかった。失いたくなかったし、巻き込みたくもなかった。だから僕は、自分のことを君たちに教えないままで、今日までずっと暮らしてきた」
「……うん」
「でも、それならずっと、どんなことがあっても隠して、君の前では力を使うべきじゃなかった。だけど僕は、エウレカに死んでほしくないと思って……だから、ダメだとは分かっていたはずなのに、使ってしまった……そんなことをして、教会に住んでいる君たちが、無事で済むわけないのに……!」
瞳から透明なものがこぼれるのは、感情があふれた証拠だった。
滲んだ視界。けれど、僕が声を上げて泣くわけにはいかない。僕は加害者で、被害者は彼女の方なのだから。
本当はもっと泣くべき人よりも先に、涙をこぼすべきじゃない。
それでもあふれる感情は止まらず、涙はとどまらなかった。
「っ……だから……ごめん、イストリア……君たちを救いたかったのに……僕は、救うどころかっ……!」
「……お兄さんは、優しいのね」
「だとしても、僕は間違えたんだ……優しさを、履き違えたんだ……!」
「うん。失敗したのね。それはすごく、すごく悲しいことで、謝らなくてはいけないと思うわ」
イストリアは瞳に大粒の涙を浮かべながら、それを拭うことをしなかった。
彼女の手指が伸びるのは、僕の頬。こぼれ落ちる透明な雫をすくって、彼女は泣き顔で笑った。
「私だって、どんなことがあってもエウレカに生きていてほしかった。だから……きっと私が悪魔だったら、エウレカのことを治しちゃったと思うの。だから、だからね。お兄さんは私がしたいことを、代わりにしてくれただけ」
「そんなことは……」
「あるの。あるわ。とってもあるの。だから私は、謝ってくれたお兄さんのことを許してあげる」
イストリアはそう言って、僕を抱きしめてくれた。
小さな腕と手で、彼女は僕をしっかりと受け止めてくれる。
そのことが申し訳なくて、情けなくて、けれどどうしようもなく救われた気持ちになる自分もいて。
僕はまた、透明なしずくをこぼした。
「……エウレカだって、お兄さんが大好きだったもの。きっと、きっと怒ったりしないと思うの」
「どうだろう……それはもう、分からないけれど」
エウレカはもう、なにも言葉はしてくれない。いつものように僕たちの周りを元気よく走り回ることも、モップみたいに毛だらけの身体をこすり付けてくることもない。
それでも手に触れる感触が、エウレカのことを覚えている。この子の元気な鳴き声を覚えている。
「それじゃあ、本人に聞いてみましょうか」
「へ……」
感傷に浸っていたところで、狂人がなにか妙なことを言い出した。
クェルは相変わらず、彼女のことをなにも知らなれければ簡単に人を虜にしてしまいそうな魅惑的な微笑みで、くふふと笑う。
「お待たせしました。さっきの件で喚び出した悪魔に、贄の支払いをしていたもので。詠唱省略した分、ふんだくられましたが……さて、時間が無いので手短に説明します。……そこの少女」
「な、なに、お姉ちゃん?」
「く、クェル、ちょっと」
僕は慌てて言葉を作り、話に割り込んだ。
クェルは優しくない人というわけではないけれど、常識から外れているのは本当のことで、まして今、イストリアは悲しんでいるのだ。
なにを言おうとしているのかは不明だけど、妙なことを言ってほしくはない。
「ファルレア。私も状況は理解しています。ただ時間がないのですよ。私たちの存在が知れた以上、この森にも捜索隊の手が及ぶのは時間の問題です。この隠れ家を捨てるのは惜しいのですが……起きてしまったことは仕方ありません。大人数で、それも教会の神職や騎士まで来て捜索されてしまえば、偽装の効果もないでしょうしね」
どこか寂しそうに言葉を作り、クェルは家の中を眺める。
相変わらず毎日掃除しているというのに埃っぽくて、今日もクェルが汚すせいで汚らしい。けれど、確かに彼女と僕はここで生活していたのだ。
思うところは僕にだってあるし、彼女にとってはもっとあるだろう。
「……ごめん、クェル」
「謝らなくても構いません。それは私の責任の一部ですから」
クェルは僕の謝罪を受け取らず、ただ微笑んだ。それは彼女が何度も口にしていた言葉で、きっと本心なのだろう。
彼女はほんの一瞬だけ、子供をあやすような瞳で僕を見つめ、それからイストリアへと再び目を向けた。
そしてイストリアも、真っ直ぐにクェルの瞳を見つめている。
