悪魔の契約書
人造悪魔になって、暫くの日数が経過した。
もはやいつものことになってきたクェルの屋敷の掃除に、僕は没頭していた。
なにせ彼女と来たら、どれだけ掃除をしても次の日には見事に汚してくれるのだ。
生活能力が皆無というわけではない。彼女は適当に物を置いているようでいて、なにをどこに置いただとかはきちんと把握しているし、片付けたものは置き場所を教えればそれを記憶して、必要があれば取り出す。
つまり、単純に片付けが出来ない上に、それをなんとも思っていないのだ。
僕はどちらかというと綺麗好きだし、廊下に明らかに怪しいオブジェやら、なんの儀式に使うのか知りたくもない謎の植物やら肉塊やらが転がっているのはさすがにどうかと思うので、こうして毎日せっせと片付けている。
今日の格好は動きやすいように割烹着スタイル。頭に角があるためにほっかむりが少し大きめになってしまっているけれど、まあ許容範囲だろう。
むしろ頭の角に掃除用具のヒモを引っ掛けて動きまわれるくらいには、この身体にも慣れてきた。
そんな調子で部屋の汚れを追って動き回る僕に、軽い調子で声がかかった。
「いやあ、悪魔生活にも慣れてきたみたいだね、ファルレアくん」
「はあ、どうも……慣れてきたというか、諦めてきたというか」
そう。悪魔使いと話すことも含めて、少しだけ諦めがついてきてしまっている。
今こうして言葉を交わしている相手だって、その禁忌の使い手なのだから。
すらりとした足を惜しげもなく晒し、艷やかな黒髪をかきあげる、大人びた女性。名前は確か、ミルフィさんと言っただろうか。
彼女のことを悪魔使いだと知らなければ、恐らくは多くの男性が放っておかないだろう。クェルもそうだけど、彼女も相当な美人だ。
「まあ、彼女は私の古い友人だが、性格は悪魔より悪魔的だからな。君のようにその辺の人間並に良識のある悪魔も珍しいので、コンビとしては噛み合っていると思うよ」
「それ、暗に僕に被害が多いって言ってませんか!?」
「ははは、頑張れ。私も苦労したから」
からからと笑って、ミルフィさんは僕の背中を音が出るほど叩いた。ちょっと痛い。
ミルフィさんはクェルの友人であり、運び屋のようなこともやっているらしく、定期的に怪しげな荷物を届けに来てくれる。その後は家に居座るのがいつもの流れらしい。
そして今日は研究で忙しいクェルの代わりに、僕が仕事の片手間で相手をしている形だ。
ミルフィさんはクェルとの付き合いが長いようで、こうして話していると、よくクェルのことを話してくれる。
「まあ、悪魔使いとしての技量は間違いなく、私より上……それどころか、“夜会”のメンバーでも上位だろうがな」
「あの、“夜会”ってなんですか? たびたび耳にはしているんですけど……」
「“夜会”は悪魔使いの相互補助組織だよ。といっても必要最低限の助け合いしかしないが。比較的安全な場所や、悪魔の生贄となる素材の生息地、新しい悪魔の情報や技術……そういった情報交換する程度だ。ただ、それでも悪魔使いが唯一大手を振って交流が持てる組織と言っていいね」
「はあ、なるほど」
悪魔使いはそこにいるだけで害悪とされ、追い回される。掴まれば許しなどどいう例外はなく、良くてその場で処刑、悪くて拷問死だ。
そういった存在だからこそ、少しでも生き残る可能性をあげようとして作られた組織。そんなところだろうか。
「まあ基本的に悪魔なんて人間社会に馴染みもできないクズの集まりだから、そこまでいい集まりじゃないけどね。はっはっは!」
「今ものすごく自分たちを貶めた声が聞こえましたが」
「事実だからねえ。悪魔使いなんてロクなやつがいない。それは私も、もちろんクェルもだ。今こうして君と話しているのだって、世界ではじめての人造悪魔というやつに興味がある、程度の理由でしか無いからね」
「……まあ、それでも良いですよ。気は紛れますから」
黙って掃除をしているというのは、気持ちがいいけど結構暇だ。
クェルは部屋にこもることが多い。僕がこうして掃除をしているのも、屋敷が汚いのが気になるのももちろんだけど、暇つぶしの意味合いが強い。あ、でっかい埃取れた。
どちらにせよ、話し相手がいるのはいいことだ。
先日は人里に降りて買い物をして、その中でいくらか会話をすることはあったけれど、やはり正体がバレないようにと、かなり神経を使った。悪魔となった今では、気兼ねなく話せる相手なんてものは希少なのだ。
「確かに、いきなり悪魔に仕立て上げられるなんて、よほど気が滅入るだろうしね。ところでファルレアくん。君は、悪魔の契約書について知っているかい?」
