糸を引く
その糸が見えてしまった。
あまりにも言われるものだから、その言葉が聞こえない場所に行こうとして、ついに飛び出してしまった。
…… 着の身着のままで。
スエットスーツにスリッポンといった姿で、ポケットには小銭しかない。
ここからどうしたらいいだろう。途方に暮れて、国道を走る車を眺めた。
歩道には歩行者はいない。
走り去る車をとめてまで、こちらに言葉を投げてくる人はいないから、今はちょっとほっとしている。
とぼとぼと歩いた。
ガードレールに沿って、どうしてこんなことになったのだろうと頭を悩ませたけれど、ちっとも分からない。
解決策?
どうにかしろと言われたって、この事態に追い込まれて、どうにかできる人間がいるのか?
ぼうっと歩いている頭上をとんびが弧を描く。
すっと秋の風が流れて、このままどこまで国道を歩こうかと暗い思いに浸った。
そこに、またあの言葉が飛んできて、ぎくりと振り向く。
「あんたのせいだからっ」
ガードレールが途切れて荒い石の階段になっている部分があって、そこから下の畑につながるあぜ道に降りることができるらしい。
農作業姿のおばちゃんが、道端でお茶を飲みながら、親の仇を見るような目で睨んでいた。
思わず立ちすくむと、おばちゃんの連れ合いだろう、農作業のつばの広い帽子をかぶったおじちゃんが階段をのぼってきて道に顔を出して、わたしを見て目をひんむいた。
「おまえか、おまえ、まだ生きていたのか、全ておまえのせいなのに、いけしゃあしゃあと」
おまえが悪い。
おまえのせいで、ぜんぶおまえのせいだ……。
がくがくと全身が震えて狼狽に飲み込まれ、わたしは言葉が吐けなくなる。
視線をまともに返すことすらできないまま、理由もわからないまま、わたしはその場を逃げ出した。
(わたしのせい。だけどわたしは何をしたんだろう)
はあはあと息があがった。
ガードレールにもたれて少し休む。喉がからからだった。
大きくカーブしたこの道は、夜間は猛スピードで走る車も出る。ガードレールはところどころ事故の痕跡があり、大きくゆがんで空中に躍り出ていた。
少し休んでからとぼとぼと歩くと、すぐ手前にコンビニがあった。
コンビニには車はとまっておらず、ちょっと迷ったが、思い切って入店することにした。
覗いてみたら、アルバイトの学生が一人しかいないようだったからだ。
さすがにお金を出してものを買う客相手に、非難をあびせたりはしまい。
自動ドアが開くとチャイムが鳴る。
無人の店内は商品の棚がならび、明るい音楽が流れていた。
バイト君はこちらをろくに見ず、らっしゃーい、とだけ言うと、奥へ引っ込んだ。
それでわたしは、一層安堵した。少なくとも今は、この店の中で誰の目も気にせずにおれると思った。
飲み物を。
ポケットの中には560円。
100円のパックジュースを買おう。
オレンジジュースを選び取った時、衝撃が走った。
店内に流れているのはラジオの音楽番組。
このコンビニチェーンと提携した番組だろう。
音楽の合間にDJが楽しそうにイベント紹介する。
「はいっ、今流れていたのが、今シーズンオンエアされているドラマ『相方5』の主題歌です。『相方5』、話題ですよね。今回の相方役の寄町さん、特に女性視聴者に人気です。ところで、おまえこの野郎、こんなところにいんじゃねえよ、このくそ野郎、全部おまえのせいだっていうのに、なに買い物しようとしてんだよコラ」
わたしは凍り付いた。
ジュースを手に持ったまま、目を見開いた。
確かに、DJは、そう言った。
途中まで、普通の喋りだったのに、いきなり調子が変わって――まるで、店の中を見ているかのように。
「……はーい、それじゃあ、リクエストの曲に入りますねー。この番組ではみなさんのリクエストをお待ちしています……」
