プログラムにはないもの
悪魔としての生活にも、随分と慣れてきたようにも思う。
鏡に映る自分の見た目が美形だということも、その頭に角が生えているということも、明らかにふつうの人間から逸脱した身体能力を持っているということも、当たり前だと思うようになった。
人里に降りたとき、正体を隠すために目立たないように振る舞うことも自然とできるようになってきた。
油断をしはじめたというわけでは無いし、納得をしたわけでもないけれど、自分のことを『もう人間ではない』と思える程度には、『悪魔ファルレア』という名前は僕の中に根付いてきている。
手探りなところも多くあるけれど、それは僕という存在がこの世界ではじめての人造悪魔なんてややこしい存在であるがゆえだ。
生前の記憶が無いこともあり、あまり過去のことや自分のことにこだわらずに日々を過ごせているのも、大きいのかもしれない。
「よし、頑固な油汚れをやっつけたぞう……よしよし」
「……悪魔というよりは、すっかり主夫業が板についたように思うんだが」
「ミルフィ。掃除はファルレアの趣味らしいので、好きにさせてあげてください。どうもああいう、地味なことが好きらしくて」
「所帯じみた悪魔がいたもんだなあ……」
悪魔使い二名から微妙に不名誉な評価が下される。
掃除を続行しつつ、僕はふたりに言葉を返した。
「別に掃除が趣味ってわけじゃないんだけどね……」
「あら、そうなんですか? 毎日楽しそうに勤しんでいるので、てっきり好きなのかと」
「毎日クェルが汚すからでしょ……?」
どういうわけかこっちがどれだけ頑張って家を綺麗にしても、クェルはその日のうちに見事に汚してくれる。
毎日のように廊下に転がるなんだかよく分からないオブジェだとか、怪しげな言葉の書いてある本だとかを見るこっちの気持ちにもなって欲しい。毎朝気分が滅入って仕方がない。
そんなわけで、僕は今日もせっせと掃除をしていた。家が綺麗になるのは気持ちがいい。たとえ明日には汚されるとしてもだ。
来客があるときに掃除をするのは無作法だとは思いつつも、その来客はミルフィさんだ。この光景にもなれっこだろうし、我慢してもらうとしよう。
「……意外だな」
「なんですか、ミルフィ。言っておきますが、私だって自分が造った悪魔がこんな性格をしているなんて意外ですよ。私はそのあたりのことは設定しなかったのですから」
「いや、そこもなんだけどそうではなくて。クェルがファルレアくんを人間のように扱っているのが意外でね」
ミルフィさんはそう言って、ゆったりとした動きで足を組み直す。
テーブルの対面に座るクェルは相手の動作を眺めつつ、形のいい眉を歪めて、
「そうですか?」
「ああ。君はもう少し、悪魔に対して冷たいと思っていたからね」
「冷たい……ああ。そうかもしれませんね。ですがそれは、ミルフィも同じでしょう。悪魔使いと悪魔のつながりなんて、対価という分かりやすい取引を挟んだもので、そこに心なんてものは無いのがふつうです。せいぜい常連にサービスする程度のもので」
「だろう? だからもっと雑に扱うものだとばかりね……なにか心境の変化でもあったのかい?」
「別になにも。……契約を果たしてただ帰っていくだけの悪魔であれば、私もそのように扱いますよ。ですが……」
クェルはそこで言葉を切って、ちらりとこちらに視線を投げてきた。
会話に呼ばれたわけではないので掃除を続行しつつ、一応視線だけ返しておくと、彼女は頷きをひとつ。それから、クェルはミルフィさんへと向き直った。
「ご覧の通り、ファルレアはこの世界に私が生み出した人造悪魔です。悪魔の世界へと帰ることはできません」
「……それで?」
「つまりファルレアは、いろいろと特異な存在なのです。もともと人間の魂を素材にしていますから、ふつうの悪魔のように扱うには、少し人間に近すぎますしね」
「へえ……」
「少なくとも、私は彼のことを同居人としても見ています。だから悪魔としての役割を忘れない範囲であれば、趣味や意思は尊重するつもりです」
聞こえてくる言葉は嬉しいものだけど、今は悪魔使い同士の話だと思ったので、口を挟まずに手を動かした。
そもそも話に入ったところで、専門的なことになってくるとよく分からないし。あ、この食器ヒビ入ってる。割れるといけないから今度買いなおさなくっちゃ。
「ああ、ファルレア。掃除ついでにそこの書類を取ってもらえませんか」
「あ、うん。これ?」
「ええ、それです。それの下半分……そう、それくらいですね」
言われたとおりに書類の束を持っていくと、クェルは「ありがとうございます」と律儀にお礼を言ってから、それを受け取って机の上に広げた。
クェルが促すまでもなく、ミルフィさんは興味深そうな表情で前のめりになって、書類を眺める。
書かれている文字は僕にはさっぱり理解できないので、悪魔使いが使うなんらかの暗号だったり、悪魔と会話するときに使う秘密の言葉だったりなのだろう。いずれにせよ、真っ当なものでは無さそうだ。
実際、ミルフィさんが書類へ向ける目は真剣で、その紙束に書かれていることが悪魔使いにとって重要な事であるということくらいは理解できる。
暫しの間書類を眺め、ミルフィさんは身体を起こした。
「クェル。まさかこれは……」
「ええ。恐らくはあなたが考えているとおり、悪魔創造プログラムの書類ですが」
