肆、甘い毒
仲居の朝は早い。
それは女将の孫娘だからとて変わらない。
「……眠たい」
花見の時期なこともあってか、連日連夜、宴会客と物見遊山客の予約で和笑亭はに賑わっていた。
そして、柚月が眠れない訳がもう一つ。
隣に敷かれた布団に出来た小山を睨みながら、柚月は溜息を吐き出した。
「夜雨」
「ん……」
「起きらな、またばあちゃんに怒られるで」
小さく身じろいだだけで起きる気配を一向に見せない男に、柚月は呆れたように溜息を吐き出す。
「夜雨ってば!」
「うるせえな。起きてるよ」
梅に力を封じられてからというもの、夜雨は粗暴な言動を取ることが多くなった。
どうやらこちらが本性らしく、これまでの爽やかな青年は猫を被っていた姿のようであった。
(……猫だけに)
自分で思い付いておきながらサムイな、と柚月は頭を振る。
「それと、そのだらしない恰好どうにかしてえや。若い娘さん相手の見世やないんやから」
着物の合わせを開き、緩く帯を結んだだけで起き上がろうとした夜雨に、柚月の眉間に皺が寄った。
「あ?」
「ちゃんと帯締めてって」
「面倒だ。これで出ても問題ない」
「問題ありまくりやっちゅうねん。ちょお貸してみい」
姿見の前まで夜雨を無理矢理移動させると、柚月は彼の帯に手を伸ばす。
淡い紅色の着物の合わせを丁寧に整え、だらんと下を向いた帯の結びを解くと、腰に腕を回した。
男性の着付けを手伝ったことは数える程度だったが、彼のように細身であれば女性を相手にしているのとそう変わらない。
慣れた手付きで帯を結ぶと、夜雨が小さく溜息を吐き出したのが分かった。
不思議に思って顔を上げれば、深刻そうな顔で柚月を見る彼と目が合う。
「何よ?」
「はあ……」
「だから何よ。その顔は」
「何でもない。何でもないから、そこで喋るな」
深い溜め息を吐き出したかと思うと、急に自分の手で支度を始めた夜雨に柚月は首を傾げることしか出来なかった。
夜雨が和笑亭で働き始めてから、早一週間。結論から言うと、彼は何も出来ないろくでなしのお坊ちゃんであった。
最初に任せた仕事は皿洗いだった。
洗っては割り、洗っては割りを繰り返す夜雨に、先に音を上げたのは板前の弦吉であった。
これには普段は温厚な鬼として知られている弦吉が無言で調理場から夜雨を放り出した。彼を怒らせた者を見るのは実に数年ぶりで、さしもの梅も珍しく目を丸くしていた。
次に任せたのは受付の仕事である。
帳簿に名前を書いてもらうだけの簡単な仕事のはずなのだが、彼に掛かればこれも問題の種と化した。
にこやかに笑って名前を書くように教えたはずが、接客をさせれば客と喧嘩になり、おまけに女性客を口説いて部屋に連れ込むときた。
無駄に仕事を増やす一方である。
最終的に回ってきたのは柚月の仕事である、配膳だった。
「ホンマにいけるんか?」
不安そうに膳を渡してきた柚月に夜雨は顔を顰める。
「馬鹿にするな。これくらいできる」
「そう言って今まで仕事増やしたの誰やったっけな~」
「てめ、後で覚えてろよ!」
「もう忘れました~」
ころころと笑いながら膳を運びだした柚月の後を、覚束ない足取りで追いかける。
あんな小さな体で落としはしないか心配であったのだが、軽々と持ち上げて次から次へと運んで行く様に素直に感心する。
「よっしゃ、昼の分は終わりやな」
「おう…」
げっそりとした様子で項垂れる夜雨の肩を叩くと柚月は口元に笑みを携えた。
「お疲れ。壊さんとようやったし」
「一言多い」
「アンタに言われたないわ」
少しでも労ってやろうと思っていた気持ちを返してほしい。
小さく溜め息を吐くと、柚月は今後の予定を夜雨に伝えようと後ろを振り返った。
「夜雨? どないしたん急に黙って、って何やコレ?」
