悪魔の力
「~♪」
我ながら上機嫌での帰宅だった。自然とこぼれる鼻歌を、止めたいと思わない程度には。
イストリアと暫く別れなければいけないという事実は寂しいものだけど、それよりも嬉しさのほうが大きかった。
上機嫌の理由はもちろん、エウレカを助けられたから。
そもそもエウレカが傷ついたのは僕が力を使うことをためらったせいだけど、結果として誰にも悪魔の力を見られること無く、エウレカを治療するだけで済んだのだ。終わってみれば、むしろいい結果になったと言っていいだろう。
ずっと悪魔としての力に疑問を持っていたし、強すぎるとも思っていた。
だからクェルに契約の履行として、力の行使を求められない限り、僕は自分からこの力を使うことを避けていた。
けれど今回は自分の意志で力を使おうと思い、しかも誰かを助けるために使った。
「……どんなものでも、使う人と、使い方次第なんだな」
悪魔として自分の力が人間よりもずっと強く、むやみやたらと使うものではないことは分かっている。
だけど、これからはもう少しだけ。使うべきだと思ったら使ってもいいのではないだろうか。
イストリアにまた嘘を重ねてしまったことや、クェルから自分以外と契約するなと言われていたのを破ってしまったことには罪悪感はあるけれど、自分の中で納得は得られたように思う。
「ただいま、クェル」
研究に没頭しているときのクェルは、研究を行っている部屋から出てこない。そのことが分かっていても、僕は毎回ただいまを言ってから、家に入るようにしている。
相変わらずしんとした家の中はじめじめして暗く、オマケに昨日綺麗に掃除したはずなのに、すっかり散らかされていた。
明日また掃除しないと。そんなことを考えながら、僕はクェルの姿を探した。また地下室だろうか。
「……あ、クェル。いるなら返事くらいしてくれてもいいのに」
「ファルレア」
こちらの名前を呼ぶ声は、いつもよりずっと冷たかった。
最近は、どちらかと言えば優しい声で呼ばれることのほうが多かったので、思わずどきりとしてしまう。
もしかして、機嫌でも悪いのだろうか。
「……クェル? どうかした?」
「ええ、どうかしました。ファルレア、今日はどういうつもりですか?」
翠の双眸はまるで刃のように鋭く、暗い部屋にあってなお鮮烈だった。
言葉は静かだ。口元は笑っているけれど、瞳に笑みはない。いつものように、くふふという独特の笑い声もない。
金色の髪を揺らし、彼女はこちらへとやってくる。頭一つ分以上の差がある彼女は、首を傾けて僕と目を合わせた。
「自分の力を、町で使いましたね?」
「っ……!」
肺を掴まれたような感覚だった。
紡ごうとした言葉は声にならず、吐息だけになる。
それが、自分が言い訳をしようとしていたというなによりの証拠だと自覚しつつも、僕はなんとか言葉を紡いだ。
「それは……どうして、クェルがそれを知ってるの……?」
「あなたが力を使えば分かるようにしてあったからです。なにか緊急事態があれば、すぐに把握できるように」
「……ごめん。でも、事情があって……」
「それも把握しています。あの女の子と、犬を助けようとしたんですね? 失礼だとは思いましたが、あなたが力を使ってすぐに、様子を見させてもらいました」
クェルのしたことが、不義理なことだとは思わない。
そもそも忘れて欲しいというお願いを無視したのは、僕の方なのだ。
そして彼女が僕の事情を知った上で、こんな瞳を――明らかな怒りが込められた瞳を僕に向けてくるのには、きっと理由があるのだろう。それが分かるくらいには、僕も彼女のことは知っている。
だから僕はもうそれ以上、なにも言えなかった。むしろ今は、相手が話すべき番で僕はそれに答えるべきだと思ったから。
クェルは僕を見上げたまま、いいですか、と前置きをして、言葉を作った。
「ファルレア。どのような理由があっても、生き物は死ぬものです」
「……うん」
「それを、どうして助けてしまったんですか?」
「……死んでほしく、なかったから」
「ええ。それは正しい気持ちです。私だって死ぬのは嫌で、あなたが死のうとしていれば止めるでしょう。そして望みのままに力を使うことを、私は否定しません。身勝手と言われようと、欲望に忠実に生きる……悪魔使いの本質は、それだからです」
「……うん」
「ですが、それならどうしてあの子をさらってこなかったんですか」
「さらって……!?」
「よく考えなさい、ファルレア。あの子は教会に住む孤児です。そしてあなたは悪魔です。あなたの正体が教会に知れなかったのは、私が厳重な偽装を施して、そしてあなたも悪魔の力を使わなかったからです」
「っ……!」
紡がれた言葉は、自分の間違いを悟るには充分すぎるものだった。
自分がやったことがどれだけ愚かだったのか。クェルの言葉で、ようやくそこに思い至った。
「あなたがあの犬に使ったのは悪魔の力です。決して神の御業などという高尚なものでも、奇跡でもありません。その力はこの世界では忌み嫌われているもので、そして教会はその力を研究し、憎み、滅ぼそうとしている組織です」
「あ……ぅ……」
「彼女はその組織の支部に住んでいるんです。彼女が誰にも口外しなくても、教会へ帰り、教会の関係者があの犬を見れば、なんらかの悪魔の力を使われたなんてことはすぐに分かります! なんの偽装もしていなければ、尚更です!!」
「ぼ、僕は……」
「あなたは、なにも知らない子供になんてことをしたんですか!! なぜ諦めさせなかったんです!! 死は理で、簡単に曲げるのはいけないことだと分かっていたはずです!! なぜ納得して、彼女といっしょに泣いてあげなかったんですか!!」
クェルの瞳は真剣だった。こちらが逃げるようにさまよわせた視線を追うようにして、まっすぐに僕を見つめてくる。
そこでようやく僕は、彼女の瞳に宿っている本当の感情を悟った。
今、クェルの心にあるのは個人的な怒りじゃない。僕がしてしまったことへの叱責であり、なによりイストリアへの気遣いだ。
「救いの手を差し伸べるならば、なぜあのあと彼女を教会に帰したんですか! そんなことをして、あの子が悪魔使いだと罵られて焼かれることを考えなかったんですか!!」
「っ……!」
「力を使うことには必ず責任を伴います。強大な力には、より強大な責任が発生します。それくらい、分かっていると思っていましたが?」
「ご、ごめん、クェル!!」
「謝る相手が違うでしょう!!」
思わずこぼれた謝罪は、彼女の一喝で一蹴された。
安易な返答であることを見透かすようにこちらを見据え、クェルは言葉を重ねてくる。
「私はあなたの正体が知れても構わないと思っていました。隠れ家を移り、逃げるだけでいいと。だからあなたがどこで力を使おうと、私はそれを認めます。それが強大な力を持ったあなたを造り出した、天才悪魔使いである私の責任だからです」
「……う、うん」
「ですが、ファルレア。力を使うことを決めたのはあなたです。それに付随する責任は、あなたが持つべきものです」
そう言って、クェルはこちらに手を差し伸べてきた。
怒られている最中に、唐突に差し出された相手の手。少しだけ戸惑いながらも、僕はその手を取る。
「いい子ですね。では、その責任の行く末を見に行きましょう」
「行く、末……?」
「……私の遠見によると、もうとっくに彼女は処刑台の上ですよ」
告げられた言葉はあまりにも冷たいもので。
誰かを救えただなんて、先ほどまでの甘ったるい考えをあざ笑うかのように、隙間風が僕の耳を撫でていった。




