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シークレットタイム


「……というわけで、ちょっと遠くまで買い付けに行くことになってね」

「そうなの? せっかく仲良くなれたのに、すごく残念……」

「この辺りを中心に商売をしているのは本当だから、買い付けが終われば戻ってくるよ」


 イストリアに会うずっと前から考えていた嘘だけど、彼女はやはりあっさりと信用してしまった。

 エウレカを抱きしめてこちらを見上げる彼女の紅の目はさみしげで、ちくりと心を触るけれど、そもそも僕は自分の正体を彼女に対して偽っている身だ。今更、罪悪感がどうなんて語れるような立場でもない。


「戻ってきたら、また私とエウレカに会ってくれる?」

「うん。それはもちろん。僕もまた会えるのを楽しみにしてるよ」


 嘘をついていることは心苦しいけれど、今紡いだ言葉に嘘はない。

 彼女と会って町を歩くことは、僕にとっては楽しみのひとつなのだ。“夜会”の説明会とやらでどんなことをするかは分からないけれど、クェルは説明会が終わったあと、帰る気でいるらしいので、やるべきことさえ終わらせればまたイストリアに会うことはできる。

 孤児である彼女が将来どんな道を歩いていくのかは分からなくて、いつかは別れなければいけないのだろうとは思うけれど、もう少しだけ交わっていたいと思うのも、本当の気持ちだった。


「エウレカ。暫く会えないけど、僕のことを覚えていてくれる?」

「わんっ!」


 元気よく応えてくれる声に満足を感じながら、僕はエウレカの頭を撫でてあげた。

 手指に触れる感触はもふもふで、何度触ってもやっぱりモップを撫でているみたいだった。


「まあ、今すぐ発つわけじゃないよ。今日は予定が空いてるから、どこかいっしょに遊びに行こうか」

「いいの!?」


 ぱっと顔を明るくして、イストリアは僕を見上げる。

 思わず笑みをこぼしながら頷くと、彼女は嬉しそうに赤毛を揺らして、


「じゃあ、あっちの公園に行きましょう! 今日はね、エウレカのおもちゃもたくさん持ってきたの!」

「うん。分かったよ」


 初めて出逢った日のように、手を引っ張られることはない。僕と彼女が行こうとしている方向は、同じなのだ。

 前を歩く彼女を追うようにして、僕はのんびりとした足取りで歩く。イストリアは時折こちらを振り返っては、はやくはやくと手を振ってこちらを急かす。


「お兄さん、早くー! 今日が終わっちゃうー!」

「あはは。まだ終わらないし、そんなに走ると転ぶよ?」

「だって、暫く会えないんだもの! 少しだって長く遊びたいわ! ね、エウレカもそう思うでしょう?」

「あおんっ! わんわんっ!」


 元気のいい一人と一匹だ。

 暫く会えないことは僕も寂しい。相手もそう思ってくれることを嬉しく思いながら、僕は少しだけ歩調を早めることにした。

 元気よく手を振ってくるイストリアと、その側に寄り添うようにして尻尾を振るエウレカ。

 足を早めたことで、距離が近づいて――


「イストリアッ!!!」

「え……?」


 ――ふたりを覆う影に、気がついた。

 それは小さな子供と犬に対して、あまりにも大きかった。

 土煙をあげて、路地から飛び出すようにして現れたのは、馬車だった。

 御者は無人であり、馬の目は血走っている。停めていた馬車になんらかの異常があってそうなったのか、御者が振り落とされたのか。

 どんな理由があるにせよ、現れた馬車はすでに人を乗せるものではなく、走る巨大な凶器と化していた。


 当然のように悲鳴が上がり、多くの人が逃げるための動作を取る。

 小さな少女と犬はその動作に巻き込まれるようにして、逃げ遅れた。


「っ……!!」


 手を伸ばした瞬間に浮かんだのは、迷いだった。

 ここで言葉を紡ぐのは簡単だ。僕にはそれができる。そして、今まさに潰されようとしているひとりと一匹を救うことができる。ただそうあれかしと叫ぶだけで、僕が望んだものは凍るのだから。

