第二話
友人と別れ帰路についたのは、とっぷり日も暮れたころ。
「日が短くなってきたなぁ……」
幹線道路を歩きながら都は冷たい風に身震いする。
「そういえば……あれも、学校帰りだったっけ。」
それは高校二年に進級した頃。
今のように学校から帰る途中、近道をしようと足を踏み入れた公園で、都は突如黒い影に襲われた。わけがわからず混乱する彼女を助けてくれたのが、早瀬竜杜だったのだ。
とはいえそのときの彼は強引で、しかも当時は長い黒髪を束ねていたので正体不明もいいところ。今よりもっと男性が苦手だった都は、正直彼が怖かった。
けれどその後も顔を合わせる機会があり、そして言葉を交わすうちに「怖い人」は「不思議な人」に変わっていった。
彼のどこか日本人らしからぬ顔立ちや、立ち居振る舞い、そして時折見せる思わせぶりな態度を無意識に感じ取っていたのかもしれない。
彼の素性を知ったのは、その年の夏休み直前。
再び、都が影に襲われたのだ。
そのときのことはあまり覚えていない。かろうじて覚えているのは早瀬竜杜が駆けつけてくれたこと、そしてその手がとても暖かく、安心できたこと。
翌日、早瀬の家で目を覚ました都は、竜杜の父で喫茶店フリューゲルの店主、早瀬加津杜に「君は殺されそうになった」と説明された。
そう言われても傷一つ残っていない。不思議がる都に、早瀬いわく、
「契約が成立したことで、竜杜の持つ特殊な力を分け与え、君は命を繋いだ。」と。
それは本来、竜を召喚し空を駆けるために必要な強靭な力。そして契約とは、竜を繰る一族が互いを支えるために交わす一生の契約……すなわち婚姻のようなものだと。
男性不在の家に育ち、彼氏いない歴=年齢を重ねてきた都が、「婚姻」の二文字に仰天したのはいうまでもない。それに竜だとか一族だとか、まるでファンタジーな単語の羅列に戸惑う。
「それ、どこの国の習慣ですか?」
「少なくとも地球上ではないかな。」
それは「門」と呼ばれる通路の向こうにある、もう一つの世界。
国があり人々が暮らすのはこちらと同じで、あえていうなら地図にない外国のような場所。唯一こちらの世界と決定的に違うのは、空に住む「竜」という種族がいること。
竜は神話時代からの生き物で、人間が「地上の民」と呼ばれるの対して「空の民」と呼ばれてきた。その地上と空の間にいるのが「一族」と呼ばれる一派。希少な存在となった空の民を「同胞」と呼び、共に空を駆ける人々である。
「その……竜杜さん、は?」
「現役の乗り手だよ。竜を召喚するなんて特殊能力だから。」
その能力は血筋で伝えられ、その血筋を守るために一族同士で行うのが「契約」なのだという。だから、本来なら竜杜と都の間で成立する可能性はひどく低いのだが、それでも契約が成立したのは偶然だったのか。そもそも影に襲われた心当たりもまったくないだけに、都にとってはすべてが寝耳に水。
「あるいは、都ちゃんはずっと昔に門を行き来していた人たちの末裔なのかもしれない。」もちろん確証はないけど、と後になって早瀬が言ったことがある。
それは記録もない大昔の話。
その後ある時期から「門」は閉ざされ、いつしか向こうの世界でも存在自体が伝説になってしまった。
けれど門はずっと存在した。
門番である早瀬の一族に守られて。
早瀬加津杜はこちらの出身だが、ひょんなことから向こうの世界の住人であるエミリア・ラグレスと知り合い、紆余曲折の末、一族の契約を交わした。その一人息子である竜杜は「一族」にして「門番」という稀有な存在。ゆえに日本人として「早瀬竜杜」の名を持つ一方、一族として「リュート・ハヤセ・ラグレス」という名も持っている。彼にとってはどちらも本名であり、あえて区別することはない。ただ知り合った当初は日本での生活がまだ浅く、それゆえ「早瀬さん」と呼ばれるのが慣れなかったらしい。
そんな風に言われて、「はい、そうですか」と受け入られるほど単純な話ではない。
都は悩んだ。
それは竜杜も同じだった。
命を救うためとはいえ、一方的に契約を交わしたことをひどく後悔していたと、都は後になって彼の関係者から聞いた。
そんな折、都が三度、影に襲われた。
それは「黒き竜」と呼ばれる、かつて封印された竜の思念。遥か昔「向こうの世界」を脅かし闇に陥れた悪しきものが、「こちらの世界」に追放されたなれの果て。
伝説では一族の英雄、ガラヴァル兄弟が黒き竜の魂をこちらの世界におびき寄せ、空の民の長である聖竜リラントの力を借りて封印したのだという。そして向こうの世界に残された竜の体は、二度と戻れないよう八つに裂きにし、世界のあちこちに葬られた。
その封印された魂が、長い年月をかけて復活し、一人の男に寄生していたのである。
それまで実体のなかった影が竜の姿に見えたとき、都は初めて「契約の力」と「向こうの世界」を意識した。
結局黒き竜の魂を封印することはできなかったが、対峙した竜杜が無事だったことに都は心から安堵した。と、同時に彼と別れたくない、彼が見てきた空を自分もいつか見たい。そう望んでいることに気付いたのだ。
だから改めて竜杜の口から契約して欲しいと言われたとき、
「わたし、竜杜さんと契約します。」と受け入れた。ただし、