ふわふわの白い毛玉が廊下を転がっていく。
客の誰かが蹴鞠でも持ち込んだのだろうか、と近付こうとした柚月の腕を夜雨が捕まえる。
「触るな」
「え、」
強い力で腕を引かれたかと思うと、いつの間にか夜雨の胸に飛び込むような形で身体を擁されていて、頬が熱くなるのが嫌でも分かった。
「ちょ、っと」
「良いから黙ってじっとしていろ。俺が良いと言うまで、決して動くなよ」
存外に硬い口調で言われた言葉に、腕の中から彼の顔を仰ぎ見れば、珍しく狼狽えたような表情で白い毛玉を見ている。
「あれ、何?」
「山犬だ。まだ子供だが、恐らく毒の息を放つ種だろう」
「ええ? あんなに可愛いのに?」
「黙っていろ、と言っただろ。人間の、特に女の肉が好物の奴らなんだぞ? 食われたくないなら、気配を殺してじっとしていろ」
夜雨の言葉に、柚月の顔から色が失われた。壊れた玩具のようにこくこくと首を縦に振ると、口を一文字に結んで息を潜めた。
柚月がおとなしくなったことを確認すると、夜雨は藍色の爪紅で美しく染めた爪に意識を集中させた。
あっという間に九寸(約三十センチ)ほど伸びた爪は、鋭い針のように変化し怪しい光を纏う。
「ちょ、な、何するつもりや!」
「野暮なことを聞くなぁ、お前は。――殺すに決まっているだろう」
よく冷えた冷水を頭から被せられたような気分だった。背筋に寒気が走り、指の先に上手く力が入らないような錯覚を覚える。
「ちょお、待ってえや! こ、こんな小さい子を殺すってお前……」
「何を言っている? 今ここで殺さなければ、後で何をするか分かったものではない。こんな小さくても妖だ。助けたところで噛みついてくるに決まっている」
「……アンタみたいに?」
上目遣いになって何を言うかと思えば、そんなことを言うものだから。夜雨は、はあ、と深い溜め息を吐き出した。
「……お前は俺とこの子犬を同等と捉えるのか」
「だって、噛まれたし」
「おッ、俺はこいつ等のように人肉は喰わん!!」
「でも、噛んだやんか」
うちのこと、と柚月が示したのは、先日夜雨が牙を突き立て血を啜った首の辺りである。それを見た夜雨は、苦虫を噛み潰したような表情になって彼女の手首を乱暴に掴んだ。
「それとこれとは別だ」
「どこが」
「……首を噛む理由も知らんのなら、話にならんな」
「どういう意――うわッ?!」
夜雨に言葉の意味を問い質そうと柚月が眉根を寄せた時だ。むわっと辺り一面を紫色の煙が覆った。
鼻を鳴らせば、ツンと嫌な臭いが鼻腔の奥を刺激する。
――毒だ。
夜雨は咄嗟に柚月を己の腕の中に閉じ込めた。何か物を言う前に、唇で唇を塞いでしまう。幸い、廊下であったこともあり、近くの窓を拳で叩くと風の流れによって毒の煙はすぐに消えた。
「……ッ!! い、いきなり何すんねんッ!」
「煩い。口を開いていれば、今頃泡を吹いて倒れていたんだぞ。感謝しろ」
「て、手拭い寄越すとか何かあったやろ!」
「そんなに頬を赤らめておいて、俺との接吻が不満だったとでも?」
接吻、という単語に柚月はハッとして、それから徐に自分の唇に触れた。やわやわと何かを確かめるように触るその仕草に僅かばかりに情欲が刺激されるが、背後で低く唸り声を出す獣に夜雨はそっと視線を遣った。
「やめておけ。貴様のような童、指一本でどうとでもできる」
「グルルルル……」
白い蹴鞠のような身体を震わせて、子犬が牙を剥きだしにしている。その様に夜雨は昔の自分が重なって見えた気がした。
――強い者に負けたくない。妖であれ、人であれ、それは同じこと。
全身の毛を逆立てて、小さな身体を大きく見せようとする健気な姿に夜雨はそっと笑みを零した。この童を殺したところで己に損があるわけではない。ただ、己が触れことを嫌がる柚月が、こんな毛玉のようなものに容易く触れようとしたのが面白くなかっただけで。
