弐、くれないにうつろふ
背中が熱い。
じわり、と滲む額の汗を拭いながら、上半身を起こして、柚月は目を剥いた。
昨晩、部屋に上げた男がすうすうと可愛らしい寝息を立てながら、柚月の腰を擁していたからだ。抜け出そうにもがっちりと掴まれてしまっており、身動き一つとれない。このままでは、朝の集会に遅れることになってしまう。どうしようと、無言で狼狽えていると、男の睫毛がゆっくりと持ち上げられた。
「……まだ、早いだろ? もう少し寝てようぜ」
誰かと勘違いしているのか、甘えるように擦りついてきた濡れ羽色の髪に、固まることしか出来ない。
「……ちょ、」
回された腕を軽く叩くと、男は不服そうに喉を鳴らした。
「何だよ。俺と一緒に寝るの嫌なのか」
「……だ、誰と勘違いしてるんか知らんけど、ええ加減離してください」
寝起きだからか、少し掠れた低い声にうっすらと頬を赤めながら柚月が言うと、男の紅の目と目が合った。
ぱち、ぱち、と瞬きを繰り返すと、男が気怠そうに身体を起こす。
「……抱き心地が悪いと思ったら、アンタだったのか。いや、悪いことをした」
「……」
「?」
一晩泊めてやった相手に対して、何という言い草だ、と柚月は額に青筋を浮かべながらに思った。きょとん、とする顔が少しでも可愛いと思った自分を殴りたい。
「……朝餉、いらんのですね?」
にっこり、と笑いながらドスの利いた声が唇から漏れる。
「た、食べたいです」
「そうですか……。ほんなら、うち出てすぐの向かいに、ごっつ美味しい店ありますよって。さっさとお帰りください」
ふん、と鼻を鳴らして、男に背を向けると、柚月は大胆にも着ていた襦袢をその場で脱ぎ捨てた。下衣だけ纏った姿で箪笥まであるいていくと、引き出しから取り出した萌黄色の着物に袖を通す。
口を開けたまま、こちらをじっと見る男を睨めば、彼は声を殺して笑った。
「な、なんやねん」
「……いくら食指が動かないとは言え、男の前で着替えるのは良くないと思うよ」
「……はあ」
「それに、そんなの見せられて、俺が何にもしないって信じてるのも可愛い」
「え?」
それは一瞬だった。
布団から箪笥までは半尺(約一、五メートル)ほど離れていたというのに、男は突風の如き速さで、柚月との距離を詰めた。
驚きのあまり、箪笥を背に固まることしか出来ない柚月に、男が、にい、と八重歯を見せて笑う。
「……男のこと、簡単に信用しない方がいいぜ?」
な、と笑いながら手首を拘束されて、柚月は今更ながらに貞操の危機を悟った。
普段から祖母に口酸っぱくなるほど言われていたというのに、自分の危機察知能力の低さに呆れを通り越して怒りすら湧いてくる。
「離せ」
声が固くなったのが嫌でも分かった。それでも、紅色の妖しい光を放つ瞳から目を逸らさずに、柚月は言った。
「へえ」
なかなか、良い表情をする。
少しからかっただけで、簡単に膨れる頬が可愛らしく、ついつい口が滑ってしまった。まだ幼い少女だと油断していたのがいけなかったのかもしれない。
何の迷いもなく、目の前で白い肌を晒されれば、いやでも欲に火が付いた。
「そんな顔も出来るのか」
「な、にが」
ぺろ、と舌なめずりをすれば、少女の肩が大げさに跳ねる。
「……アンタ、面白いな」
緩慢な動作で顔を近付ければ、さっきまでじっと己のことを見ていた翡翠が瞼の向こうに閉ざされる。うっすらと紅色に色付いた肌が、熟れた果実のように思えて、少しだけ可笑しかった。
昨日も思ったが、この少女は少しばかり警戒心が足りない気がする。
自分がしたこととはいえ、着物を羽織っただけで前が全開になったまま、目を瞑る幼い少女に夜雨は苦笑した。
「冗談だ」
そう言って、拘束していた手を離せば、少女の顔が更に赤く色付いた気がした。
からかわれたと気が付いたらしい彼女が、ギっと鋭い目をこちらに向けてくる。
吊り上がっていても尚美しい翡翠の瞳に見惚れていると、襖の向こうから少女を呼びかける声が聞こえてきた。
「……柚? 寝てるんか? 早よせえな、またお梅さんに怒られるよ?」
「あ、えっと、今行きますよって! 先行っといてください!」
「……柚? それがアンタの名前か?」
「……ほんまは柚月言います。――ほんなら、もう行きますから! 出ていくんやったら早めに出て行ってくださいね!」