 悪魔の力を使い、あの馬車を凍らせて動けなくしてしまえばいい。それでイストリアとエウレカは救われる。

 だけどここは往来であり、どうあっても人の行き来がある場所だ。

 今この瞬間に力を使うことがなにを意味するのか。僕にだって分かる。

 きっと静寂が訪れるのはほんの一瞬。なんの詠唱もなく、ただ暴力的な力を振るった存在に対して、投げられる言葉はひとつだけ。


 ……僕は悪魔だ。


 それはどうしようもなく変えられない事実で、投げられたとしても否定できない。

 けれど僕が悪魔であるということを知られてしまうということは、クェルと僕にとって致命的なことだ。


「くっ……」

「ぅわんっ!!」

「っ!?」


 迷っているうちに、動くものがいた。

 それは孤児となったイストリアにとって、唯一残った家族。エウレカだった。

 エウレカはイストリアへ向けて、全身でぶち当たった。

 大型犬であるエウレカの体当たりは、小さな子供ひとりを突き飛ばすのには十分な威力を発揮した。


「エウレカ……!?」


 イストリアが名前を呼んだ瞬間、エウレカは嬉しそうに、呼ばれた名前に応えるようにして吠えた。

 そして、暴走する質量が毛玉を飲み込んだ。


「い……いやぁぁぁぁぁぁ!!」


 少女の叫び声さえも、馬の蹄の音がかき消していく。

 馬車が通ったあとに残ったのは、おびただしい血液と土埃に汚れて、変わり果てたエウレカの姿。


「っ……イストリア、エウレカ!!」


 呆然としてしまったのは、ほんの一瞬だった。

 僕は放心状態のイストリアに駆け寄り、エウレカのことを抱き上げる。

 傷だらけのエウレカはぐったりと重かったけれど、構わなかった。


 ……馬鹿だ、僕は!!