そこに思い至って夜雨は鋭い舌打ちをした。
「夜雨?」
険しい表情のまま固まってしまった夜雨に、柚月が声を掛けるも、彼は反応しなかった。
仕方なく、ゆっくりと彼の腕の中から抜け出そうとすれば、存外に強い力でそれを咎められる。
「俺が良いと言うまで動くなと言っただろ。それとも、また口を塞がれたいのか?」
「なっ?!」
白い肌を桜色に染めた柚月を見て、平静を取り戻すと、夜雨は眼前の白い毛玉に向かって「おい」と声を掛けた。
「ガウッ」
まるで「何だ!」とでも言っているかのように獣が夜雨の声に反応を示す。
それに、にんまりと笑みを深めると夜雨は柚月の腰に腕を回して、身体を密着させた。
「ちょ、」
「……山犬の種は、頬を摺り寄せることで敵意が無いことを示すと聞いたことがある。良いから黙って傍に来い」
ぐい、と頬が触れる距離まで近付いた夜雨の身体に、柚月は目を白黒させた。
慣れない異性との触れ合いに、先ほどから心の臓が痛いくらいに力強く脈打っていて、これ以上近付けば、今にも破裂してしまうのではないかとそんな不安に駆られた。
「いいか、暴れるなよ?」
「わ、分かってるわ!」
白磁人形のように整った顔が近付いてくる。
透き通った肌はきめ細かく、本当に男なのかと疑いを持ってしまうほどに美しい。
ひたり、と己の肌に触れた彼の頬は、予想していたよりも冷たくて、思わず声が漏れ出そうになった。
次いで、それは彼の頬が冷たいのではなく、己の頬が火照っているからだということに気が付くと、柚月の頬はますます赤く、色鮮やかに染まった。
黙ったまま、自分の好きにされている腕の中の少女に、夜雨は目を細めて笑った。
存外、可愛らしいところもあるのだな、と触れている個所から伝わってくる熱に、くつくつと喉を鳴らす。
「もう、ええんとちゃうの」
トン、と胸板に手を置いて、弱く拒絶の意を唱えると、夜雨の顔に少しだけ愉悦の色が浮かんだ気がした。
「まだだ。まだ、唸っているだろう?」
「え、」
夜雨の視線を辿って振り向いてみれば、彼の言った通り、子犬は未だ低い唸り声を出し続けていた。
「今度はお前から触れてみろ」
「は、」
思いもよらない一言に、柚月は目を丸くして、眼前の男を凝視した。
「な、なんで」
「これは奴らの中で『挨拶』の一部なんだろう。俺だけが頬を摺り寄せても、奴にはオスがメスにじゃれついているようにしか見えていないはずだ」
ほら、と差し出された頬が、先ほどまで自分の肌に触れていたものだと知って、柚月はまたも鼓動が早くなるのを感じた。
「へ、変なことせんといてや」
「おう」
目の前に迫った彼の頬に、柚月は恐る恐る己の頬を近付けた。
すり、と慣れない行為に戸惑いながら、柔らかな頬へ二度、三度、と肌を触れ合わせる。
「……どう?」
「駄目だな。一向に収まらん」
何の為に、恥ずかしい思いを我慢して彼に身を寄せたのかと、柚月は羞恥と怒りが混ざり合った溜め息を小さく吐き出す。
「やはり、これが一番手っ取り早いか」
「え?」
「お前が怒ると思って黙っていたのだがな、こやつらの愛情表現の一つに接吻が含まれる」
宝石のように美しい翡翠が、混乱の色で鈍く光を濁らせる。
「一度するも、二度するも、そんなに変わらん。その唇を俺に差し出すだけだ」
「なっ、」
「また毒の霧を吐かれたいのなら、構わないがな。もうすぐ客も入るのではないか?」
夜雨の言葉に、柚月が苦虫を噛み潰したような表情になった。
おろおろと左右に揺れる視線に、夜雨が人の悪い笑みを浮かべて、顔を寄せる。
「そら、どうした。何も初めてじゃあるまいし、さっさと――」
「初めてやわ! このボケ! な、何でお前と何回も接吻せなアカンねん!!」
