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伍、温度差


 ふわふわの毛玉を抱えながら柚月は無我夢中で走っていた。

 脳裏を駆け巡る様々な思いに、身体と心が追い付かず、胸が苦しい。

 触れた唇は、少しだけかさついていた。けれど、思っていたよりは柔らかくて――とても気持ちが良かった。

(最悪や……)

 初めてだった。

 あんな風に誰かに触れるのも、異性と密着するのも。

 夜雨に触れられた場所に、まだ彼の感触が残っている。

「ああああああ!! 最悪やっ!!」

 火照る頬を押さえようにも、今は両手が塞がれてしまっていた。

 もこもこ、と肌に刺さる柔らかな毛に少しだけ気分を紛らわせることに成功すると、柚月は自室へと足を踏み入れた。

「どうやって入ってきたか知らんけど、アンタの好きなだけ居ったらええ。ただし、この部屋からは一歩も出たらアカンで? 分かった?」

「あん!」

「よしよし。ええ子やねぇ」

 すっかり先ほどまでの凶暴さは形を潜めたようで、部屋の片隅に放置されたままになっている布団の方に駆け出す子犬に自然と笑みが零れる。

「ほんなら、うちは仕事に戻るからな。おとなしいしといてや」

「あん!!」

 再び元気の良い返事が返されるのを背中で聞きながら、柚月は夕食の配膳をするべく部屋を出た。

 今宵は団体の予約が多かったはずだ。

 忙しく動けば、先ほどの出来事も忘れてしまうだろう。

 そう願わずにはいられなかった。


「遅い」

「……すんません」

「お前、俺に仕事を教えるだのなんだのほざいておいて、下準備を怠るとはどういうことだ」

「だから、謝ってるやんか! しつこいな! 大体元はと言えば、アンタが……」

 厨房の前で配膳用の盆を準備しながら目くじらを立てる夜雨に、柚月はむっと唇を尖らせた。

 先ほどの出来事を嫌でも思い出してしまって、押し黙った柚月を不審に思ったのか、夜雨が静かに柚月の顔を覗き込む。

「どうした? 顔色が優れんようだが」

「……うっさい、阿呆」

 近いねん、と夜雨の頬に軽く平手をお見舞いすると、柚月は厨房の中を覗いた。

 食事前になると、厨房は決まってちょっとした祭りのような騒ぎだった。鮮やかな色彩が暴力的なまでに視界を刺激する。

「弦さん、どない?」

「ん、後は汁物だけだから、先に運び出してくれ」

「は~い」

 ずらり、と卓に並べられた膳を柊の式神たちと一緒に持つと、背後でぽかんとした様子で固まったままの夜雨と目が合った。

「どないしたんよ、固まって」

「あ、いや……。その細腕で、よくそんなに膳が持てるなと、思って」

 式神たちなら、いざ知らず。か弱い人間の身でありながら、幾重にも重ねられた配膳を持った少女に夜雨は瞬きを繰り返した。

「訳わからへんこと言うてらんと、アンタもさっさと持ってえや」

 ほら、と卓に乗っている膳を持つように夜雨を促す。

 存外に重い膳に、少しだけ顔を顰めるも柚月には負けられないと彼女より数個だけ多めに膳を積み上げる。

「そないに積んでいけるんか? こけても知らんで」

「平気だ。それより配膳する部屋をさっさと教えろ」

「何や、えらそうに……。ほんま腹立つ……」

 膳を積み上げた隙間から金色の瞳を覗かせる夜雨に柚月はむっと唇を尖らせた。

 先に配膳を始めていた式神たちの後を追うように歩き出した柚月に続いて、夜雨もゆっくりと足を踏み出す。

 ふらふらになりながらも、どうにかこうにか目的の部屋に辿りついた。

 慣れぬ手付きでおっかなびっくり配膳を済ませ、ゆるゆるとその場に腰を落ち着かせる。

「ふう」

「ちょっと、何一息ついてんねん。まだ一部屋しか終わってへんやんか。あと二部屋、宴会の予約あるんやから、シャキッと動いてや」

「……嘘だろ」

「格好つけて仰山持つから、しんどなんねん。阿呆」

 くすくすと笑い声を上げる柚月に、今度は夜雨がムッとする番だった。

「誰が疲れたと言った」

「言うてなくても、顔に書いてるんですぅ」

 こつん、と眉間を小突かれる。

 心底可笑しいと言わんばかりに笑うことを止めない柚月の姿に、耳の裏がカッと熱くなった。

「……次はどこに運べばいい」

「ふふ、素直でよろしい」

 随分と年下の娘のはずなのに、どこか母親のような顔をして柚月は己の頭を撫でる。

 また、だ。

 この少女に触れられると、心が落ち着かない。

 ざわざわと腹の底から這い上がる得体のしれない何かを振り払うように、夜雨は頭を振った。

 

「おや、これはまた懐かしい顔だなぁ」

「げ」

「『げ』って何だい、失礼だねぇ」

 くすくす、と含み笑いを浮かべながら近付いてきた男に、夜雨は顔を引き攣らせながら後ずさった。

 この配膳を済ませてしまえば、解放される。そう思っていた矢先の出来事だっただけに、身体が「待て」を食らった犬のように疼いてしまう。

「こんな所で何をしているのかな、若様?」

「それはこちらの台詞だ。有明(ありあけ)殿」

「ここは俺のお得意様でね。品物を届けに来ただけですよ」

 ほら、と男の手に持たれていた籠の中には、青々とした山菜が茂っていた。

「うちで一、二の暗殺の腕を持っていた男が、今やしがない山菜売りとは驚きだ」

「坊ちゃんこそ、こーんな老舗で下働きとは……。旦那様が知ったら大笑いですな」

 ははは、と互いに笑い声を上げる。だが、二人とも目は笑っていなかった。互いの眼に映る真剣な眼差しに、先に動いたのは夜雨の方だ。

 じりじり、と本来であれば逃げることを良しとはしない身体を無理矢理に後退させていく。少し後ろに下がれば、分かれ道になっている廊下に戻れるはずだ。

 両腕が塞がっている今、殴りかかるのは困難を極めるのは分かっていた。頼れるのは足だけであったが、片足を使えば軸がぶれて膳を落としてしまう可能性があった。それ故に、普段ならば絶対に選びはしない「逃げる」という選択肢を選んだのである。

