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第三十六話

 声が聞こえた。

 アニエは花を生ける手を止め、そっと祖父の眠る寝台に近づくと声をかける。

「おじいさま、起こしてしまった?」

「眠っていたのか?」

「ええ。とてもよく。」

「ファリシエ……またあの夢を見ていたらしい。」

 祖母と自分を間違えた祖父に、アニエは微笑む。

「おばあさまは出かけているわ。じき戻ると思うけれど……」

 けれど彼の耳には届いていなかった。

「今からでも間に合うだろうか?ファリシエ……」

 どうやら寝ぼけているらしい。

 ここは大人しく話を聞いているのが得策だろうと、アニエは判断する。

「何が、間に合うんですの?」

「謝罪。長い間……どうしても言えなかった。」 

「いったい誰に?」

「アルラの子に。」

「アルラの子?」

「そうだ。全てを背負わせてすまなかった。長い長い間……置き去りにしてすまなかったと……もっと早く言うべきだった。」

 穏やかでない内容に、アニエは眉をひそめる。

「それはいったい…」

「夢の中で言おうとするのに、声が出ない。いつもそうだ。それが私の……罪だからだろうか……」

「そんなこと、ありませんわ。」

「本当に、そう思うかね?」

「ええ。だって夢の中の出来事が罪になるなんて、おかしいもの。」

 老人は深く息を吸い込んだ。

「だが本来なら感謝し守るべきアルラの子たちを、私は今また、苦境に立たせている。彼らは……ずっと門を守っていたというのに。」

 “門”という言葉にアニエはハッとなる。けれどさりげなさを装って、話を合わせる。

「もしそうだとしても、カズトおじさまは弱い方でないわ。」

「もちろんだ。ハヤセ・カズトは我等と同じ竜騎士。だからこそ……全てを任せていられる……我等は……」

 言葉が途切れる。

 その後に聞こえるのは、深い呼吸と寝息。

 祖父が眠りに着いたことを確かめると、アニエは上掛けを整えた。深く皺の刻まれた横顔を眺める。

 と、部屋の扉がそっと開いた。顔を覗かせたのはワイラート家古参の使用人だった。

「アニエお嬢さま、こちらでしたか。お話し声が聞こえたようですが……」

「おじいさまと話していたの。すぐに眠ってしまわれたけど。おばあさまは?」

「今さっき、お戻りになりました。それより、お嬢さまにお客さまです。」

「私に?」

「ええ、ダールさまが。」

 アニエの表情がぱっと明るくなる。

「いつもどおり、図書室にお通ししました。」

「ありがとう!」

 アニエは(スカート)の裾をつまむと部屋を飛び出した。

 小走りに向かった先に見えるのは広い背中。

 振り返る青い瞳が、アニエを見つけて笑顔になる。

「オーディ!」

 駆け寄ろうとして、彼が一人でないことに気づいた。

 隣に立つのは、婚約者と同じ青い瞳を持つ茶色い髪の少年。学校の制服だろうか。濃い色の上着に、耳の上で切った髪を綺麗に撫で付けている。

 アニエの瞳が驚き、そして笑顔に変わる。

「もしかして……ショウ?」

「ご無沙汰しています。」ショウライナ・ダールは礼儀正しく挨拶する。

「まぁ、ずいぶん背が伸びたのね!」

 それに最後に会ったときはまだ幼かった声も、すっかり男性らしく変化を遂げていた。

「もう十五になったのよね?」

「ええ、まぁ。」

「愛想のない弟ですまない。無理に連れ戻したんでむくれてるんだ。」と、ダール。

「そんなこと……ガッセンディーアの学校にはもう行ってきたの?」

「手続きを済ませてきました。」

「これから実家にいったん戻る。それで数日顔を出せないから立ち寄った。」

 そう、とアニエは微笑む。

「ゆっくり休んで……といっても、あなたはそれが落ち着かないのよね。」

「すまないな。」

 部屋の外で声がした。

「おばあさまだわ。」

「ぼく、挨拶してきます。」ショウは頭を下げると部屋を出て行く。

「気を遣ったつもりなんだ。」

「いい弟さんだわ。」

「だといいが……それより次にこちらに戻ったら時間を取るから、アニエが行きたいところを考えといてくれ。」

 そう言うとダールは婚約者の手を取る。

「看護も大切だが、たまには息抜きが必要だ。話は……そのときに聞く。」

「私……何も……」

「何か話したいことがある、って顔だ。」

 アニエは息を吐き出す。

「まだ契約してないのに、あなたはなんでも見通すのね。」

「急ぐことだったか?」

 いいえ、と首を振る。

「でも、あなたにしか話せないこと。」

「そりゃあ責任重大だ。とりあえず今は、これで勘弁してくれ。」

 ダールは背をかがめると、恋人の頬に口付をした。


 しばらくのち、ワイラート家を辞したダール兄弟は聖堂(せいどう)にいた。

 ダールは真っ直ぐ書庫に行き、見知った顔を見つける。そして尋ねた。

「ネフェル、リィナを見なかったか?」

