表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
31/33

31話 ありふれた喜び

 二月二十四日、土曜日。赤哉がそっとホットココアを差し出してきたのは、午後五時十二分、空が曇りだしたころだった。

 帝都大学の二次試験を明日に控える中、私は内心、ホッとしていた。受かっても落ちても、これで私の大学入試は終わりを告げる。どっちだって構わない。赤哉と走り抜けた、センター試験が終わってからの約二ヵ月、死に物狂いだったのは事実だけれど、楽しかった。もうそれだけでいい。私はとことん赤哉に惚れこんでいて、赤哉が居ないと生きていけない体になっていることは自覚した。

「栞、本当に俺で良かったの?」

「お母さんと居たらお母さんのお世話で手一杯になっちゃうよ」

明日の試験会場は帝都大学の薜嘉橋(へいかばし)キャンパスというのを本宮先生に言ったら、“同伴者が居たほうが良いぞ”というアドバイスを貰った。それに従い、私は赤哉を連れてきた。都会に慣れていない、根っからの萩原市民である母を連れてきたら、母の方が舞い上がってしまって、私の手に負えないと思ったから。それに、きっと赤哉の方が、受験の前のよくわからない緊張感や不安感を、よくわかってくれると思った。赤哉は既に、形式の違う試験とはいえ、大学入試を終えた身だから。

「それもそうか」

窓ガラスに赤哉の顔が映った。赤哉の顔はいつもより柔和な、可愛い顔だった。

 夜ご飯を食べに街へ出ると、知らない景色ばかりだった。合格したら自分の街になる場所。けれど全然、馴染めそうもないくらい、街は煌めいていて、煩かった。

「大丈夫?調子悪い?」

赤哉は私の顔を覗いて、そう言った。そんなに怖い顔をしていただろうか。

「ううん。ちょっと眩しくて」

私が再びうつむくと、赤哉は私の右手を取った。赤哉の手も冷えていて、私の手も冷たくて、全然温まらないから、我慢できずに私が自分のコートのポケットに赤哉の手ごと押し込んでしまった。ポケットの中は温かくて、こたつの様だった。

「そのうち慣れるから大丈夫だよ。ほら、行こう」

赤哉はいつも通り、笑って私の手を引いた。ポケットの中の温もりを残した私たちの手は、外気に触れてもしばらく、温かかった。

 赤哉が立ち止まったのは、私がずっと前から行きたいと言っていた、小さな洋食屋さんの前だった。“in Ordnung”という。ドイツ語で“大丈夫”という意味だそうで、売りはオニオンスープ。行列ができるような店だから、突然来たって入れやしないのに。

「赤哉、どうしたの?」

私が赤哉を振り返ると、赤哉は店の扉を開けて、

「入って」

と言うのだった。状況が呑み込めない。待て。これはどういうことだ。赤哉が行きたかった店の扉を開けて、“入れ”と言っている。

「どうしたの?ずっと行きたいって言ってたじゃない。せっかく予約取れたんだから」

赤哉が、予約を取ってくれたのか。私のために。

「赤哉……」

こういうことをされるのは初めてではない。赤哉はよくできた男だから、日常的にこういう、サプライズのようなことはよくある。けれど。

「ありがとう、大好き!赤哉っ」

緊張しやすい私のために、緊張に上書きできるくらいの、大きな驚きと喜びをくれるなんて。今日ほど赤哉の愛を感じるサプライズは、もうないかもしれない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