はじめてのおつかい
「いいですか、ファルレア。今日はおつかいをしてもらいます」
「おつかい?」
「ええ。先日一度、私とともに降りた町。あそこで食材を買ってきてください」
「えっ」
朝食の席で唐突に言い渡されたおつかいの内容に、僕はひどく驚いた。
なにせ、人里にひとりで降りてこいというのだ。
悪魔である僕にとって、人間がいるところは敵地のど真ん中に等しい。正体がバレればその時点で狩り出され、退治されてしまう。思わず、手に持ったスープのお椀を取り落としそうになってしまった。
悪魔や悪魔使いにとって人里に降りるという行為は、それほどまでに危険度の高いことだ。けれど言い出した本人は涼しい顔で首を傾げて、
「なにを驚いてるんですか?」
「いや、いいのかなって……」
「ファルレアの料理は美味しいですから。好きな食材を買ってきて、また美味しいものを食べさせてください」
「その気持ちは嬉しいけど……ええと」
「くふふ。前と同じように魔術や外法による偽装はきちんと施します。教会に足を踏み入れたり、聖別されたワインでもあおらない限りは正体がバレるなんてことはありませんよ」
クェルはいつもどおりに笑って、僕にお金の入った麻袋を渡してきた。
受け取ってみるとそれはずっしりと重く、結構な額が入っていることが分かる。
「……クェルってお金持ちだよね」
「ふふ、法の外にあるものには文字通り、法外な値がつくんですよ?」
お金持ちの理由はなんとなく分かったけど、深く知りたいとは思わなかったのでそれ以上は言わなかった。
◇◆◇
「……ええと、こんなところ、かな」
フードを目深にかぶり、僕は商店が建ち並ぶ地区をひとりで歩く。
自分の格好が結構怪しいかと言えばそんなことはなく、周りを見るとそう言う人はちらほらいる。
商人など、顔を隠して商売をしたがる人はちらほらいる。なのでこの辺りの区画には、そういった格好をしている人が多く、紛れ込みやすい。
そこそこ大荷物になってきた食料の袋を持ち直し、僕は移動を始める。
……やっぱり気を使うなぁ。
ひとりになって感じるのは、気楽よりは不安が強い。
正体がバレたときのことを考えると、とてもじゃないけど気軽な買い物なんてできるはずもない。
最低限と思って買い揃えたのは、主に調味料。それも町の人ではなく、行商人らしき風体の人間から買い付けた。彼らはいずれ町を離れていくので、こちらに興味を持つ可能性が低いと判断したからだ。
「胃が痛くなってきたから、早く帰ろう……」
本当はもっと荷物も持てるし、いくつか買いたいものも残っているけど、僕の精神の方が限界だ。僕はクェルのように太い神経をしていないのだ。
もちろん早く帰りたいと思っても、慌てて動いたりはしない。目立たないように、まるで買い物を終えて帰るだけのような足取りで町の外を目指す。
クェルのように人波に乗るほどは素早く動けないので、押しのけられるようにして動いた。
「ふぅ」
商業区を抜けて、一息。
町の外に出るときに簡単な検問はあるけれど、小さな町なので大したことはない。
商業区には人が多いけど、全体として見ればこの町はそこまで大きな規模ではなく、地図で見る限り、辺境寄りだ。国にとっても重要拠点とはいえず、検問も緩い。
とりあえずの安堵の吐息を吐いたとき、気配を感じた。
「ん……?」
疑問を感じて見下ろしてみると、そこにいたのは僕の腰くらいの高さのある毛玉だった。
毛玉はこちらの足に自分の匂いをつけるようにして、すりすりと身を寄せてくる。
「ええと……」
「こらぁー! ダメでしょ!」
どうしていいか分からずに立ち尽くしていると、女の子らしいソプラノで、たしなめるような言葉が飛んできた。
その言葉にはじかれたようにして、毛玉は僕から離れていく。毛玉が走っていった方向に目をやれば、10歳くらいの少女が、果物が入った紙袋を抱えてこちらへと駆けてくるのが見えた。
……犬、だよね。
少女に怒られている毛玉が出す声は高く、吠えるような響き。
大きな毛玉にしか見えないけど、よく見ると四足歩行で尻尾もあるので恐らく犬なのだろう。いわゆる、モップ犬的な。
「ごめんなさい、うちのエウレカが……エウレカ、急に走っちゃダメよ。馬車に轢かれたらどうするの!」
「エウレカ、っていうんだね、その子」
「そう、そうなの。賢いんだけど、人なつっこくて……本当にごめんなさい、お兄さん」
茶色に近い赤毛を揺らして何度もぺこぺことこちらに頭を下げる少女は、活発そうな顔つきをしている。瞳は鮮烈な紅色だ。
服は少しほつれて古い印象を受けるけど、家族のお下がりかなにかだろうか。
