第三十話
「見えなくなりましたね。」
トランがため息をついた。
「あっという間でしたな。」隣に立つマーギスも頷く。
「無事にガッセンディーアに戻るのを祈るのみです。」
「竜の体力は人が思う以上です。それより、ずっと竜と一緒に飛んでる乗り手のほうが凄いですよ。」トランは眺めていた向かいの山の稜線から目をそらすと、足元に置いた大きな荷物を担いだ。
「ぼくたちも行きましょう。」
マーギスも自分の荷物を担ぐと、
「では足元に気をつけて。」と先に立って歩き始める。
いつもの司祭服でなく、膝までの丈の革の上着に堅牢な革の長靴、、それに革の手袋という重装備である。首から提げている護符が神職であることと彼の地位を示しているが、ぱっと見れば体格のよい好々爺か校長先生。その後ろを歩くトラン・カゥイはさしずめ生徒といったところか。
二人は今、マーギスの生まれ故郷に向かっているところである。
そこは三方を山に囲まれた集落で、事前に地図を確認したセルファはその中で一番低い山の頂を竜の着地場所に選んだ。そこならば地上に何かあっても竜に影響することはなく、そしてマーギスとトランが集落へ降りるのも比較的楽だろうと踏んだのである。
夜明け前に竜の背に乗り、途中休憩しながらもこの南の地……ホルドウルの更に南の山間部に着くことができた。一旦集落の上を旋回して場所を確認すると、セルファは予定通り山頂に竜を着地させた。マーギスとトランを降ろすと、休む間もなく再びガッセンディーアに向けて飛び立って行ったのである。
「アデル商会の仕事は大丈夫なんでしょうか。」
「カズトさんが言うには、ハヤセの家と連絡を取ることも業務のうちなんだそうです。はっきり言いませんでしたが、上からの指示もあるみたいですね。」
「それにあなたはお休みをいただけたんですか?」
「引退した元校長先生が代役に立ってます。正直に話したら反対されることもありませんでしたから。」
「なんと言ったんです?」
「ガッセンディーアの司教さまとご一緒できる機会に恵まれたので、行きたいのですが、と。むしろ行ってらっしゃいと言われました。」
「それは……気の利いたお説教のひとつもしなくてはいけませんかね。」
「こうしてご一緒できるだけで、充分ですよ。」言いながら、トランは手の甲で眼鏡を押し上げ汗を拭う。
「さすがにガッセンディーアより暖かいですね。」
「それに今の季節は雨も多いですから。」
ひどく高い山ではないが、道のないところを下るのはそれなりに骨が折れる。誰も立ち入らない山はうっそうと暗く、進む先は湿った土の匂いが立ち込める。けれどマーギスの足取りは確実で、トランは彼の足跡をたどりながら前に進んだ。
やがて、眼下に開けた場所が見える。
「もう一息」というマーギスの言葉通り、明らかに人が作ったと思しき道に出た。
立ったまま休憩していると、何かが草をかき分ける音。
ハッと身構えるトランに、マーギスが「静かに」と身振りで示す。
背の高い草の間から現れたのは……
「伯父さん?」
若い男だった。
マーギスが目を丸くする。
「ホラン?」
「やっぱりマイゼル伯父さんだ!」
赤毛の男は、満面の笑みで二人に駆け寄った。
「会えて良かった……ああ、えっと伯父さんじゃなくて、司教さま。」
「ここは神舎じゃないんだ。いつもどおり伯父さんで構わないよ。」
「じゃあ、伯父さん。竜が頭の上を飛んだのが見えたから、そろそろ着くと思ったんだ。」
「出迎えありがとう。それに立派になったな、ホラン。」
「伯父さんも。」
「腹が立派になったと言いたいんだろう。」
「それに頭も、祖父ちゃんそっくり!」
「安心しろ。私自身そう思ってる。」笑いながらマーギスはトランを振り返った。
「こいつは甥っ子のホラン。」
「ホランジェシ・マーギスです。」茶色の瞳がにっこり笑う。
やはり山歩きに適した格好に、マーギスと同じ神舎の所属である証が首から下がっている。
「トラン・カゥイです。お名前、ホランスェだと伺ってたんですが……」
「それ、古い読み方なんです。村ではそう呼ばれてたから。」
「あの村では、古い呼び名が普通に使われていたからね。」とマーギス。