バタバタと忙しなく襖から出て行った少女の――柚月の小さな後ろ姿を見送って、夜雨は目を細めた。
腹の底から、ふつふつと熱い何かが湧き上がるのに、居心地が悪くて自然と眉間に皺が寄った。
「何だ?」
雨の所為で、腹でも下したのかと己の腹を撫でながら、夜雨は今しがた起き上がったばかりの布団の上に再び逆戻りする。
「……まだ礼を言っていないからな。戻るまで、待つとしよう」
誰にと言わず、そう一人ごちると、夜雨は瞼を閉じた。
柚月が出ていく前に開け放っていた窓から、爽やかな朝の香りが部屋の中に流れてくる。
麗らかな気温に、睡魔が夜雨を迎えに来るのはそう遅くはなかった。
夕方、着替えに部屋に戻ると、男が褥の上に丸くなって眠っていた。
昨夜は暗がりで分からなかったが、どうやら猫の妖だったらしく、時折ゴロゴロと気持ち良さそうに喉を鳴らしている。
濡れ羽色の髪に埋もれた同じ色の尖った耳と、浴衣の裾から覗く二本に枝分かれした尾がぴくり、と彼の寝息に合わせて動く。
それが少しだけ可笑しくて、思わず小さく笑みを零すと、その声に反応したのか、男がうっすらと瞼を開けた。
「……柚月?」
「あ、すいません。起こしてしまいました?」
「いや、いい。アンタに話があったから」
のそり、と気怠そうに身体を起こした男の言葉に柚月は首を傾げながらも、そっと彼の前に正座した。
「何です? お話って?」
「……いや、その、こういうことを面と向かって言ったことがないから勝手が分からんのだが」
男は気まずそうに、首筋をぼりぼりと掻くと、紅色の澄んだ瞳を柚月に向ける。
炎が目の中で揺れている、真っ赤に濡れた瞳を見つめかえしながら柚月はそんなことを思った。
「俺の名は夜雨、夜一が倅にして黒雲組が若頭を務める者。――昨夜は、世話になった。この恩は一生忘れん」
姿勢を正したかと思えば、畳に三つ指を揃えて男――夜雨が頭を下げた。
「あ、の頭上げてください。そない大したことしてへんし」
「いいや、あのまま雨に打たれていたら俺は妖力が切れて小さな猫の姿になっていただろう。アンタのお陰でこうして、力が回復した」
ぞわり、と背筋を冷たい何かが這うのが分かった。
目の前で夜雨が妖力を解放したのだと認識するのと同時に、彼の姿が先ほどよりも大人びた風貌に柚月が瞬きを繰り返す。
「……その姿」
記憶の遥か彼方へ追いやった誰ぞを思い出させる真っ黒な着流しに、柚月の身体は小刻みに震えを帯びた。
「ん? どうした?」
顔も声も違うというのに、身体は言うことを聞いてくれない。
かたかたと震えだした柚月を不審に思って、夜雨はそっと彼女の方に手を伸ばした。
「え、いやその……。黒雲組言うたらこの辺一帯取り仕切ってるヤクザの名前やな思って」
「そんなに怯えられるほど、悪いことをしているつもりはないんだがな」
「あ、」
すいません、と短く告げた柚月に夜雨は苦笑すると、白い煙を出して元の姿へと戻った。
元に戻っても、至近距離で妖しく光る紅色の瞳に柚月は固まることしか出来ない。
「おかしな女だな、アンタ」
「え?」
「助けてくれたかと思えば、急に素気無くしたり……。まさか、俺をからかって楽しんでいるのか?」
冗談めかしてそんなことをいう夜雨に柚月は小さく噴出した。
さっきまで怖がっていたのが、嘘だったかのように途端に目の前にいる夜雨の肩をバシバシと乱暴に叩く。
「からかうなんて、そんな! 大体あんさんがうちをからかって遊んではったのに、何言うてますのん!」
コロコロと鈴を転がしたような声で楽し気に笑う柚月に、夜雨は紅の眼を細める。
「……そうだな」
「?」
「……じゃあ、また。今度は菓子折りを持って会いに来る」
「え、」
世話になったな、と夜雨の手が乱雑に柚月の髪を撫でまわす。
文句を言おうと、口を開いた柚月を突風が襲う。
あまりの風の強さに目を閉じていると、ふわりと浴場で使っている石鹸の香りが柚月を包んだ。
やがて、突風が止み、再び目を開けるとそこに夜雨の姿はなかった。代わりに、綺麗に畳まれた浴衣や布団がそこにあり、驚きのあまり柚月はまた瞬きを繰り返す。
「おかしなお人」
そう呟いた柚月の声は、茜色に染まりだした空に吸い込まれていった。