参、戯れ
声を殺して泣く女が美しいと知ったのはいつだったか。
あれは確か、十にも満たない頃、両親が殺し合いのような喧嘩をしていた時に母が声も出さずに涙を流したのを見た。
唇を血が滲むほど強く噛み締めて、はらはらとまるで桜の花びらが散るかの如く涙を流す母の姿は、言葉にならない美しさを放っていた。
「何故、泣いている」
菓子折りを持って宿を訪ねてみれば、庭先で件の娘が泣いていた。
声も出さず、箒を握りしめたまま泣いている柚月に近付くと、華奢な肩が僅かに戦慄く。
「ばあちゃんと喧嘩してもうて……」
「ほう」
「うちは悪ないのに、ばあちゃんが!」
はらり、と雫が柚月の頬を伝っていく。
花びらが肌を滑っていくような光景に、夜雨はスッと目を細めた。
「店先で泣いていると客に不審がられてしまうぞ。……この前の礼に美味い菓子を持ってきたんだ」
菓子折りの入った風呂敷を柚月に渡すと驚いたのか、丸い目を更に丸くして夜雨を凝視する。
その拍子に眦に浮かんでいた涙も引っ込んで、代わりに笑い声が零れた。
「ほんまに持ってきはったんですか? わざわざええのに……」
「世話になったんだから、礼をするのは当たり前だろう? そら、誰かに見つかる前に早く中に入ろう」
目元を赤く染めた少女の背中を急かすように押せば、柚月はコロコロと笑いながら夜雨を建物に招き入れた。
先日、宿に訪れた時は夜中の時分であった為、よく分からなかったが、よくよく見やれば趣のある良い宿であることが分かった。
空いている客室に案内されると、大きく取られた窓から美しい海を一望できた。
(今度、母上に教えてやろう)
内装をぐるりと見回しながら、夜雨はそんなことを思った。家出中の身であるというのに、何とも呑気な考えではあるが、家出をした原因は父なので、母に対しては何の怒りも持ち合わせていなかった。
「開けてええ?」
「ああ」
柚月のしなやかな指が紺色の風呂敷を解く。
「最近流行っていると聞いてな。気に入らなかったか?」
現れたのは、米がびっしりと詰まった四角いお菓子だった。
見たことのない食べ物に固まってしまった柚月を、夜雨が心配そうに覗き込む。
「これ、めっちゃ食べたかったやつ!! おおきに!!」
嬉しいわ、と柚月が菓子を持って飛び跳ねる。
その姿はまるで、新しい玩具を買ってもらった子供のそれで、夜雨は思わず噴き出しそうになるのを必死に堪えた。
「そうか。それなら、良かった」
「うわ~! めっちゃ嬉しい~! 忙して買いに行かれへんかったから、ほんまおおきに~!!」
今にも鼻歌を歌いだしそうな雰囲気の柚月に夜雨は微笑むと、緩慢な動作で腰を上げた。
「何や、もう帰りはるんです?」
「それを持ってきただけだからな。何だ、名残惜しいのか?」
冗談めかしてそんなことを言った夜雨に、柚月が瞬きを繰り返す。
普段付き合いのある女子とは全く違う反応をする彼女に、夜雨は面食らった。
「せっかく買うたんやから、一つくらい食べていったらええやないですか。……お茶用意しますよって、待っててください」
「お、おう」
「ほな」
菓子を片手に部屋を去っていく柚月の後姿に、再び「おう」と返事をすると、夜雨は力なく畳の上に横たわった。
「調子が狂う……」
はあ、と吐き出した溜息は窓から吹き込んだ潮風に溶け込んだ。
「入れてきましたよ――って、寝てるし」
「すう」
可愛らしい寝息を立てて眠る夜雨に、柚月は呆れたように目を細めた。