「ええ。でも今の言葉だとホランジェシ。友達にはジェシーとかジェスって呼ばれてます。ホランって呼ぶのは昔からの知り合いだけ。」
「ではぼくも司教に倣ってホランと呼んでもいいでしょうか。ぼくのこともトランと呼んでください。」
「トランとホラン……」呟いたホランジェシはくすぐったそうに肩を竦める。
「なんか変だな。でも、似た名前の人に会えるって嬉しい。それにおれ、竜の研究者と会うの初めてです。」
「普段は子供達に勉強を教えてます。ホランはマーギス司教と同じ聖職者なんですよね?」
「ここから少し離れた小さい町の神舎にいます。らしくないって言われるけど……。」
「むしろそのほうが、皆に親しんでもらえそうですね。」
「実はそうなんです。今、夏祭りの準備をしてるんですけど、頼りにならないのか町の人たちが率先して準備してくれて……。」
「そんなに忙しいのに、呼び出して悪かったね。」
いいえ、とホランジェシは首を振る。
「伯父さんが手紙をよこすなんて大切な用事だと思うし、おれも会いたかったから。」そこまで言って彼は背後振り返る。
「手紙で言われたとおり、村までは降りてません。でもこの先の墓地までの道は作っておいた。といってもこないだバセオがうちに寄ったとき来てるから、そんなに大変じゃなかったけど。」
「バセオというのは同じ村の出の修士で、先日、ガッセンディーアの神舎に異動になったんです。」マーギスが説明する。
「テマイヤばあちゃんの代わりに来ることあるし。」
「テマイヤに何かあったのかね?」
「年だよ年。最近腰痛がひどいってうるさいから、代わりに来るようになったんだ。伯父さんもぎっくり腰とかやってないよね?」
「ガッセンディーアの司教にそんな暇はないようですよ。」とトラン。
「それもそっか。」ホランジェシは笑う。
三人はホランジェシがつけた道筋をたどって目的地を目指す。山の裾野……といっても集落より高い場所なので日陰に入ると涼しかった。やがてぽっかり現れたのは、木々に囲まれた緩やかな傾斜地。
「これは……」
マーギスは息を呑んだ。
ホランジェシが目を細める。
「今が一番綺麗かもしれない。」
目の前に広がるのは色の洪水。背が低く小さい花が、花畑とまごうほど地面を覆い尽くしていた。
赤、黄色、白、薄紅色。
まるで紙ふぶきのような中に沢山の石碑が並ぶさまは、どこか幻想的でもある。
トランが「おや?」と呟いた。地面に膝をついて花を手に取る。
「この花……この辺のものではありませんね。」
へぇ?とホランジェシが目を丸くする。
「主にガッセンディーアとアバディーアの北で、夏に見られる花です。なんでこんなところに……」
「カズトが蒔いた種ですよ。」前を向いたまま、マーギスが言った。
「二度目の偶然で出会ったとき、彼が蒔いたものです。」
ああ、とトランは呟く。
「それなら納得です。この辺りは土地の高さもあるし、少し涼しいのが合ったのでしょう。」
「まさか……こんなに咲くとは……それに綺麗だ。」
思いも寄らぬ光景に見入った後、マーギスとトランはホランジェシに促されて荷物を降ろした。
「石が崩れてるところもあるから、気をつけて。」
「ぼくは遠慮したほうがいいですか?」
「いいえ。一緒に来て、その目で見たことを皆に伝えてください。」
そうマーギスに言われたトランは、二人と共に墓地に足を踏み入れた。
彼らが足を止めたのは斜面地の下のほう、いくつかの墓石が寄せ集まっているところだった。
「この辺りがマーギスのご先祖の墓。そしてこっちが家族の墓。」
ホランジェシが自分の腰ほどの高さの石に触れた。石には何人かの名前が刻まれており、その下にある日付は十六年前のものだった。
マーギスがその前に立つ。
「両親に弟夫婦……それに幼いバウリーク……無沙汰をしてしまいました。」
マーギスは目を閉じると、そのまま祈りの言葉を唱える。
それを終えると、今度は別の場所の古そうな墓石の前で同じように祈りを唱えた。
「こちらはどなたのお墓なんですか?」
「村の守り神。」
「えっ?」マーギスの答えにトランは目を丸くする。
「ここに最初に住んだ一族の墓と言われているんです。」
「どこの家だかわかんないけど、村では“ご先祖さま”って呼んでお参りするしきたりだったんです。」ホランジェシが言った。
