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第三十一話

 翌日、三人は前日下った道を再び登っていた。

 昨夜世話になったマーギスの叔母テマイヤは、かつてこの道を通って山の下の隣村に嫁いだのだと、昨夜話していた。

 ホランジェシの言うとおり足腰と耳は年相応だが、口と記憶は八十間近にして衰える気配がなく、同居する末娘の一家も老夫婦の健在を誇りに思っているらしい。それに神職についた身内、マーギスとホランジェシのことも。

 もっとも、老テマイヤの見解はいささか違っていた。十四年ぶりの甥との再会の第一声は、

「おや、まぁ!すっかり老けちまって。」だったのである。

「あんなに可愛らしかったマイゼルが、こんなになって。」テマイヤは椅子に腰掛けたまま、しわくちゃの手でマーギスの手を取った。

「老けたのはお互い様でしょう。」マーギスが苦笑する。

「あたしゃこの十年変わってないって言われるよ。それよりおまえ腹の出方といい、頭の具合といい、死んだ兄さんそっくりじゃないか。これでお説教して、ちゃんと聞いてもらえるのかい?」

「ご心配なく。それに礼拝に立つのは私だけじゃありません。」

「まぁ偉くなったんだから、それくらいどうにでもなるんだろうけど……それにしても、この頭じゃガッセンディーアの冬は寒いだろうに。」

「そんなに頭が気になりますか?」

「ああ、気になるね。」

 トランはそのときのテマイヤの神妙な顔を思い出す。

「さすがの司教さまも、叔母さんの前では形無しですね。」

 立ち止まり、休憩したところでトランは言った。

「まったく、お恥ずかしい限りで。」

 隣でホランジェシもくすくす笑う。

「ばあちゃん、誰にでもあんな感じなんだ。でも薬の知識や昔のことを凄く覚えてるから、みんな頼りにしてる。」

「ぼくも時間があればぜひ、村に伝わる古い話を聞きたいものです。」

「そういえばトランの家族は?」ホランジェシは思いついたように尋ねる。

「独り身です。親代わりの祖父母も亡くなりましたから。母は生きてるはずですが、再婚してよその土地に行ったので音信不通です。」

「よけいなこと聞いて、すみません。」

「別に構いません。隠すこともないし、独り身を気にかけてくれる縁戚もいますから。」それより、とトランは眉をひそめる。

「待ってろ、というなら聞く耳持ちません。」ホランジェシはキッパリ言った。

「おれはあの村の人間で、神舎(しんしゃ)の人間でもある。だからこの目で確かめる義務がある。それにどっちかといえば、司教である伯父さんが乗り込むほうがお門違いじゃないか。」

「お前はあのときを知らないから……」

「村に入れなかったのは、伯父さんたちだろう。」

「子供に見せられる状況じゃなかったと、言っただろう。」

「今はもう、子供じゃない。」

「まったく……」

 昨日から何度も繰り返されているやり取りに、マーギスは深いため息をつく。

「仕方ないですね。」言いながらトランは上着のポケットから革紐を引っ張り出す。

 紐の先にぶら下がる雫型の緑の石をかざして見せた。

「もしかして……一族の守り石?」受け取ったホランジェシが目を丸くする。

「宗旨違いかもしれませんが、これを肌身離さず持っていること。」

「本物?」

「ええ。ぼくとマーギス司教はすでに身につけてます。気休めかもしれませんが、ないよりマシですから。それでも何が起こるかわかりません。違和感を感じたらすぐに言うこと。いいですね。」

 ホランジェシは頷いた。

 かつて自分が住んでいた村に行くことは、伯父マーギスからの手紙で事前に知らされていた。ただその目的は書かれておらず、その説明を受けたのは昨夜。それが危険なこと、何が起こるかわからないことを強調されたが、ホランジェシは頑として同行すると主張した。理由は先ほどマーギスとやりあった通り。

 その気持ちは変わらないが、守り石を手にするとさすがに緊張が高まる。

 再び歩き出す。

 道の途中から、マーギスが先頭に立って草をかき分けて進んだ。やがて山道に出ると、その先に丸太を横倒しにした壁のような柵が現れた。文字はとっくに消えているが、朽ちた看板のようなものが打ちつけられている。