満足気に頷いて、クェルは改めて言葉を作った。
「いいですか。あなたはもはや死んだ人間です。きっとあの町の人々は、あなたが悪魔の供物になったとでも思ってくれるでしょう」
「……うん。それは、それは分かるわ。だってお兄さんたちが、そういうことにしてくれたんだもの」
「ええ、あなたは賢い子ですね。……ですがそれは民衆たちの認識の話。本当のあなたはここで生きていて、しかも人の世界にはもう戻れません」
「……うん」
「だから、選びなさい。悪魔使いとして生きるか、悪魔を使ってしまっただけの子として隠れて生きるか」
クェルが提示したのは。重い選択に思えた。どちらも世に疎まれ続けることは変わらないからだ。
ましてその選択を迫られているのは僕が安易に行動してしまったことのせいなのに、選ばなければいけないのがイストリアだということが、僕の中にひどく罪悪感を生む。
「く、クェル。イストリアのことなら僕が……」
「今後も守る、ですか? それは不可能です。あなたは私の悪魔で、優先権は私にあります。なにより、自分のことを守る術を知らなければ、誰かに守ってもらったところでいずれ限界が来ます。世界はそこまで、優しくはありません」
ぴしゃりと言われ、僕は返す言葉がなくなってしまう。
反論ができないのは、クェルの言うことが正しいと分かっているからだ。
守るなんて言っても限界はあるし、なんの知識もない子を守るのは負担だ。だからこそ、クェルは現実を突きつけている。他でもない、イストリアのために。
「……もしも悪魔の力など見たくもないと言い、隠れることを選ぶのであれば、アテはあります。意図せずして悪魔の被害者となり、人里にいられなくなったものたちを保護している団体はいくつかありますからね」
「……クェル」
「悪魔使いとして生きるのであれば、私の造った悪魔の不始末です。お詫びに弟子として育ててあげましょう」
「お姉ちゃんの、弟子……?」
「ええ。まだ言っていませんでしたね。私は天才悪魔使い、クェル・フェル・エル。くふふ、私の弟子になれば、悪魔使いとしての将来は約束しますよ。ろくなもんじゃありませんけどね? ですが……」
クェルは自信たっぷりに笑い、人差し指を立てる。
金色の髪を揺らし、ぺろりと唇を舐める動作はやはり少女らしくない艶やかさがあった。イストリアだけでなく、僕の目も強く惹き付けられてしまう。
視線に対して満足げに頷きながら、クェルは言葉を続けた。
「今ならなんと、そこで死んでいる犬っころを蘇らせるサービスつきです」
「エウレカを!?」
「くふふ……ええ。言ったでしょう。私は天才悪魔使い。私ならそれは可能な範囲です」
「っ……それは、それは本当に!?」
目を見開いて身を乗り出したイストリアに、クェルは手のひらを向けた。
落ち着け、と手で示してから、クェルはさらに続ける。
「よく考えて選びなさい。それはあなたが永遠に罪を犯し続けるということです。世界中から疎まれ続け、その犬と地獄の底、果ての最果てまで添い遂げるということです」
「…………」
「さあ、精一杯に考えて答えなさい、少女……いえ、イストリア。あなたは、地獄に堕ちる覚悟はありますか?」
まるで契約を迫る悪魔のように、にんまりと口を歪めて、クェルは笑った。
その笑みは心底楽しそうで、イストリアの苦悩を嘲笑しているようにすら見える。
けれど、それは違う。違うと思う。
あれはおそらく、クェルなりの優しさだ。
クェルは確かに悪魔使いで、一般的には邪悪な存在だ。彼女は今、その邪悪さをわざとイストリアに見せている。その上で、それでも来るのかと聞いている。
悪魔使いになる利益も、不利益も、なった結果自分がどう見られるのかも。クェルはすべて、隠すこと無く相手に伝えているのだ。
「……なるわ。悪魔使いに」
「イストリア……」
「お兄さん、大丈夫。さっきも、さっきも言ったじゃない。私だって……エウレカを治してあげられるなら、治したかったのよ」
「……後悔しませんね?」
「たったひとりの家族なの。もう、無くなるのは嫌なの。世界なんて、簡単に石を投げる他人だわ。大事なのは……大事なのは、ここにいる、家族よ!!」
イストリアの目に、迷いはない。
太陽のように明るい瞳は真剣で、燃えているようだった。
クェルはそんな彼女を、先ほどとは違った優しい瞳で見つめ、頷いた。
「良いでしょう、歓迎しますよ。ようこそ底辺世界へ、物好きで欲深いお嬢さん」




