教会孤児
「お兄さん、ここのおばさんはいつもとっても優しいのよ! なんと、なんとパンを買うと、ひとつオマケしてくれるの!」
「そりゃお前さんが健気でかわいいからだよ。ほら、神父様によろしくね」
「ありがとう、おばさん!」
上機嫌な様子で、イストリアはパンを受け取った。
孤児、というとネガティブなイメージが湧くけれど、イストリアに悲壮な表情はない。
むしろその明るい笑顔はこちらまで元気になるようなもので、きっとパン屋のおばさんも、そこが気に入っているのだろう。
イストリアと知り合いになってから、暫くの時間が経過した。
はじめは僕も扱いに困っていたというのが正直なところだけど、最近は慣れてきた。
教会に近づけない身なのでイストリアたちに会えるかどうかは運に左右されるけれど、彼女といつも一緒にいるモップ犬ことエウレカが僕のことをよく探してくれるらしく、遭遇率は高い。
会ったときに次に会う日を約束することもあるので、結構な頻度で僕たちは顔を合わせていた。
教会にさえ近付かなければ気分も悪くならないし、彼女の無邪気さは癒される。
おまけに彼女はこの町について、結構な物知りだった。裏道や、隠れた名店のようなものをよく知っているのだ。
「イストリアは知り合いが多いんだね」
「えへへ……エウレカのお陰なの。お散歩してるとね、私をいろいろなところに連れて行ってくれるんだよ」
「あぉんっ」
名前を呼ばれて、エウレカは元気よく吠えた。くるくるとイストリアの周りを走り回り、上機嫌そうだ。
「いつも仲良しだもんね」
「うん。私の、たったひとりの家族だから。まだパパとママが生きていたころから、一緒にいるの」
出会ったとき、エウレカは教会のみんなが育てている犬なのだろうと思っていた。
けれど、実際はそうではなかったらしい。
イストリアが教会の孤児となる前から、彼女たちは一緒にいるのだという。
彼女が孤児となった経緯まではさすがに聞きづらい。今日までの会話から、捨てられた子というわけではないことは察しているので、孤児となった理由はほぼ間違いなく死別なのだろう。
ただ、その経緯までを聞くのはやはりはばかられる。相手はまだ小さな少女なのだから。
「はい、お兄さんにもパンを分けてあげる! 神様とパン屋のおばさんのお恵みよ!」
「ありがとう、イストリア。でも僕は自分の分は自分で払うよ。そのパンは教会のお友達に分けてあげて」
実際のところ教会の信者は多いはずなので、恐らくは生活に困窮はしていない。そう思いつつも、僕はイストリアからのパンを遠慮した。
少なくとも僕が知る限り、この世界の殆どの人間は教会の信者だ。熱心さには大きく差があるけれど、みんな教会という組織と少なからず関わっている。
生まれたときにほぼ必ず教会で洗礼の儀式を受けるはずだし、親や町の方針として賛美歌を歌わされたりもする。
一部の行商人のような無神論者や、聖神教以外の宗派――主に土着神信仰とかだ――に所属している場合もあるけれど、それは極少数。端的に教会という言葉を使えばまず聖神教会を指すくらいには、教会という組織はこの世界に深く根付いている。
実際、イストリアの格好などは、教会孤児だと言われなければどこか普通の家庭で暮らしているのだろうと思ってしまうようなものだ。
髪や肌の手入れが行き届いているということはきちんとお風呂に入れているということだし、服も多少のほつれや補修した跡くらいはあるけれど、そうひどいものではない。
ただ、やはり今パンを買ったのは教会のお金だ。寄付金は教会のために使われるべきもので、つまりは孤児のために消費されるのが正しい。イストリアの気遣いは嬉しいけど、さすがにそれを貰うのは気が引けてしまう。
幸い僕の方はクェルの方から結構な額のお小遣いを貰っているので、気軽にパンを買えるくらいには懐はあたたかい。
「おばさん。僕にもパンを頂けますか。そっちの丸いものを……ええと、みっつで」