「そんな習慣、初めて聞きました。」
「ただの言い伝えですよ。無縁になった墓も大切にしろという教えだと思います。」
トランは二人に断ると、文字の薄くなった墓石を検分した。
「書かれているのはホルドウルの古い文字ですね。」
「村が途絶えるまで、日常的にその文字を使っていました。今ではそういう集落はないでしょう。」
「おれ、トゥトスの学校に行ってたとき、先生にびっくりされたもん。」
「私もそうだったから、ホランの時代ではなおさらだろうね。」
「英雄のガラヴァル兄弟の父親……老ガラヴァルが、この辺の出身と言われてますよね?」
「それに村を囲む三つの山は豊穣の姉妹がそれぞれ住んでいたと言われてます。」
「空を歌う長女、大地を歌う次女、そして海を歌う三女ですね。」
「さすがにお詳しい。」
「その話、結構好きなんです。」
「そういえば、これより古い墓碑が向こうにあったはずだが……」
「本当ですか?」トランの瞳がぱっと輝く。
「それ、拝見してもいいでしょうか?」
もちろん、とマーギスが微笑む。
「咎める人は誰もいません。むしろ記録してもらえれば、ご先祖も喜ぶでしょう。」
その言葉にトランが奮起したのは言うまでもない。花をかきわけ墓碑に向かうトランを見送ると、マーギスは荷物を置いた場所に戻って腰を下ろした。
先に着いていたホランジェシはここで随分時間を過ごしていたらしく、煮出しておいた茶を再び温めてマーギスに渡した。
「祖父ちゃんも父さんも、伯父さんが立派に出世して喜んでるよ。」
「出世できたのは皆のおかげだよ。」
「それに伯父さんがいるから、おれもがんばろうって気持ちになるもん。」
「最後に会ったのはカーヘルの神舎だったね。あれは……」
「六年前。卒業する直前だから。」
「そんなに?」
「おれだってもう二十四だよ。」
甥の告白にマーギスはため息をつく。
「もう……そんなに経つか。」
ホランジェシは苦笑しながら指折り数える。
「バウリークだって生きてたら十八だし、アンだって二十一。」
「ときどき、アンの夢を見るんです。それにガッセンディーアの神舎から竜を見るたび、あの子を思い出す。」
「英雄伝説が好きだったもんな。でも実際竜に乗るって、どういう感じ?三日かかるところ、今日一日で来たんだよね?怖いとか……」
「それはありません。けれど飛んでみれば、英雄たちが彼等を同胞と呼んだ理由がよくわかります。」
「へぇ?」
「空では人は無防備この上ない。翼を信じなければ飛ぶことはできない。」
「つまり、それを信じるの人たちが一族ってこと?」
「そうとも言えるかもしれません。それに空は広い。地上でわれわれがしていることが、いかにちっぽけかと実感します。だからこそ、戦いのときに彼等がどこにも加担しなかったのも理解できます。」
「沈黙の時代……か。」
「空に国境などないのを知っていたから、彼等はじっと耐えたのでしょう。」
「それに、同胞が血なまぐさいことを嫌うことを知っていたんですよ。」
顔を上げると、トランが立っていた。
「ざっと見ましたが、どうにか時間を作って文字を写し取りたいですね。」
「そんな大したこと、書いてないと思うけど。」
ホランジェシが座る場所を空けて勧める。
「たとえ人の名前だとしても、この土地にとっては大切な歴史の一部です。ありがとう。」
ホランジェシから木のコップを受け取ると、そっと香りを堪能してから口をつける。少しの苦味と、優しい甘味が広がる。
「薬草茶ですね。おいしい。」
「今夜世話になる家で作ってるんです。薬を採取して売るのを生業にしてる家なんで。」
「ご親戚ですか?」
「私の父の妹……ホランから見たら大叔母になります。」と、マーギス。
「テマイヤばあちゃん、伯父さんが来るの、すっごく楽しみにしてるから。」
だろうね、とマーギスは苦笑する。トランに向き直り、
「先に言っておきますが、相手が何を言おうと笑わないでくださいね。」
「何かあるんですか?」
「いまだに伯父さんのことチビすけ、って呼ぶんだ。」
「チビすけはまだいい。」マーギスはため息をついた。
「マイゼル坊やと言われないことを祈るよ。」
ちょいとハードな展開入ります。
次回は水曜日更新予定。




