深まる理解と、不理解と
「はっ……はっ……!」
あまりの気持ち悪さに、胃の中がひっくり返るのではないかと思った。
こみ上げてきたものを大量の水を飲むことで抑えつけて、荒れた呼吸を繰り返す。
……僕は、悪魔だ。
自分がどうなっているのか、分かったつもりでいた。
心の中で何度も繰り返して、納得した気持ちでいた。
そうなって何日も経過して、理解したと思っていた。
自分がどんな有様でいるか、分かってなんていなかった。
心の中で何度繰り返しても、納得できるわけがなかった。
こうなって何日が経っても、理解できるはずもなかった。
聖なる神が祀られた、巨大な十字架を視界に捉えて。
目が眩むほど荘厳な、教会の神々しい空気を浴びて。
やっと自分のことを、正しく理解することができた。
僕は、悪魔だ。
「ファルレア? 戻ったのなら、きちんと報告を――」
「――クェル」
「……ファルレア? どうしたんですか、ひどい顔をしていますが」
地下室からあがってきて、僕の有様を見たクェルの瞳から、いつもの余裕を持った雰囲気が消える。
彼女はすぐに僕の隣にやってきて、僕の背中や、腕などに触れていく。気分が悪くなっている僕は、それに抗うことなく、されるがままだ。
ぺたぺたと僕の頬を触りながら、クェルは僕の顔を覗き込んできた。
「外傷はなし。けれど、存在が揺らいでいますね。どうかした……いえ、なにが、ありましたか?」
「……教会に、近づいた」
「……バレてませんね?」
「分からない……教会の子供に無理やり連れて行かれそうになって、振り解けなくて……気がついたら、教会の側で……」
「近付かれたときに分からなかった……だとすると、新入りの孤児……ああいえ、今はいいですね。そんなことは。ほら、ファルレア。こっちに来てください」
引かれる手はさきほど出会った子供にされたように、強くはない。
むしろ優しく、細く絡む指は安心感さえ湧いてくる。
素直にそれに従って、クェルに連れられていく。行き先は、どういうわけか寝室だった。
彼女は手早く、ベッドの隅にあったキャンドルに火をつける。漂って来た深い香りは、森の奥にある湿った土のようで、どこか安心するものだった。
「ほら、ベッドへ行きますよ」
「……ごめん」
「謝る前に動きなさい。これは命令です」
そう言われては従うほかない。それ以前に、抵抗する気力すら湧いてこない。
半ば倒れるようにしてベッドに身を預けると、頭がそっと持ち上げられた。
それに対しても抵抗せずにいると、頭に柔らかな感触が押し付けられる。
「……ええと、クェル、これって……」
「膝枕です。ふつうの枕よりは落ち着くのではないかと……」
「……どちらかというと、恥ずかしいのだけど……」
「少しだけ口がきけるようになったのなら、成果はあったということでいいですね?」
確かに彼女の言うとおり、彼女の太ももから伝わる柔らかさやぬくもりや匂いは、ひどく落ち着くものだった。
彼女の存在だけでなく、部屋に満ちるキャンドルの香りや、ベッドの肌触り。それらが少しずつ、僕の心に安らぎを落としていく。
いつの間にか彼女の手指が、こちらの髪の隙間を通っていることを自覚しながら、僕は言葉を紡いだ。
「……悪魔になったって本当の意味で自覚することが、こんなに落ち込むなんて思わなかった」
「それに加えて、教会周辺の空気に触れたことが原因ですね。あなたはまだ生まれたばかり。教会の備えに対抗するには、まだ存在の安定が充分でないのでしょう。本来なら、教会の孤児なんて臭いで分かるはずです。そこは、その孤児が新入りでまだ教会の臭いがついていなかった可能性もありますが……」
そこまで言葉を紡いで、クェルは首を横に振った。
「いえ、今はどうでもいいですね。とにかく、ファルレアが無事に戻ってきてよかった」
「……大事な人造悪魔だもんね」
「ばかっ」
「あいた!?」
言葉を紡いだ瞬間、おでこをぺちんとはたかれた。
痛みに額を擦りつつ見上げてみれば、クェルはどこかむくれたような顔で、
「軽口を叩く暇があるなら、回復に専念しなさい。この世界における悪魔の存在は気力によるところが大きいのですから、自分で自分を蔑ろにするような言葉を口にするのはよくありません」
「で、でも……むっ!?」
事実だし、と言おうとした口が、クェルの唇で塞がれる。
紡ごうとした言葉は呼気となって、繋がっている彼女に飲み込まれるようにして漏れた。
は、とお互いに体温のある吐息をこぼす。唇が離れたのは、その一瞬だけ。もう一度彼女の方から口づけが振ってきた。
たしなめられるように、上唇に淡く噛みつくようなキス。びくりと跳ねたこちらの頭を抑えつけるようにして、長く、長く、拘束された。
「ん……おつかいができた報酬です」
「……クェル」
「ついでに存在の固定も改めてしておきましたから、気分も徐々に戻るでしょう」
ばさりと金髪をかきあげて、彼女の顔が離れた。
まだ残っている彼女の熱を確かめるようにして、自然と唇に触れてしまう。
見上げた彼女の顔は、もうこちらを心配するようなものではなかった。
「くふふ。私に口づけを施されてまだ気分が落ち込んでいるようなら、今度はトカゲの黒焼きを口に突っ込んで強制回復を施しますからね。あれは滋養強壮に効くんです」
「も、もう元気になりました!」
「よろしい。……ファルレア。あまり気にしないように」
「え……?」
「あなたを悪魔にしたのは私です。だから私はあなたに悪魔のことを教えます。そもそもあなたが望んでいない契約を埋め込んだのは私です。あなたがミスをしたのなら、それは私の責任ということ。だから、気に病むことはありません。もしも正体が知れていたら、そのときはこの隠れ家を破棄して別のところに移るだけのことです」
正直なところ、もっと怒られるのだと思っていた。落胆されてしまうのではないか、とも。
だけど、実際に渡された言葉は優しくて、頭を撫でられる感触は、安心する。
翠玉のような瞳は澄んだ色で、とても彼女が邪悪な存在だなんて思えない。
「……クェルは、どうして悪魔を使うの?」
「それ意外に、望みを叶える方法を知らなかったからですよ。それ以上でもそれ以下でもありません。悪魔使いは自分勝手で、深い意味や、考えなんて持ちません」
本当、にそうなのだろうか。
彼女を見ていると、そんなふうにはとても思えない。
獰猛に笑い、自信たっぷりにしている悪魔使いとしてのクェル。
優しく微笑んでこちらを包み込む、まるで聖女のようなクェル。
どちらが本当の彼女なのだろう。分からない。
ただ、分かっていることがあるとすれば、ひとつだけ。
「……そういえば、さっきここに連れてきたときも、私は命令しましたね」
「あ……」
「……契約、果たしましょうか」
彼女の口づけは、いつもとろけるように気持ちよくて。
まるで自分がここにいてもいいのだと、許されているようにすら感じるということだ。