「はいよ」
半分くらいは付き合いの気持ちでパンを購入して、僕はイストリアとともにパン屋さんを離れた。
相変わらずフードを目深に被っているけれど、町の人は気にした様子もない。行商人は恨みを買いやすく、顔で印象づけられることを嫌っている人も多い。そういった理由で顔を隠すことは珍しいことではないので、それほど不審には思われないのだろう。
のんびりと歩きながら紙袋からパンをひとつ取り出してかじってみれば、小麦の優しい甘みが広がった。ふんわりと焼けていて、味はいい。素材もさることながら、あのおばさんの腕も見事なものだ。
「うーん、上手だな……美味しいパンか。頼めば作り方、教えてもらえるかなあ」
「お兄さんはお料理が好きなの?」
「ん、あー、うん。たぶん好きなんじゃないかな……?」
我ながら微妙な返し方になってしまったけれど、自分でもイマイチ分かっていない部分だ。
悪魔として新しい命を授かった僕だけど、生前のことは覚えていない。知識として悪魔や生き物、常識のことは知っているけれど、『想い出』というものが完全に欠落してしまっているのだ。
だから僕がまだ人間だった頃にどんなものが好きで、どんな生き方をしていたのか、僕自身にも記憶が無いのでさっぱり分からない。
家族のことを思い出して悲しくなったりしないのはいいことなのかもしれないけれど、そのせいでたまに原因不明の執着心や興味が芽生えることがある。料理などはその最たるところだろう。
「たぶん好きって……ふふ。変なお兄さん」
僕の事情を知らないイストリアは、おかしそうに笑う。
それを可愛らしいと思いながら、僕はパンをちぎり、足元にいるエウレカへと投げてあげる。
一口かじってみて、塩や砂糖が含まれていないことは分かっている。これは小麦本来の味を楽しみ、料理の味を引き立てるための無塩パンだ。塩を使うと材料費がかさむので、貧乏人用のパンとも呼べるけれど。
「あぉんっ! はふはふ……」
「お兄さん、エウレカがこのパンが好きなこと、どうして分かったの!?」
「ああ、ええと。欲しそうにしてたのと、たぶん塩とか使ってなさそうだから、犬にあげても大丈夫かなって」
「お兄さん、物知りね……!」
犬に塩分はあまりよろしくない。それくらいの知識はもともと持っている。
もしかしたら生前の僕は、動物に少しだけ詳しかったのかもしれない。
「わんわんっ!」
「あはは、くすぐったいよ。食べ過ぎるといけないから、それくらいにしておこうね」
足元にじゃれてくるエウレカに言葉をかけながら、僕はパンを食べきってしまう。
残ったふたつはクェルへのお土産だ。このパンなら、きっとどんな料理とも合うだろう。
「エウレカはお兄さんのことが大好きみたいなの」
「そう? それなら嬉しいかな」
動物は目に見えないものや人の心、本性に敏感だと言うけれど、エウレカが悪魔である僕を警戒した様子はない。
抱き上げても吠えたりしないし、撫でると気持ちよさそうに尻尾を振ってくれる。
エウレカが犬として警戒心が緩いのか、それとも僕が悪魔としてあまりにも無害そうで反応しないのかは分からないけれど、それは僕にとってありがたいと思えることだった。
クェルといることが疲れるわけじゃないけれど、イストリアとエウレカの無邪気さや微笑みは、とても癒やされる。
いつまでも付き合っていてはいけないという気持ちもあるけれど、もう少しこのままでいたいと思うのも、本当のことだった。
「あ、そろそろ日が沈むね。教会の近くまで送っていくよ」
「いいの? いつもありがとう、お兄さん」
「可愛い護衛がいるとはいえ、女の子の独り歩きは危ないからね」
「えへへ。悪魔に連れ去られたりしちゃわないように、ちゃんと守ってね」
「……もちろん。きちんとエスコートするよ」
まさに今、悪魔に連れて行かれているとは口が裂けても言えそうになかった。