 くそ、と内心で毒づいているうちにも、男はまた一歩、夜雨に向かって歩を進めた。

「そんなに殺気立たなくとも、何もしませんって。次の客を待たせてあるんでね。良かったら柚月にこれを渡しておいてくれませんか」

「……あれを知っているのか」

「ええ。お得意様ですからね。良い娘でしょう? 坊ちゃんの好みではないかもしれませんが、あれはああ見えて優しい子ですから、お客に好かれやすいようで」

「へえ?」

「怒りました? その顔、旦那様そっくりで――」

 最後までは言わせる気はなかった。

 軸がぶれるのも、膳が落ちるのも構わずに、片足を有明の細い腰に叩き込む。

 だが、彼は夜雨の動きを予測していたようで、けらけらと笑いながら後方へと飛び退き、それを躱した。

「君にそれを教えたのは誰か、忘れたのかな?」

「チッ」

 上の方に積んでいた膳がカチャカチャと不穏な音を立てる。

 次は確実に決めなければ、膳が崩れ、せっかくの料理が台無しになってしまう。

 ダン、と足を踏み込んだ夜雨と動かぬ有明の間に、凛とした声が響いた。

「夜雨!! 見つけたで!!」

 目くじらを立てた柚月が夜雨と有明の間に廊下の間を滑りこんでくる。

 夜雨の身体は今まさに蹴りを放たんとしていた。

 眼前に現れた少女に当たってはいけない、と咄嗟に力を弱めたのがいけなかったらしい。

 ぐらり、とバランスを崩した夜雨から柚月を庇うように、有明の腕が柚月の腰を引いた。

「あっぶねえな!! ちゃんと前見て歩け、この馬鹿!」

「馬鹿って何よ、馬鹿って! って言うか、膳持ったまま何やってんねん!! 団体さんが来る言うてんやから、早よ持って行って!!」

「……まさか、それを言う為に俺を探していたのか」

「当たり前やろ。こっちは店の看板背負てるねんから。うちで働く限りは、アンタもそのつもりで働いてや」

 先程の可愛らしい姿と目の前で仁王立ちする柚月の姿が重なる。

 とても、同一人物のものではないと夜雨は、大きな舌打ちを零した。

「ふふっ」

「何を笑っている」

「いや、何。あの坊ちゃんが小娘相手に百面相をしているのが、可笑しくてな」

 すまない、と言いながら悪びれた様子もなく、くつくつと笑い声を上げる有明に夜雨は低い唸り声を上げることしか出来ない。

 未だ目くじらを立てている柚月の腰には有明の腕が回ったままだ。

(俺が触れると怒るくせに)