「病気が発生したので立ち入らないこと……と書いたんです。」マーギスが説明する。

「当時生き残った者たちができたのは、それくらいだったので。」

「賢明だったと思います。」

「今ではここに人が住んでいたことを覚えている人もないでしょう。脇から行きますが、足元に気をつけて。」

 柵を避ける形で、斜面ぎりぎりを通り抜ける。

 うっそうとした木々が影を落とす中を歩いていると、唐突に森が切れた。しばらく立ち止まって目を明るさに慣らす。やがて目の前に現れたのは、朽ちた家が点在するかつての村のなれの果て。

 人っ子一人いない廃墟を、三人は進んだ。

「なんだか妙ですね……」

 最初に呟いたのはトランだった。

 ええ、とマーギスも頷く。

「思ったより草が生えていません。」

「それに鳥の声も遠い。」

「鳥?」ホランジェシは空を見上げる。

 確かに、空を飛ぶ鳥の姿が見当たらない。それにトランの言うとおり、十年以上放置されていたにしては雑草の生え方が控えめだ。

 やがてたどり着いた一件の家の前で、マーギスはホランジェシを振り返った。

「お前はここで待ってなさい。」

「ここまで来て、それはないだろ!だってここは……」

「これは命令だ。皆、この家の中で亡くなったんだ。」

「だから……」

「だから、何があるかわからない。」

「あのときも、そうやっておれをここへ入れなかった。」

「代わりと言ってはなんですが、裏庭を見てきてもらえませんか?」

 不満げなホランジェシにトランが言った。

「見るって……なにを……」

「全てを。草が枯れてるとか、生き物の骨があったとかでも構いません。」

「そんな……」

 簡単なこと、と言おうとしてトランがひどく真剣なことに気づく。

「ぼくはその場所の昔を知りません。もちろんきみも子供の頃のことはあやふやかもしれない。でも比較できるのは、この中できみしかいなんです。」

「比較?」

「きみの家族が亡くなった日、ここで何があったのか。もしかしたら手がかりが残ってるかもしれない。ただし、変調を感じたらすぐに言うこと。」

 いいですね、と念押しするとトランはマーギスと共に家の中に入っていく。

 釈然としない気持ちを抱えたまま、ホランジェシは裏庭にまわった。木戸に手をかけ、ふと足を止める。

「こんなに……低かったっけ?」

 改めて回りを見ると、あらゆる物が小さく見えることに気づく。もちろん自分が成長したからなのだが、記憶の中の生家はもっと広かった気がする。。

 ホランジェシはトランに言われたとおり、庭をゆっくり歩いてまわる。

 母親が洗濯紐を渡していた木は、すっかり枯れて幹だけが残っていた。水を引き込んだ池は干上がり、ひび割れた土がむき出しになっていた。顔を上げ、ぐるりと辺りを見回す。引き返して、生垣があった辺りを見て首をかしげた。そこから以前見えたはずの、村で一番高い建物の屋根が見えなかったのである。

「実は小さかったとか……ないよな。」

 呟きながら裏の木戸(きど)を開け、その先に続く小道を進んだ。人気のない他の家の庭先を通り、隙間のような軒先をくぐり出た先は……。

「神舎が……ない?」

 そこにあったはずの、高い屋根を持った建物がなくなっていた。代わりに目に留まったのは折り重なる、黒ずんだ木材。強いて言えば建物だった残骸、とでも言うべきか。

「火事?でもそんなこと、伯父さん言わなかった。」

 呟いて、ホランジェシはあることに気づく。

「十六年前……だよな?」

 神舎のあった場所を中心に、残骸にも周辺にもまったく草が生えていないのである。足を踏み出すと乾いた土が舞い上がる。それに空気もどこか乾いていて、そこにいるだけで肌がぴりぴり痛む。

 違和感。

 本能的に浮かんだ言葉に、ホランジェシはごくりと唾を飲み込む。少なくとも、自分が慣れ親しんだ山の光景でないことは確かだった。

 意を決して、かつて神舎だった場所に近づく。横倒しになった炭化した木材をまたぎ、かつて村の皆が集った建物の中に入る。しかし数本の柱しか残ってないこの状況では、どこに何があったのか皆目見当がつなかない。思いついて足元の瓦礫をよけると、その下からモザイク石を埋めた床が見えた。

