恋風
『お花見行こう、お花見!』
大学一年の春休み、海妃は突然の提案をラインでよこした。
また突拍子に、いつもの自由人の風が吹いたかと初めはあきれたが、よくよく考えるとこの誘いの文面はなかなか魅力的だった。声がかかったのは俺の他に二人。海妃と付き合っていて俺と学部が一緒の隆彦。それから、海妃の友人朝花。俺が目下片思いをしている相手だ。バイト先が同じメンバーに収集をかけたらしく、どうやら他に参加者はいない。
チャンス! とテンションが上がったのはほんの一瞬だけ。自分がいかに不毛な恋をしているのかをすぐに思い出した。別に朝花が高嶺の花というわけでない。むしろ容姿は十人並のほうだ。性格も内向的で、いつも活発な海妃におとなしく従っている感じ。あまりにも海妃が振り回すので、本人の意思を尊重してやれよ、としょっちゅう隆彦から注意を受けている。俺も最初のうちは文句一つ言わない朝花が楽しんでるのかどうか心配で、気付かれないよう様子をうかがっていた。しかしそれは杞憂で、引っ込み思案な自分一人では決して出会えない楽しみに朝花は満足していたらしい。俺じゃ差し向かいで見られない笑顔を海妃の前では控えめに披露していた。緊張でたどたどしいが、感謝の言葉もよく口にしていた。
『行く行くー』
参加の旨を伝え、画面が消えたスマホをテーブルに置く。趣味で使ってるカメラを持ってくるよう最後に念を押された。どうやら当日俺は記録係りらしい。ちょうどいい機会だ。これまで撮りためたものの整理をしよう。カメラをボックスから引っ張り出し、早速作業開始。
「っあー」
最新の画像が朝花なあたり、俺は末期に近いのかもしれない。
ボタンを操作して記録と記憶を遡れば、出てくる出てくる。朝花のはにかみ顔、横顔、後ろ姿。一応黙秘の恋なので、ばれたらまずい。今夜メモリーカードからパソコンにデータを移そう。考えながらも懐かしさに思い出をたどる指の動きは止められない。
青春のまぶしさと片恋の甘酸っぱさに浸っているうちに、一枚の画像に行き当たった。日付をチェックすると、半年以上前。去年の夏、海に遠出した時のものだ。盛り上がろうと手当たり次第人を呼んだので、俺が知ってて海妃の知らない人、そのまた逆の人もいた。
青い海と空を背景に、海妃と隆彦がピースをしている。歯をむき出しにしてはしゃぐ表情は太陽より眩しいと言いたいところだが、何分逆光だった、すまん。確か二人が付き合い始めたころで、ちゃっかり、でも堂々手を繋いでいる。恋人繋ぎだ。
二人の奥には、既に波打ち際に駆け寄ってはだしで騒ぐ他のメンバーが小さく映りこんでる。その中には朝花の姿も。遠くてどんな顔をしてるか判然としないが、じっとレンズを――――被写体となったカップルの背中を見据えているのは分かる。
朝花を目で追いかけて、知ってしまったことがある。彼女が不器用に恋をしているということ。人付き合いが苦手で、でも好きな人のそばに少しでもいようと健気に努力をしていること。好きな人には好きな人がいるから、自分の気持ちを懸命に隠そうとしていること。それでも、好きな人を前にするとつい、口元がほころんでしまうこと。
朝花の恋の痛みと喜びは、そっくりそのまま俺の恋の痛みと喜びだった。だから、一度だけ、耐え切れず朝花の心に触れてしまったことがある。「叶わない恋だな」
学食で席取りをしていた時だと思う。隣には好きな人。こんなも近いのに、でも彼女の視線の先は俺じゃない。遠くのあの人に眼差しは強く結びつけられている。視線というのが文字通り線の形で存在したのなら、俺に朝花の糸は強すぎて断ち切れないだろう。
誰にも言えない片思いが少しだけ辛かった。でも自分なりに精いっぱいの恋をしている朝花を考えると、好意を打ち明けるのが憚れた。朝花の恋慕は透明で、誰にも、好いた相手にすら気づかれない思いだった。むしろ彼女もそれを望んでいたのかもしれない。幸せな二人を邪魔したくない、なんて身を引いて。ともかく、真水のようにクリアな恋心に不純物の俺が混じるわけにはいかなかった。
だからこそ、朝花なら不純ならざる恋(と言い張りたい)に身を寄せる俺の心情に沿ったセリフを与えてくれるだろうと期待していた。肯定してくれるだけでよかった。
朝花は席について初めて、俺と目を合わせた。そしてちょっぴり、笑った。最初で最後の真正面から見る微笑みだろうと予感する。
「……内緒だよ」
昼の食堂の喧騒に負けそうな小声でくれた答え。欲しいものとは違ったけれど充分だった。
朝花は恋をしている。それが不幸だとは思っていない。だったら何もするまい。諦めろと諭すことも、力ずくで振り向かせることも、当初の通りきっと間違いだ。