「……無造作に置きすぎじゃないかい? 仮にも最先端の、しかも革新的な技術の方法だっていうのに」
「無造作ではありませんよ。ちゃんと置き場所を把握していたじゃないですか」
「いやそうではなく……ああ、うん、いいか。クェルのそのテンションは前からだし」
明らかに呆れた目をしつつも、ミルフィさんは溜め息を吐いて言葉を切る。
クェルは一見すると無造作に散らかしているようでいて、実際はなにをどこに置いたかはぜんぶ把握している。逆に言えば把握した上で散らかすので、彼女以外の人間には無秩序にしか見えないので質が悪い。
その上でこちらが掃除してもそれはそれで文句を言わないのだから謎だ。執着しているんだかしていないんだか、よく分からない。
つまりは重要な書類であったとしても、今はそこにあるのがいいと彼女が判断した場合はそこに置かれてしまうということだ。ミルフィさんが呆れるのも当然だとは思うけど、こればかりはクェルの性格上、仕方ないことだと言える。
「さてと……ではこれを、こうしましょうか」
相手の呆れの視線を恐らくは理解した上で無視しつつ、クェルは机の上に広げた書類を再びまとめた。
彼女は手近に置いてあった封筒へと書類を雑に詰めて、糊付けしてしまう。書類の量は多く、最終的に出来上がった書類入り封筒の数は五つにもなった。
すべての封筒に自分の名前を書いてから、クェルはそれを重ねて、ミルフィさんへと渡す。
「“夜会”への報告書です。人造悪魔についてあらかた私の中でもまとまりがついたので、そろそろ提出します」
「……そうか。ようやくか。よし、任せてくれ。“夜会”の連中、驚くぞ」
クェルの言葉に頷いて、ミルフィさんはにやりと笑って封筒を受け取った。
髪をかきあげて立ち上がり、自らの香りを遺すようにして、彼女は部屋を出ていってしまった。
相変わらず別れの挨拶すらもないさっぱりした退出だけど、その光景ももはやいつものことだ。
会話の相手がいなくなったことで静寂が訪れた室内で、僕はクェルに疑問符を投げる。
「……クェル、今の書類って、僕のことも書いてあるの?」
「ええ。もちろんです。あれは悪魔創造プログラムの方法や、それを実際に行ってみてのレポートも含めてますからね」
「……それを、魔女の組合に提出した?」
「組合ですか。分かりやすい言い方をすればそうですね。これで、少しは悪魔使いの生き方が楽になるといいのですが……」
溜め息を吐くクェルの顔はどこか憂いを帯びていて、こぼす言葉が本気であるということが分かる。
悪魔使いであり、実際にとても善人とは言い難い彼女だけど、同じ悪魔使いに対して多少の仲間意識はあるらしい。
悪魔を創造する理由について、クェルは『より少ない贄で、安全にその力を行使するため』だと言っていた。そこに嘘はなく、真剣なのだろう。
僕に対しても厳しいだけではない。彼女はめちゃくちゃだけど、優しくない人というわけではないのだ。
「まあ、ミルフィに任せておけば書類は間違いなく届くでしょう」
「ミルフィさんのこと、信頼してるんだね」
「古い付き合いですからね。悪魔使いとなったばかりの頃の私に"夜会"という組織を紹介してくれたのも彼女ですから」
重要な書類をぽんと渡してしまう辺り、本当に信頼しているのだろう。
見た感じお互いの年はそこそこ離れているけど、クェルとミルフィさんは側で見ていても「仲がいいんだろうな」と自然に思える間柄だ。
「ファルレア。のんびりとでいいので、旅支度をお願いします。恐らくは悪魔創造プログラムの件について詳しい説明をするために、近いうちに“夜会”へと出頭することになるでしょうから」
「……それなら、わざわざミルフィさんに頼まなくても、クェルが直接書類を持って行ってもいいというか、むしろその方がいいんじゃなかったの?」
「こういう重要事項は一度、上位の悪魔使いが精査してから改めて指示があるんですよ。"夜会"のアジトはなにもなくて、精査の間、何日も待つのはヒマなんです」
「ああ、そういう……」
確かにクェルの性格上、なにもないところでじっと待つのは苦手そうだ。
ミルフィさんに素材収集を頼むときもあるけれど、クェルはどちらかと言えば忙しないタイプで、暇があればなにかの研究に没頭しているし、たまに休んでも買い物など、外に出るのを好みとしている。
その彼女に、数日なにもせずにじっとしていろと言うのは酷な話だろう。
「“夜会”での説明会のときにはファルレアにも悪魔の力を披露してもらうので、ついてきて貰うことになると思います。暫く家を開けることになるので、あの女の子……ええと、なんと言いましたっけ」
「イストリアのこと?」
「そう。あの子に、暫く会えないことくらいは伝えてあげてもいいと思います。確か、明日会うと言っていたでしょう? それと……さっき書類を持ってきてくれたので、契約の履行をしなくてはいけませんね」
そんな小さなことでと思うけれど、彼女の言葉を聞いて望みを叶えたのは本当のことだ。
このあたり、悪魔契約は融通が利かないと思う。どんな小さな望みでも契約として処理され、対価を払わないと彼女が消滅してしまうというのだから。
イストリアになんと説明したものかと考えつつも、僕はくちづけを貰うべく、彼女の側に跪いた。