くわ、と般若よろしく恐ろしい形相になった柚月に、夜雨は瞬きを繰り返した。
「……お前、その齢で『初めて』接吻を交わしたとなると、嫁に行き遅れる未来しか想像が出来ないぞ」
「う、うるさいわ! こちとら、アンタみたいな遊び人と違って、子供の時から働いてるねん! 接吻も情事もしたことなんかあらへんわ!」
悪かったな、と吐き捨てられた台詞の中に聞き捨てならないものも含まれていたような気がして、夜雨の額に青い筋が浮かんだ。
「誰が、遊び人だと?」
「何よ、間違ってないやろ? 真昼間から、女の人を空いている客室に連れ込んでる時点で遊び人確定やわ」
不安定ながらも常の輝きを取り戻した翡翠に睨まれて、夜雨の口元がヒクリ、と痙攣した。
先ほどまでしおらしかった様子が嘘のようだ。
ふん、と鼻息荒くそっぽを向いた腕の中の少女に、衝動のまま手を伸ばす。
「良いだろう。そこまで言われては『遊び人』としての名が廃るというもの。存分に可愛がってくれよう」
「は?」
開き直った夜雨に、引いていたはずの熱が再び柚月の頬を侵食した。
「ちょ、いや、こっち来んなって」
「ほら、」
「い、いや! 嫌やってば!!」
指先から伝わってくる少女の体温は、火傷するのではないかと思うくらいに熱くて、夜雨は愉悦の色を瞳に滲ませた。可愛い、無垢で美しい女。頭から喰らってやりたい衝動を抑えている己にも気が付かないなんて。本当に愛らしい。
「……柚月」
リィン、と鈴が鳴る音がする。
それは、夜雨の首に付けられた鈴の音だったのか、はたまた柚月の頭の中の警報だったのか。
「……ッ」
触れた、彼の唇は少しだけかさついていて、小さな痛みを覚えた。
満足そうに鼻を鳴らした黒い獣の傍らで、幼くて白い塊が牙を潜め、ただただ榛色の眼でじっとそれを見ていた。
すっかりおとなしくなった子犬に夜雨はしたり顔で近付くと、そっと首根っこを掴んで持ち上げた。
すぐ隣で同じように静かになった柚月が恨めしそうに、視線を寄越したが、それには何の言葉も零さずに、彼女に向かって手を差し出す。
「何だ? まさかあれしきのことで腰が抜けたのか?」
「……」
「図星か」
口元を抑えたまま一切喋ろうとしない柚月に、夜雨は肩を竦ませた。
ただの蹴鞠と化した白い子犬を彼女の方へ放り投げる。
「そんな毛玉の何が良いかは知らんが、好きなだけ触るがいいさ」
「?」
「何だ? それに触れたかったのではないのか?」
「そんなこと一言も言った覚えないんやけど……。って言うか何で怒ってるんよ」
言われて初めて、自分がムッとしていることに、夜雨は気が付いた。
何に対してイライラしているのか分からず、自分のことだというのに、首を傾げる。
「怒っていない」
「はあ? 鏡、見てから言いや」
怪訝そうに眉根を寄せる柚月に、夜雨は唇を尖らせると、音もなく彼女に近付いた。
「だから、怒ってなどいないと言っているだろ」
「否定するのって、怒っている人間とか酔っぱらっている人間の常套句やで、それ」
「……可愛げのない女だ」
前言撤回、ちっとも可愛くない。
そもそもこの娘に可愛さを求めた己が愚かであったのだ。
はあ、と吐き出した溜め息は、存外低い声と共に漏れ出ていたようで、柚月の肩が僅かに跳ねた。
「ア、アンタに可愛い思われても、何も得なんかないからええわ」
グッと歯軋りしながら、それだけ言い残すと柚月は白い毛玉を抱いたまま足早に去っていった。
別れ際にちらりと見えた耳が赤かったのはきっと、今頃になって色んな思いが込み上げてきたのだろう。
ころころと忙しなく表情を変える彼女に魅かれ始めている自分が居ることに夜雨は、本日何度目になるか分からない大きな溜め息を天井に向かって吐き出した。