海妃が花見に選んだ場所は、小さな山の上の公園だった。大きな山桜の木が見頃らしい。なんでまた山桜、という全員の疑問には「染井吉野じゃ新鮮味がないでしょ」とあっけらかんに返した。
隆彦の運転で目的地近くの駐車場に着く。ここからしばらく坂道を登ればお目当ての場所だ。一般的な花見スポットとは異なり、一本木しか植えられていないので見応えはあるのに有名ではないそうだ。道中目の前を歩く海妃がご丁寧に解説する。その横に隆彦が並び、しっかり車道から海妃をガードしている。よく出来た彼氏だ。好きな人が恋人とともにいる場面で、朝花はなにを思うのだろう。
「着いったー!」
坂の上から徐々に桜の木の梢が見えると、海妃は待ちきれないと走り出した。つられて追いかけるが、カメラを持参したせいで誰よりも重い荷物を背に斜面を駆け上るのは辛い。抜かされことなく海妃が一番乗りだった。
「でけぇ」
木は想像よりずっと逞しく、幹の後ろに男一人余裕で隠れそうだ。無数に伸びる枝には今が盛りと薄紅色が咲き誇る。萌黄色の葉は満開の花を出し惜しみするかのように淡い紅色を覆い、花が散った後に葉が芽吹く染井吉野では見られない光景だ。鮮やかな空色が一層色を引き立てる。
「恵介、写真写真っ」
感動も一入に、海妃が撮影をせかす。背負ったリュックから落とさないようカメラを出そうとしたら、生ぬるい春風が強く吹き抜けた。砂埃と花弁を容赦なく舞い上げ、地面に叩きつける。砂塵で汚されないようカメラを腕でかばいつつ薄目を開ければ、おぼろな色彩の破片が視界を彩る一瞬間の映像に圧倒された。誰もがうわぁ、と感嘆の声をあげると。
「わい……」
溜め息交じりに朝花が呟く。耳慣れない単語に全員の視線が朝花に釘付けだ。ほんの少しの間を置いて自分が注目されてることに気付き、朝花は一気に顔を赤くする。
「あっ、ごめん、今の方言で……実家が林檎農園やってて、だから、その、桜と林檎の花が、それで懐かしくて……」
ちゃんと説明しなくてはと律義に焦って、余計にしどろもどろになる朝花。こういう時、助けるのはいつも海妃の役目だ。
「そういえば朝花って青森出身だったよね。今の青森の方言?」
「う、うん」
「どういう意味?」
「えっと、驚いた時に使ったり……あと感動した時とか」
「実家、林檎農園なのか?」
「そうなの。それで、林檎の花と桜が似てて、実家思い出して思わず……」
隆彦もフォローに回る。方言が口をついで出てしまったことがよっぽど決まり悪いのか、相変わらず朝花は羞恥に顔を染め俯いている。もしかしたら、好きな人にあれこれ質問され照れも混じっているのかもしれない。
青森出身とは聞いていたが、林檎農園の子とは初知りだ。海妃達のように、俺も朝花の話にうんうんと頷く。自然朝花を中心に取り囲むようになった。
「もー、朝花はほんとにかわいいなぁ!」
辛抱たまらんといった風に海妃が真正面から勢いよく朝花に抱き付く。激しい親愛表現に、いよいよ朝花はたじたじだ。頬が紅潮し、目は泳いでいる。どうしていいか皆目見当つかず、硬直してしまった。見かねて助け舟を差し出しす。
「ほら、写真撮るからよ。木の前に並べ並べ」
「はーい」
朝花にとっては緊張の種でも、海妃にはハグなんてどうってことない。日常茶飯事だ。朝花からほどいた腕を今度は隆彦の腕にしっかりと巻き、さっさと桜の前に移動してしまう。朝花も前二人に倣う。その顔が切なそうに目に映ったのは、さすがに俺がシンパシーを寄せすぎだからだろうか。
桜の雨が降る中、三人が横一列に並ぶ。隣のカップルに遠慮して、海妃との間に若干のスペースを残し朝花は立った。自己犠牲精神を前面に出した気遣いに、ピントを合わせながらひっそり吐息をこぼす。朝花、そんなんじゃ駄目だよ。
「朝花、もちっと右に寄れー」
ジェスチャーでちょいちょいと指示を出すと、分かりやすく朝花は身を強張らせた。視線をさ迷わせ、ついに決心しぎこちなく海妃の方へ寄る。そうだよ、それでいいんだよ。胸を痛めるだけが恋じゃない。些細な幸せくらいいつでももらわなきゃ、こちとら辛い片恋の身、割にあわないだろう?
「撮るぞ、はいチーズ」
シャッターを下ろす。小気味良い音が耳にかすかに届いた。間もなく画面に表示されたのは――――。
ふる里の思い出によく似た花をバックに、好きな人の真横で幸せそうに笑う朝花だった。
季節外れにもほどがありますが、新歓用に書き上げたものを修正しようと思ってたらこんな時期になってしまったことに本人が一番べっくらこいてます。
朝花の片思いの相手は隆彦ではなく実は海妃でしたー、という言ってしまえばそれだけの小説なんですが、通じました? 通じますかね?
恋風=恋心の切なさを風が身に沁みるのに例えた言葉