「ってことは、ここが礼拝堂か……」

 恐らく祭壇があった場所に、ゆっくり歩いていく。

 と、硬い物が足先に当たった。足元を見たホランジェシは首をかしげる。かがみこんで拾おうとしたとき。

 ふいに目眩がした。

 まずい!と思って踏ん張るが、視界が定まらない。

 脂汗をにじませながら、無意識に胸元の緑の石を握り締める。

 這うように焼け跡から出ると、そのままその場に倒れこんだ。


「すみません。おれのせいで引き返す羽目になって……」

 昨夜も世話になった親戚の家で横になったまま、ホランジェシは囁くような声で言った。だいぶ顔色が良くなったが、それでもまだ具合が悪そうだ。

 いいえ、とトランは首を振る。

「むしろ助かりました。ホランのおかげで引き際を見極めることができましたから。」

 焼け落ちた神舎の前に倒れていたホランジェシを見つけたのは、マーギスだった。

 それ以上留まるのが危険と判断したトランは、荷物をマーギスに任せると同じほどの体格のホランジェシを担いで麓まで下りたのだ。

 その先は老テマイヤの出番だった。娘とその婿に指図して薬を調合し、呪文のようなまじないまで唱えてホランジェシの手当てをしたのである。それは彼女自身が昔、両親に施された治療だという。

「きみの一族は、どうやら大気に敏感なようですね。」

「まさか自分までそうだと思わなかった。あれが……呪術の痕跡?」

「あくまで可能性ですが。でも……」トランが言わんとしていることはホランジェシにもわかった。

「時間が経ってるのに……影響が薄まらない……普通なんですか?」

「わかりません。なにしろ禁じられてずいぶん経つので……」

「みんなが死んだのもその影響?」

「恐らく……としか……」

「何のために?」

 トランは首を左右に振る。

「そうするためだったのか、偶発的に巻き込まれたのか……あなたの伯父さんもずっと考えているそうです。」

 ホランジェシが腕で目を覆う。

「おれ……何も知らなかった。」

「ホランのせいじゃありません。」そう慰めたトランの言葉がどれだけ彼に届いたか。

 しばらくそんな問答を繰り返し、やがて微かな寝息が聞こえるのを確認すると、トランは部屋を出た。

 マーギスを探すと、家人が仕事場にしている離れにいた。

「テマイヤさんの薬が効いたみたいです。それに、本当に彼には言ってなかったんですね。」

「家族が死んで妹が行方不明になって……それだけでもおかしくなりそうなのに、その原因が禁じられた呪術かもしれない。そんなこと、八歳の子供に言えませんでした。それにあの子の勘がいいのは、わかってましたから。なにか大事があれば、それこそ死んだ弟に顔向けできない。」

「テマイヤさんも、大気に敏感なようですね。」

「一番最初に村の異変に気づいたのは叔母だったと聞いてます。」

「ご自分でも言ってました。お祖母さまの実家がそういう気質だったとか。」

 ああ、とマーギスは微笑む。

「死んだ父親も言ってました。曾祖母さんの家は豊穣(ほうじょう)の姉妹の末裔だと。実際、神舎ができる以前は神職のようなことをしていたらしい。」

「それで司教さまも神職に?」

「ええ。」

「豊穣の姉妹は神と人とをつなぐ巫女だったとも言われてます。文字を読み、多くのひとにそれを伝えた、語り部の元祖だとも。そう思えば、司教さまの選択は自然です。それにホランには悪いですが、これでハッキリしました。」

 マーギスも頷く。

「明らかにあそこで何かが行われた。それは恐らく呪術(じゅじゅつ)に関すること。カズトと会ったときに銀竜(ぎんりゅう)が近寄らなかったのもわかります。しかし……あの当時はそれほど感じなかったのに……」

「マーギスさまも、あの場で何か感じたんですか?」

「ホランほどではないが、違和感というか妙な感じは……」

 うーん、とトランは腕組みする。

「目に見えないことなので、なんともいえませんが……ガッセンディーアという土地に暮らしたことで、この土地に対する違和感が強くなっているのかもしれません。」

「ガッセンディーア限定ですか。」

 だって、とトランは言った。

「あそこは聖堂と神舎が……神と人と空の民が同居する、世界でも稀な場所ですから。」

次回更新は日曜日!

いろいろ詰まってきましたが。どうにがんばります。

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