律儀に菓子を持ってきたと思えば、子供のように眠る彼にどういった反応をするのが正解なのか分からない。
「ふふ、可愛い」
何かに魘されているのか、眉間に皺を寄せて唸る夜雨に柚月は口元を綻ばせた。
これではどちらが子供か分からないな、と夜色の美しい髪に手を伸ばす。
あと少しで髪に触れる――そう思った瞬間、柚月の視界は反転した。
怪しい光を纏った紅の目が、柚月を見下ろしている。
「え?」
「…………うまそうな匂いがする」
がばり、と口を大きく開いた夜雨が迫ってくるのに、突然のことで柚月は悲鳴を上げることも出来ず、目の前の男を凝視した。
「ちょ!?」
強い力で肩を押さえつけられている所為で、骨が軋む嫌な音が耳に届く。
「やめ……」
白い首筋に、赤い滴が流れていく。それをうっとりとした表情で見つめると、夜雨はまた細い首筋に顔を寄せた。
垂れてきた血を舐めれば、蜜柑のような甘酸っぱい香りが鼻を刺激する。
名前と同じ柑橘系の香りがするなど面白くて仕方がない。
眠っていたはずの夜雨が小さく笑いを零したことに、柚月が彼の髪を乱暴に引っ張った。
「な、に笑ろてんねん……ッ」
「ここでしな垂れかかってみせたら完璧だったのにな」
「うるさ、」
「そんなに吸った覚えはないのだが、人というのは不便なものよ。少しの血でもそんなに辛いのか」
顔色の悪くなった柚月の髪に触れながら、夜雨が困ったように眉根を寄せる。
悪態を吐く元気もない、と夜雨を睨むだけに留めていると、不意に項に痛みを覚えた。
まるで、寺の鐘を何度も打っているように続くその痛みに柚月が苦悶の表情を浮かべていると、それに気が付いた夜雨がそっと彼女の顔を覗き込んだ。
「どうした? まだ痛むのか?」
「違う、そこじゃなくて」
「ではどこが痛む」
ここ、と柚月が示した項を見て、夜雨は驚きに目を見張った。
「……夜雨?」
「お前、どこでこれを……」
「え?」
段々と熱を帯び始めた痛みに、夜雨の声が上手く聞き取れない。
なんて、と問おうとした矢先。――乱暴な手付きで畳の上に押し倒された。
「まさかお前のような小娘が『楠』を持っていようとは……!!」
「くすのき?」
「知らないのか」
そう言うと夜雨は喉を鳴らして笑った。
まるで、新しい玩具を見つけたと言わんばかりの満面の笑みで柚月に顔を近付けたかと思うと、己が噛み跡を付けた個所にそっと手を這わせた。
ぐっ、と強い力で首を絞められて柚月の顔が苦しげなものになる。
「妖の間では有名だぞ? 力が膨れる宝珠だとな」
「……かはッ」
「人に宿るとは聞いていたが、このような場所にあるとは。いよいよ俺に運が回ってきたと言うことか」
笑いながら柚月の首を絞める力を強める夜雨に、柚月は意識が朦朧としながらも必死に抵抗した。
ばたばたと踠く柚月を夜雨が嘲笑う。
(息が……苦しい……っ)
もう駄目だ、と柚月が諦めかけた時だった。スパーンッと小気味の良い音を立てて襖が開かれたのは。
そこに立っていた人物を見て、青白くなっていた柚月の顔色が僅かばかりに明るい色を取り戻す。
「……うちの孫に何してくれてんねん」
「何だ、お前は」
「『お前』? 最近の若い者は目上の者に対しての口の利き方も知らんのかいな」
梅が扇を口に当てながら優雅に微笑んでいた。額に浮かぶ青筋を見た柚月は、顔色が悪いまま小さく笑みを浮かべる。
「ばあちゃん、」
「このアホ娘だけは、あれだけ気ぃつけえ言うとったんに……」
「ご、め」
「言い訳は後で聞くよって、今はそれどないかするんが先や」