流れはじめるポップな音楽。
気のせいだろうと思った。わたしはついに神経がやられたらしい。
おかしくなったんだ、きっとそうだ――そこに、奥からバイト君がレジに出てきて、黒縁めがねをかけなおして、わたしを見た。
バイト君の表情がかわった。
「あんたかっ、あんたのせいだ、全部あんたのせいだ、あんたがぜんぶやった、この野郎」
レジの台から身を乗り出し、目をひんむいて唾を飛ばしながら彼は言い、わたしは後ろ向きに歩き出した。
手に持ったジュースをどうしようと狼狽えている間に、バイト君は今にもわたしに飛びかかって来そうだった。
わたしは声にならない悲鳴をあげて、ジュースを握りしめたままコンビニから飛び出した。
「おまえのせいだ、責任をとれ」
「ぜんぶあんたのせいだ、どうしてくれるんだ」
「今すぐなんとかしろ、どうにかしてくれ」
「ぜんぶおまえが悪い……おまえが、おまえが……」
無数の目がわたしを指し、逃げても逃げても追いかけては言葉を投げてくる。
ぜんぶわたしが悪い。
すべてわたしが悪い。
あらゆることは、わたしのせいだ。
なんとかしろ、どうにかしろ――。
犬の散歩中のおばあさんが。
自転車をこいでいる中学生が。
すれ違うたびに表情を変え、唾を飛ばして責めるのだった。
ついにわたしは耳を覆い、走り出す。
「なにをしたってんだよ、わたしのどこが悪いんだよ、なにをどうしたら許してくれるんだよっ」
高速で走る車の流れは止まらない。
だけど、車の中から敵意に満ちた目がちらっちらっとこちらを睨んでは通り過ぎてゆく。
やがて信号は赤になり、車は停止する。
並ぶ車は、ふらふらと歩道を歩くわたしに向かい、次々と窓を開いた。
「おまえ、このやろ、こんなところでまた!」
「なにやってんだよ、どうにかしてくれよ、はやくやれ」
「おまえ責任とれよ、ぜんぶおまえのせいだからな、よくのうのうとしてる」
「なんとかしろよな早く」
わたしはしゃがみ込むと、誰の顔も見ないようにした。
やっとのことで声を絞りだすと、裏返った悲鳴みたいな言葉になった。
「だから、なんとかってどうすればいいんですか。わたしの何が悪いんですか」
一瞬の不気味な沈黙の後で、怒涛のような非難が返ってくる。
「この期におよんで、口答えかよ」
「いいかげんにしろよー何年生きてんだよー」
「自分で考えろぼけ」
「逆切れかよ馬鹿じゃねーの」
混乱した頭でわたしは立ち上がり、信号が赤であるのにも関わらず、交差点に飛び出した。
ぱっぱー、ぱっぱー。
クラクションがヒステリックに鳴り響き、ものすごい音をたててブレーキをかけた車がスピンする。
構うものか。
わたしは走り続ける。
上あごに舌がくっつきそうに乾いている。
どうする。
どうする。
どうする。
はっと、鋭い針のような光が差し込んだ。
わたしは気付いた。
なんでもいい、どうにかすれば、この重大な――絶対に許されないような罪を償える。
どうにかする方法はただ一つだ。
わたしは、わたしに求められていることをすればいい。それしかない。
「おまえが悪い」
「おまえのせいだ」
「こんなふうになったのは、全部おまえのせいだ」
世界がこんなふうなのは。
空から一本の、黄金に輝く糸が垂れている。
青空のどこから垂れているものか、地上を這っているわたしには分からない。
だけど、その糸をただ引けばいい。
そうすれば、全てが済む。
「おまえのせいだああああああっ」
母親に手を引かれた小さな子供が、車道の向こう側からめざとくわたしを見つけ、舌たらずな声でそう叫んだ。
そしてわたしは手を伸ばし、その滅亡の糸を引いたのである。
世界が終わる糸を。
人を追い詰めては、いけない。