31話 ありふれた喜び
二月二十四日、土曜日。赤哉がそっとホットココアを差し出してきたのは、午後五時十二分、空が曇りだしたころだった。
帝都大学の二次試験を明日に控える中、私は内心、ホッとしていた。受かっても落ちても、これで私の大学入試は終わりを告げる。どっちだって構わない。赤哉と走り抜けた、センター試験が終わってからの約二ヵ月、死に物狂いだったのは事実だけれど、楽しかった。もうそれだけでいい。私はとことん赤哉に惚れこんでいて、赤哉が居ないと生きていけない体になっていることは自覚した。
「栞、本当に俺で良かったの?」
「お母さんと居たらお母さんのお世話で手一杯になっちゃうよ」
明日の試験会場は帝都大学の薜嘉橋キャンパスというのを本宮先生に言ったら、“同伴者が居たほうが良いぞ”というアドバイスを貰った。それに従い、私は赤哉を連れてきた。都会に慣れていない、根っからの萩原市民である母を連れてきたら、母の方が舞い上がってしまって、私の手に負えないと思ったから。それに、きっと赤哉の方が、受験の前のよくわからない緊張感や不安感を、よくわかってくれると思った。赤哉は既に、形式の違う試験とはいえ、大学入試を終えた身だから。
「それもそうか」
窓ガラスに赤哉の顔が映った。赤哉の顔はいつもより柔和な、可愛い顔だった。
夜ご飯を食べに街へ出ると、知らない景色ばかりだった。合格したら自分の街になる場所。けれど全然、馴染めそうもないくらい、街は煌めいていて、煩かった。
「大丈夫?調子悪い?」
赤哉は私の顔を覗いて、そう言った。そんなに怖い顔をしていただろうか。
「ううん。ちょっと眩しくて」
私が再びうつむくと、赤哉は私の右手を取った。赤哉の手も冷えていて、私の手も冷たくて、全然温まらないから、我慢できずに私が自分のコートのポケットに赤哉の手ごと押し込んでしまった。ポケットの中は温かくて、こたつの様だった。
「そのうち慣れるから大丈夫だよ。ほら、行こう」
赤哉はいつも通り、笑って私の手を引いた。ポケットの中の温もりを残した私たちの手は、外気に触れてもしばらく、温かかった。
赤哉が立ち止まったのは、私がずっと前から行きたいと言っていた、小さな洋食屋さんの前だった。“in Ordnung”という。ドイツ語で“大丈夫”という意味だそうで、売りはオニオンスープ。行列ができるような店だから、突然来たって入れやしないのに。
「赤哉、どうしたの?」
私が赤哉を振り返ると、赤哉は店の扉を開けて、
「入って」
と言うのだった。状況が呑み込めない。待て。これはどういうことだ。赤哉が行きたかった店の扉を開けて、“入れ”と言っている。
「どうしたの?ずっと行きたいって言ってたじゃない。せっかく予約取れたんだから」
赤哉が、予約を取ってくれたのか。私のために。
「赤哉……」
こういうことをされるのは初めてではない。赤哉はよくできた男だから、日常的にこういう、サプライズのようなことはよくある。けれど。
「ありがとう、大好き!赤哉っ」
緊張しやすい私のために、緊張に上書きできるくらいの、大きな驚きと喜びをくれるなんて。今日ほど赤哉の愛を感じるサプライズは、もうないかもしれない。