 両腕が塞がっている所為で、柚月を攫うことも出来ないのが煩わしい。

「チッ」

「舌打ちしてらんと、さっさと持っていけ」

「分かっている!」

 闇を溶かし込んだ美しい黒髪を逆立たせながら、夜雨は柚月と有明に背を向け、歩き始める。

「……それで? いつまで掴んではるんかな?」

「おっと、これは失礼」

 わざとらしく柚月の腰を掴んでいた手を離して笑みを深める有明に、柚月は深い溜め息を零す。

「有明さんも来てたんやったら言うてよ~。ばあちゃん、めっちゃ怒ってたで」

「げ」

 長年、一人で旅館を切り盛りしていることもあってか、梅は約束事に関しては厳しい。

以前遅刻したときは、一刻ほど説教を食らった。この後、大事な商談を控えている身としては、手早く納品を済ませて帰りたいのが本音である。

「夜雨と知り合いなん?」

 翡翠色の目が、己の目を覗き込むのに、有明はにいと人の悪い笑みを浮かべる。

「気になる?」

「……やっぱりええ」

「ええ? どうしてさ?」

「有明兄ちゃんが、そんな顔するときは碌なこと考えてないもん」

『兄ちゃん』などと、呼ばれたのは子供の時分以来だった。

 少しだけ照れた風に己を呼ぶ少女が可愛くて、衝動のあまり力強く抱きしめる。

「く、苦しい……」

「はあ、お前は年々、桜に似てくるなぁ」

「……っ」

「すまない、今のは失言だった。悪気はなかったんだ。だから、そんな顔をするな」

 今にも泣きだしてしまいそうな表情のまま固まってしまった柚月に、有明はどうしたものかと眉間に皺を寄せた。

 年頃の娘は母親に似てきて当たり前だ。

 だが、柚月はそれを酷く嫌がる。

 直接聞いた訳ではないが、その表情が雄弁に語っていた。

『桜』と母親と同じ名前の花を見せただけで、顔を顰めるのだ。

 幼い柚月の身に起こったことを思えば、それは当然のことかもしれない。

 けれど、有明は彼女の母とある約束をしていた。


『柚月のこと、よろしゅうお願いします』


 今でもはっきりと思い出せるその声は、酷く弱弱しい、まるで花弁を散らす花のように頼りない音だった。

 脳裏に浮かぶ桜を惜しみながら、有明は顔色の悪くなった柚月の髪を乱暴に撫でた。

 くしゃくしゃになった髪を掻き分け、露わになった額に口付けを落とす。

 母が居なくて泣き叫んでいた柚月をあやす為に、よくやっていたおまじないだった。

「……泣くな」

「泣いてへんもん」

 眼いっぱいに涙を溜めておいて何を言うか。

 乱れた髪を整える柚月の手を柔く握り込むと、有明は優しく微笑んだ。

「また、来るよ」

 こくり、と素直に頷いた少女の頭をもう一度腕の中に閉じ込める。

 微かに香るいくつもの知らない匂いは、柚月が少しずつ成長している証であった。

 寂しくもあり、嬉しくもある。

 梅がよく使っている言葉を思い出しながら、有明は柚月の身体を遠ざける。

 ゆらり、ゆらり、といつもの調子で狐火の中に消えていく有明の姿を見送りながら、柚月はスン、と鼻を啜った。


――遅い。遅すぎる。