そう言うや否や、梅は懐から札を数枚取り出して、夜雨に向かって投げつけた。
それを見た夜雨が柚月の上から退くが、札は逃げる夜雨を追ってだんだんと壁際に追い詰めていく。
夜雨の背が壁にぶつかるのを見計らった梅が、右手の人差し指と中指を立て、印を結んだ。
「縛っ!」
梅の声に反応した札が雷を纏い、夜雨の身体を覆う。苦しげに眉根を寄せて、その場に蹲った夜雨を確認すると、梅は漸く孫娘の元に駆け寄った。
「ほんまにこの娘だけは無茶するんやから」
「ごめんなぁ……」
「ほんで? どれくらい飲まれたんや」
「猪口一杯分くらいやと思うんやけど……」
そう言って苦笑いする柚月の頭を梅は軽く叩くと、畳の上で痺れて動けなくなった夜雨をじとりと睨んだ。
「お前さん、夜一の倅やね?」
「……」
「黙ってても、その目の色は誤魔化されへんよ。紅の目に黒の髪て言うたら、夜一の血縁だけの『色』のはずや」
チ、と夜雨が舌打ちを零した。ゆっくりと、足先に力を籠めて上半身を起こした彼を梅が鋭い目で睨んだまま続ける。
「どこで、楠があるって聞いたんや」
「……花街の狐や狸たちからだ。あそこの女はよく舌が回るからな」
「……」
梅は深い溜め息を吐き出すと柚月に真新しい手拭いを差出し、首を拭うように示した。
そして、胡坐を掻いて座る夜雨に近付くとその頭に勢いよく扇を振り下ろす。
ゴンッと鈍い音がして夜雨は目の前に火花が散ったような感覚に囚われた。
ただの軽い扇とばかり思っていたのが、どうやら鉄の扇だったらしく、耳の奥がキーンと響いた。
視界が真っ白になっている間に、首に手が触れたかと思うと、急に全身の力が抜けたように動けなくなる。
不思議に思って、視界が鮮明になった頃に首を見やれば、そこには見慣れない鈴が付けられていた。
何だこれはと睨めば、年配の女はしたり顔で笑った。
「その鈴はある程度の妖力を制御する鈴でなぁ」
「なッ!?」
外そうと未だ痺れたままの腕を何とか動かして、鈴に触れると電撃が走った。
「ああ、付けている本人が外すのは無理やで? 外すには術者の血がいるから」
「それを先に言え」
爪だけしか変化しないのは悲しいが無いよりマシだと再び突っ込む。
だが、難なく避けられてしまって柚月の後ろにあった襖に顔面からぶつかった。
「クソっ!! 外せ!!」
「うちの孫に傷付けといて、何を偉そうに言うてんねん」
立ち上がろうとすればまた札を投げられてしまって動けなくなってしまう。不意に頭に手を置かれて見上げれば、梅がにっこりと優しい笑みを浮かべていた。
「それ外して欲しいか?」
「当たり前だ」
「せやったらここで働き。丁度お前みたいな血の気多い奴欲しかったとこやさかい」
これには言われた夜雨より、彼の隣にいた柚月の方が面食らってしまった。すっかり形を潜めたとはいえ、妖であることに変わりはない。見た目は人と変わらなくなった今でさえ、唯一妖力が扱える爪を伸ばして再び攻撃を仕掛けようとした者と一緒に一つ屋根の下で暮らすことなど考えただけで寒気がした。
「ちょ、ばあちゃん?」
「ようこそ和笑亭へ」
そう言って笑った梅に、柚月の悲鳴が上がる。
当の本人である夜雨だけが、訳が分からないといった表情で祖母と孫娘のやり取りを眺めていた。
久しぶりに更新しました~!!
いや最近更新する話、全部久しぶりなんですけども…!!
一章は残り二話の予定ですので、そろそろ新キャラを登場させたいと思います(; ・`д・´)