予期せずして関わりを得てしまったとは思うけど、こんな小さな子から慌てて逃げるのも変だろう。僕は努めて笑顔で、彼女に言葉を返した。
「いいや、気にしなくていいよ」
「で、でも、でもお兄さんの服が……」
「貰い物だから。ほんとに気にしなくていいよ」
実際、僕が着ている服は貰い物だ。クェルが用意した、『旅人っぽく』見える衣装。
それっぽさを出すために元からほどよく汚れているので、今更犬の足跡が多少付いたところで問題はない。
「お兄さん……でも……」
「いいから。それより、君は家に帰らなくていいの?」
「あ……」
僕の言葉に気付いたようにして、彼女は自分が抱えている紙袋に目をやる。
見たところ、ペットと一緒に買い物をした帰り。つまり彼女には戻らなければいけないところがある。
汚れたことは気にするようなことじゃないし、関わりあいになりすぎても良くはない。適当な理由をつけて、別れてもらうのが賢明だ。
……僕は悪魔だ。
悪魔とは関わってはいけない。それはこの世界で、ごくごく当たり前のルール。
何百年も前から悪魔の誘惑と戦ってきた人間が定めた、絶対の決まりごと。
悪魔も悪魔使いも人類の敵だけど、それに関わったものも、『悪魔に汚された』とされて処刑されてしまう。だから、こんな小さな子と関わるなんて以ての外だ。
「それじゃ、僕はこれで――」
「――ああ、待って、待って! じゃあお兄さん、私の今のおうちに来て!」
「えっ」
「歓迎するわ! お茶とかお菓子もあるわ! その服も洗濯するわ! ちょっと、ちょっと家族が多くて騒がしいけど、たぶん賑やかで楽しいと思うから!」
「わ、ちょ、ちょっと!?」
強引に手を引かれて、僕は彼女に引きずられるようにして移動を強要される。
足元にはモップじみた見た目の犬がまとわりついて、わんわんと吠え立てている。それどころか僕の服にこれでもかと犬の手スタンプを量産している。確かに汚していいとは言ったけど、遠慮なくやれとまでは言ってないのに。
「ほら、エウレカもまた汚してるし! これはもう私がちゃんと洗濯するしかないわ! 大丈夫、慣れてるから!」
「ちょ、ちょっと話を聞いて!? 僕も急いでるんだって!」
「じゃあ急いで洗濯するからぁ!!」
「順序がおかしくなってるよね……!?」
彼女の手を振りほどくのは簡単だ。子どもの力で引っ張られているのだから。モップ犬だって、犬にしては大型だけど所詮は犬なので、怒ることはできる。
けれどそれは乱暴だし、もしかしたら怪我をさせてしまうかもしれないとも思う。
そうして遠慮をしているうちにも、彼女はぐいぐいと僕のことを引っ張る。えっさほいさと掛け声をあげて引っ張っていく様子は、まるで大きな犬を引きずって家に連れ帰ろうとしているみたいだった。
「いや、本当に……っ!?」
いいから、と。そう言おうとして、嫌な感覚が背筋を撫でた。
まるで魂の奥が、そこから逃げろと叫んでいるような、決して心地良いとは言えない感覚。
ドラゴンに追い回されたとき以上に、心臓が耳障りなほど跳ねている。
「ほら、お兄さん。あそこ、あそこが私の家よ!」
脂汗を流していることを気取られないように、そっと彼女が指をさす方へと視線を移す。その瞬間、僕はすべてを理解した。
古びた石造りでありながら、どこか荘厳な雰囲気のある建物。それもそのはず。天へと伸ばすようにして、建物の中央には十字架が掲げられているのだ。
神様への祈りを象徴するシンボルであり、異端者を磔にするために存在する、巨大な十字架。
「……君は、教会の」
「うん。そうなの、私は教会に住んでて……あ、びっくりした?」
恐らくは僕の反応が、孤児を避けるそれだと勘違いしたのだろう。
彼女は慌てたように僕から手を離すと両手を振り、言葉を紡ぐ。
「たしかに私もみんなも孤児だけど、教会は清潔で、誰も病気なんて持ってないし、大丈夫なのよ。神父様はいつも、いつもとっても良くしてくれるの」
教会の入口で、初老の男性が手を振っている。あれが彼女の言う神父様か。いやそんなことはどうでもいい。
ここから先には近づけない。教会には近づかないように。クェルに言われた言葉が何度も頭に響く。それよりももっと、僕の中にある悪魔としての血が、あそこには近づいてはいけないと悲鳴をあげて、身体中をのたうつように巡っている。
「ご……ごめんっ!!」
「ふわっ!?」
外からどう見えるか。彼女の誘いにどう理由をつけて断ろうか。
ここに来るまでに考えていたすべてを置き去りにして、僕はその場を駆け出した。