 ぱしーん、と部屋の中に響いたのは、今や姿を保つことさえ難しくなった夜雨の尻尾が不機嫌に畳を叩く音だった。

 父親を連想させる嫌な男との再会は、怒りのあまり妖力が底上げされる程度に強烈であった。

 しかも、気に入っている女がそれと仲睦まじく話をする姿を尻目に、自分は配膳の仕事を余儀なくされていたのだ。これで、怒るなという方が無理な話である。

「……遅い」

 ピリピリと尖った雰囲気を放つ夜雨が恐ろしいのか、白い毛玉は先程から部屋の隅でガタガタと震えながら部屋の主の帰りを待っていた。

「ゆ、ゆづきぃ……」

 終いには赤子のようにぴーぴーと泣き出す始末で。

 それがまた夜雨の怒りを増幅させる。

「おい、煩いぞ。少し黙れ」

「ひ、ひっぐ、だって」

「男なら、これくらいのことで泣くな」

「う、ううぅ」

 男、という言葉に釣られたのか、童は必死に涙を堪えようと、眦から溢れるそれを小さな手で一生懸命に拭い始めた。

 しゃくりながら、泣くまいと唇を噛んで耐える様は、かつての幼い自分を見ているようで、少しばかり胸が落ち着きを取り戻す。

「ただいまー! 二人ともご飯やで――ってどないした!? 夜雨にいじめられたんか!!」

「…………お前はどうしてそう、俺の神経を逆撫でするのが上手いんだ。ああ?」

「ひっ、な、何やねん。何怒ってんのよ、機嫌悪いなぁ」

「自覚が無いところが、また恐ろしい」

「だ、だから何を……っ!?」

 グッと、喉が詰まるような感覚に柚月は目を白黒させた。

 いつの間にか伸びていた夜雨の腕が、みしり、と嫌な音を立てて柚月の細い首を締め上げる。

「く、くるし……っ」

「苦しくしているからな。当たり前だろう?」

「な、んで」

 翡翠の目が苦しそうに歪むのに、夜雨はスッと目を細めた。

 こんな顔が見たいんじゃない。

 もっと、あの男に向けたように柔らかい、花が綻んだような、そんな顔を――。

 ドクリ、と大きな音を立てて、心の臓が跳ねる。

 自分が今、何を思っているのか。どうして、その考えに至ったのか分からずに、掌の中に感じる柚月の冷えた体温に、夜雨は舌打ちを零した。

 ふっ、と力を抜いた腕の隙間から、柚月が畳の上に転がり落ちる。

「けほっ、ごほっ……。ほんま、何やねん! アンタ! ええ加減にせえな、うちかて怒」

 喚く前に唇を塞いだ。

 可愛くない声など聴きたくなかった。

 自分に向けられることのない甘い声、柔らかな表情。

 その全てが憎らしい。

「……なに、すんねん」

 慣れない接吻の所為で、呂律の回らない柚月の頬に軽く触れる。

 緊張と恐怖からか、すっかり冷えてしまった少女の身体は、小刻みに震えていた。

 緩く拒絶を返されているような気分になって、収まっていたはずの苛立ちが再び顔を覗かせる。

 あ、と大きく口を開けたまま近付いてきた夜雨に、柚月が「ひぃ!」と小さな悲鳴を上げたのと同時。

「ゆづき、いじめちゃだめぇ!!」と叫び声を上げた白い毛玉が、夜雨に向かって煉獄の炎を吐き出したのであった。


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