 理性なんて働かせずに、助けるべきだった。

 一瞬。ほんの一瞬だけ、保身を考えてしまった。その一瞬がイストリアとエウレカの生命を失わせることくらい、あの状況ならば分かっていたはずなのに。

 半ば引きずるようにして、路地へとエウレカを連れて行く。当然、イストリアもいっしょだ。

 未だ人目は暴走する馬車に向いていて、僕たちを追う人はいなかった。そもそも犬が轢かれた程度で、それほど注目を集めたりはしない。


「お、お兄さん、え、エウレカ、が……エウレカ、私を……え、えうれ……」

「大丈夫。大丈夫だよ、イストリア」


 なにが大丈夫なものか大馬鹿野郎。

 罵詈雑言を心の中で自分に浴びせながら、僕はイストリアを抱きしめた。

 いつも太陽のように明るく笑っていた彼女は、今は見る影もない。泣きわめいていないのは、まだ現実を理解する余裕が無いからだ。

 地面に降ろしたエウレカの身体はまだあたたかいものの、明らかに深い傷が多く、足も本来の可動域とは言えない方向に曲がっている。

 呼吸は感じられるけれどひどく弱く、口からも血液を吐いている。恐らく、内蔵まで傷ついているためだろう。

 獣医に診せるまでもなく、これは助からない。そもそも、獣医の元へと辿り着く前に、エウレカの体力が保たない。


「……イストリア」


 それでも僕はひとつだけ、助ける方法を知っていた。


「イストリア、少しだけ落ち着いて、僕の話を聞いて欲しい」

「おに、い、さん……?」


 今から自分が言おうとしていることがなにを意味するのか。それは僕自身がなによりも分かっている。

 いろいろな言い訳や止めようとする声が頭の中をよぎっては過ぎて、だけど消えていく。

 最後の迷いとして現れたのは、クェルの優しげな微笑みだったけど、それすらも僕は唾を飲み込むことで振り切った。


「エウレカはまだ生きている。でも、このままだと死んでしまう」

「い……嫌!! 嫌よ、そんなの!! 私の最後の家族なのに……エウレカまで、私を置いていってしまうなんて、ぜったいに嫌っ……!!」


 彼女の口からこぼれる言葉はひどく当たり前で、純粋な望みだった。

 家族と一緒にいたい。離れたくない。生きていて欲しい。

 それを望むことが悪だなんて、誰が言えるのだろう。

 確かに僕は悪魔だ。だけど、元は人間だ。人の心が分からないなんてことはない。


 僕に与えられた力は強大で、それはクェルが言うように、小さな町くらいなら簡単に滅ぼしてしまえるほど強いのだろう。

 だけど力は所詮、力でしか無い。与えられた力でなにを成すのかは、決めることができる。


「……分かってる。僕も嫌だ。せっかくできた友達を、亡くしたくはない。だからイストリア、ひとつだけ約束してほしい」

「や、やく、そく……?」

「うん。今から僕は特別な薬を使って、エウレカを治したいと思う」

「治せるの……!?」

「うん。とても特別な薬だからね」


 すらすらと嘘が口をついて出て来ることに、罪悪感はない。

 最初から嘘だらけの関係なのだ。胸の痛みは時折感じるだけ。なによりこの嘘はお互いを守るためのものなのだから、つかなくてはならない。


「だけどそれは凄く珍しい薬でね、商人として、他の人に知られたくないんだ。だから……今日、今から起きることをすべて、秘密にできる? それが僕と君の、『契約』だ」

「……うん、分かった。秘密にするわ。ずっと、きっと、誰にも言わない。だからお願い、お兄さん……エウレカを助けて……!!」

「……ああ、もちろんだよ」


 契約という言葉を、きっとイストリアは商人が使う言葉だと思っているのだろう。

 けれど、本当は違う。僕が口にした契約は、悪魔と人間が結ぶ契約だ。

 悪魔としての力を振るう。そのために、彼女に嘘をついて、契約をさせた。

 イストリアはエウレカの側を離れない。彼女に知られること無く、力を遣うのは無理だ。だから、契約して、口止めさせた。

 こんな大怪我を治す薬なんて持っていないし、あるわけがない。

 彼女の純粋さにつけこんで、僕は嘘をついたのだ。


「……目を閉じて、イストリア。これは秘密の薬だから」

「う、うん」


 涙をいっぱいに浮かべた紅の瞳が閉じられ、透明なしずくがこぼれる。

 それを手指でそっと拭ってあげると、ぴくりとイストリアは肩を震わせて、しかし瞳はぎゅっと瞑ったままだった。

 その様子をいじらしいと思いながら、僕は指を舐める。塩の味だ。

 あくまでも自然な動きで彼女の耳を塞ぎ、音も遮断する。イストリアは素直に、闇と静寂を受け入れてくれた。


「……ごめんね」


 つぶやいた言葉が誰に向けたものかは、僕自身にも分からなかった。

 ミルフィさんにクェル以外の人とも契約できるということを教えられたけど、そのことを忘れろと言っていたクェルか。

 僕の勝手な保身のために嘘を信じ込まされることになったイストリアか。

 或いは悪魔の手によって、死の淵から無理矢理に叩き起こされようとしているエウレカか。


 既に、悪魔の契約は結ばれている。クェル以外と契約をして悪魔の力を行使するのははじめてだけど、悪魔としての本能なのか、なんとなく分かる。

 胸に灯る気持ちは、義務感と、使命感に似ていた。

 さあ、世界に忌まわしき僕の名前を紡ごう。


「……僕は、悪魔ファルレア。傷よ、退(しりぞ)け」


 言葉を紡いだ瞬間に、魔法は確かに効果を発揮した。

 この世界の理から外れた、悪魔だけが使う外法。

 それはまるでこの世界の法則を無理矢理に捻じ曲げるかのように、エウレカの傷を癒やした。流れる血は止まり、曲がった足は元に戻った。

 僕が使える癒やしの力は、氷や冷気の魔法ほど強くはないと、クェルが言っていた。

 使うのははじめてだったけれど、これでそう強くはないのなら、上位の悪魔はどれほど凄いのだろう。そんなことをぼんやりと考えながら、僕は片手をイストリアの耳から離して、エウレカの身体に触れる。

 毛の束をかき分けた先、肌にはほんの少しだけ傷跡が残っていると感じられる手触りがあるけれど、傷そのものはしっかりと塞がっていた。

 呼吸も落ち着いてきたので、もう大丈夫だろう。


「……もういいよ、イストリア。目を開けて」

「うん……あ……」

「……くぅん?」

「エウレカっ!!」


 立ち上がって小首を傾げるエウレカに、イストリアは迷いなく抱きついた。

 瞳に浮かぶ涙は、悲しみではなく喜びでこぼれるもの。イストリアは涙を拭くようにして、エウレカに擦り寄った。そしてエウレカもそれを拒むこと無く、嬉しそうに尻尾を振った。


「ありがとう、お兄さん……!」

「どういたしまして。内緒にするって約束、守ってね」

「もちろんよ! 絶対に誰にも言わない! だから、だからね……」

「うん?」

「……買い付けが終わったら、きちんと帰ってきてね。たくさんたくさん、お礼をするわ。きっときっと、約束よ!」

「……うん。分かったよ、イストリア」


 悪魔の力を人助けに使えたし、エウレカを助けられた。

 なによりも『契約』とは別の、優しくてあたたかな『約束』を得ることができた。

 嬉しさと安堵で、僕は自然と口元を緩めていた。

 この約束は、きっと果たそう。

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