「さっき中庭にいるのを見かけたけど……」ネフェル・フォーン・オーロフは小首をかしげ、

「私、呼んできましょうか?」

「いや、自分で行く。代わりにショウ!しばらくご婦人の相手をしてろ。」

 大股でその場を離れる兄の後姿に、ショウはため息をつく。

「たく、自分勝手なんだから。」

 ネフェルがくすくす笑った。

「すみません。その……」

「いいえ。こちらこそご迷惑かけてしまったわね。ダール家の末っ子さんよね。」

「ショウライナ・ダールです。」

「私はネフェル・フォーン・オーロフ。」

「姉の友人ですか?」

「仲良くなったのはつい最近。共通のお友達がいることがわかってから。でもあなたのお兄さまとは、その前に知り合ったの。ショウライナは……」

「ショウ、でいいです。」

「ショウはカーヘルの学校に行っていたんですって?」

「ええ。シンラータの寄宿舎にいました。けど両親が戻ってくるので、お前もガッセンディーアに戻れと言われて……近いうちに、こちらの学校に転校するんです。」

 まったく、と呟くショウにネフェルは首をかしげる。

「ガッセンディーアが嫌い?」

「というより、一族の意味がわからない。」

「え?」

「だってそうじゃないですか。今どき竜だの、英雄の子孫だの。古い因習に縛られてるから、よその場所でも奇異の目で見られるんです。」

「カーヘルでそういう目に遭ったの?」

「直接遭ったわけじゃないけど……」

「私もずっと南で暮らしていたけど、一族のことを誹謗(ひぼう)する人などいなかったわ。」

 ショウは不思議そうにネフェルを見た。

「オーロフ家はガッセンディーアの領内ですよね?」

「お兄さまから聞いてないのね。それに噂も。」

「噂は嫌いです。」

 そう、とネフェルは呟く。

「私、ずっと母とカーヘルで暮らしていたの。その母が亡くなって、いろいろあって祖父と暮らすようになったけど、ガッセンディーアに来てよかったと思ってるわ。田舎育ちだから都会が珍しいのもあるけど、なによりここは空の民と創造神が一緒にいる。それってすごく素敵なことだと思うの。」

「ぼくは……そんな風に思えない。」

「もちろん、そいういう考え方があってもいいと思うわ。」

「えっ?」

 否定されると思いきや、笑顔で言われてショウは面食らう。

「一族であっても皆が竜に乗るわけではないし、私みたいに中途半端でも空に焦がれる。そんな風にそれぞれでいいんじゃないかしら。」

 明るい青い瞳が微笑む。

 と、背後で二人の名を呼ぶ声がした。

 ショウライナと同じ瞳、同じ髪の色の少女が手を振っている。

「ショウ、おまたせ~ってネフェル。ショウが失礼なこと言わなかった?」

「挨拶しか、してないしのよ。」

「それに身内を信用しろよ。」

「信用できないから聞いてるんでしょ。三年間ほったらかしにされてたんだし。」

 リィナリエ・ダールは腰に手を当てて顔を突き出した。

「リィナだって三年前と、全然変わってないじゃないか。」ショウは唇を尖らせる。

「お姉さま、でしょ。」

「一つしか違わないんだから名前で充分。」

「一歳も違うんだから、お姉さまって呼びなさいよ!」

「おめーら!そういう話は家でしろ!」 

 遅れて現れたダールが一喝する。

「騒がしくてスマンな。」

 ネフェルは首を振った。

「仲が良くて羨ましい。」 

「それよりネフェル!」ふくれっ面を解除したリィナが、ネフェルの手を取って言った。

「今度オーロフのおうちに行くからね!」

「ぜひ来て!義姉さまもリィナに会いたがってるもの。」 

 そのままおしゃべりが始まりそうな勢いのリィナを引っぺがし、三人はネフェルに別れを告げてその場を離れた。

「随分ネフェルと仲良くなったな。」

 聖堂を出たところで、ダールは上機嫌な妹を振り返る。

「ミヤコのおかげ。今度ネフェルと一緒にミヤコに手紙を書くの。」

「ミヤコって、兄さんが言ってたリュートの婚約者?」

「気になる?」

 リィナの問いに、ショウは「別に」と答える。

「でも……一族でありながら、よその国と積極的に交流しているのは革新的だと思う。」

「えっらそーに!」リィナが唇を尖らせる。

「いっとくけど、ミヤコはちゃんと銀竜(ぎんりゅう)も名付けてるんだからね!それにリュートと契約の儀もするんだから!」

「わざわざ因習に縛られる意味がわからない。」

「そうやって反目するあんたのほうが、わかんない!」

 まったく、とダールは額を押さえる。

「おれは、お前らがどうしてうるさいのかが、わかんねぇよ。」

ダール家の末っ子、ようやく登場。

そして次回、最終回です。更新は5日後の木曜日になります。イレギュラーですが、前日まで動き回ることになりそうなので・・・すみません。

そのあと短いの一本アップして、終わる予定です。

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