「あー……人間と悪魔の契約内容ですよね。なにをもたらして、なにを貰うかっていう」
例えば僕とクェルなら、『なにか言うことを聞く度に、代価としてキスひとつ』、という具合。
悪魔によって好むものはある程度決まっているけれど、悪魔と人間との契約は、お互いに納得の行く交換条件によって結ばれる。悪魔への接し方次第で、同じものが望みでも、悪魔から求められるものが変わることはよくあるらしい。
「そう。悪魔にも心があるからね。気に入った相手には格安で力を提供するし、気に食わなければ『ふっかける』。まあ君の場合は悪魔として生を受ける前に、クェルに契約内容を設定されてしまったから、変えようがないのだけど」
「…………」
「ん? どうかした?」
「いえ、改めて聞くと詐欺度高すぎて落ち込むなぁって」
「あっはっは! そりゃ起きたらいきなり害虫になってたようなもんだからねぇ!」
げらげらとお腹を抱えて笑われた。指までさされた。
もちろん、本人としては一切笑えない。少しだけ自分が不機嫌になるのを自覚しつつも、僕は話を本題へと戻した。
「で、その悪魔の契約書がどうかしましたか? 僕はもうクェルと契約していますけど……」
「確かにファルレアくんの言うとおりなんだけどね。別にクェルと契約しているからといって、他の人間と契約できないわけじゃないんだよ?」
「え、そうなんですか?」
「ああ、そうとも。君は確かに彼女に産み出されたが、同時に、紛れもなく悪魔でもある。悪魔が複数人と契約することなんて、よくあることさ」
いいかな、と前置きをしつつ親指をピンと立てて、ミルフィさんは言葉を続ける。
「君とクェルの契約はもう確定したから覆すことはできない。『何度でもキスひとつで命令を聞く』いう契約はね。しかしそれとは別で、別の人間と契約することはできるということさ。君が望んだ贄を、代価としてね」
「……つまり?」
「いやなに、君は強いだろう? 代価として私もキスするから、ちょっとクェルが取ってきて欲しがっている素材探しを手伝――」
「――なにを教えているんですか、貴女は」
「いだだだだ!?」
言葉を最後まで紡ぐ前に、クェルがミルフィさんの耳を引っ張って中断させた。いつの間に研究室から得てきたのだろう。
クェルは半目でミルフィさんを睨みつけて、言葉を紡ぐ。
「いいですかミルフィ。それはまだ、ファルレアには早い情報です。不必要な情報を与えないでください」
「そ、そんな犬に勝手に餌を与えるな、みたいな……あだだだ! 分かった! 分かったよクェル!?」
「よろしい。ファルレアも今のは忘れなさい。いいですね?」
「う、うん……や、でも、そこまで怒らなくても……?」
「い、い、で、す、ね?」
「は、はいっ」
翡翠の瞳を刃のようにぎらりと光らせて、クェルは僕に念押しをした。
そこまで強く言われれば、僕としても退くしか無い。未だに耳を引っ張られて涙目のミルフィさんには悪いけど、クェルを怒らせるとなにを言い出すか、そしてなにをさせられるか分からないので、黙っておこう。
「……クェル」
「なんですか、ミルフィ」
「……彼を取られてヤキモチ?」
「その量が少ない胸を切り落として、悪魔召喚の贄にしてあげましょうか?」
鋭く睨まれて、ミルフィさんは慌てて首を振った。
溜め息混じりにクェルが耳から手を離すと、ミルフィさんはどたばたと逃げていく。どうやら今日はこのまま帰ってしまうようだ。
「……まったくもう。油断も隙も無い」
「ええと、クェル……」
「……さっきも言いましたが、今ミルフィに教えられたことは忘れなさい。いいですね」
「……それは、契約のうち?」
「いいえ。ただ、そうして欲しいというだけです」
僕の疑問符に対して首を振って否定したクェルの目は、どこか寂しい色をしていた。
憐れむようにも、悲しむようにも見える翡翠の瞳。涙をこぼすのではないかと思うほどに揺れて、けれど、それは一瞬で元通りに自信に満ち溢れたものに変わる。
「さあ、それでは今日も、研究のために材料を調達しにいきましょうか。ミルフィにも頼んでいますが、それとは別にいろいろと必要ですからね」
「また危ないところに行くの……?」
「ええ。ファルレア、今日も護衛をお願いしますね」
「……うん」
ほんの少し前のなんとも言えないような表情のことは気がかりだけど、恐らくは聞いても教えてはくれないんだろう。
結局その日も、僕は黙って彼女に従って、その対価としてのくちづけを貰うことになった。