「お付き合いからでいいですか?」と付け加えた上で。
こうして始まった二人の関係だが、その先も平坦ではなかった。
最初のハードルは保護者の小暮冴だった。当然といえば当然だが、都が異世界などという訳のわからないものと関わったこと、否、引きずり込まれたことに激怒したのである。最終的に早瀬の同級生であり、数少ない「共犯者」である宮原笙子とその夫、栄一郎の協力もあって二人の関係を認めてくれたが、その時期は都にとってひどく辛いものだった。しかも険悪な状況が引き金となって、母親を亡くしてからずっとくすぶっていたものが一気にあふれ出したのは、篠原明里に話したとおり
けれどそうして思い切り竜杜の腕の中で泣いた日を境に、都は少しずつ外に目を向けるようになった。それまでなんとなく所属していた写真部も友人との関係も、自ら進んで関わるようになったのだ。
ただ肝心の竜杜とは、その後も世界をまたぐほどの超遠距離恋愛。
そもそも竜杜が父親のもとに滞在していたのは、黒き竜の予兆を感じた一族評議会の密命により、その動向を探るためだった。結果として封じることができなかった対策と本来の仕事、それにラグレス家当主という肩書きを放り出すわけにも行かず、行ったり来たりの生活が続いていたのである。
そんなある日、竜杜が予定をすぎても戻らないと聞いた都は、自ら彼に会いに行くことを決意する。
竜杜の従兄であるセルファ・アデルに伴われ、向こうの世界へ足を踏み入れた都が出会ったのは忘れがたい人々と、信じれない冒険。それに「契約」という見えない絆。
それまでもぼんやり感じていたが、こんなに強いものではなかった。
離れているのに、交わす言葉もないのに、それでも互いがすぐ傍らにいるかのような感覚。そして触れ合えば、まるで見えない言葉のように互いを癒す優しい暖かさに包まれる。
その実感は竜杜も同じだったらしい。
直後、彼は正式に早瀬の実家へ逗留することを評議会に上申した。いわく「門番の研修」と称して。
もちろん彼にはその資格があるし、父親になにかあれば竜杜が代わりに門番としての役目を全うしなければならないのは事実。そうして都が卒業するまでを条件に、喫茶店フリューゲルの見習いに入ったのが今年の初夏の頃。今では店の三代目として接客も裏方もこなし、確実に店の戦力になっている。
それに二人で過ごす時間は、「その先」を考える契機になった。
都が契約を受け入れたとき、本来ならすぐに結婚するのが筋にもかかわらず、竜杜は「都がいいと言うまで待つ」と公言していた。それは契約という枷で彼女を繋いだ、せめてもの贖罪。
それに甘んじていることも自覚していたし、だから竜杜との距離が近くなればなるほど、そして早瀬家の歴史を、門番という役割を知れば知るほど、「本当にそれでいいのだろうか?」と自問自答していた。
何より自分はどうしたいのか?
背中を押したのは、同じようなジレンマを抱えていた竜杜からの求婚だった。
その結末は、友人達に報告したとおり。
十八歳の誕生日目前に結納を交わし、正式に婚約と相成ったのである。
今回の帰省はその報告と、都が卒業した後に行う「契約の儀」の手続きを行うため。
都は昨夜、見送りに行ったときのことを思い出す。
明りを落とした閉店後のフリューゲルで、帰省支度をする竜杜の荷物を覗き込む。
「書類、入れたよね?」
「これだけで済むとは思わないが……」
「契約の儀って面倒なんだ。」
「国をまたげばその分、手続きが増える。」
「ごめん。」
門が向こうの世界での機密ゆえ、都の出身も「国交のない辺境の島国」という設定になっているのである。
「都のせいじゃない。それに両親のときは手続きどころじゃなかったから充分マシだと、叔父に言われた。」言いながら竜杜は椅子に腰掛ける。
身をかがめて実用本位のタクティカルブーツの紐をしっかり締めるその横顔を、都はこっそり見つめる。
短めの黒髪に、漆黒色の瞳。整った横顔をこうして見ていられるのは、彼が座っている間だけ。立ち上がってしまえば身長差のある都は見上げることしかできない。
「当面の予定は父親に渡してある。」
「あんまり無理しないでね。」
「安心しろ。無理だと思ったことはない。」
「だから!リュート、向こうに戻ると忙しすぎるんだもん。」
「それだけ雑用が溜まるんだ。」
「そりゃ、リュートはなんでもてきぱきこなすし、丈夫なのもわかってるけど……」
「都こそ、転ばないように。」
「最近、転んでない。っていうか好きで転んでないし、それに今は……守り石あるから……」都は胸元のネックレスに触れる。
銀細工の開きかけの花びらに、緑の小さな石が包まれたそれは、一年前の誕生日に竜杜から贈られたもの。石は竜の鱗の化石で、一族にとってその身を邪悪なものから守ってくれる守り石なのだという。
「それに、コギンもいるから……」
大丈夫、と頷く都に、漆黒色の瞳が優しく微笑む。
竜杜は立ち上がると手を伸ばし、都の華奢な腰を引き寄せた。
「なるべく早く戻る。」
「それは嬉しいけど……でもぜったい!無理しないで。」
返事の代わりにやさしい口づけ。
しばしの別れを惜しむように、顔を見合わせ、笑みを交わす。
それは限りなく優しく、暖かな時間。
その余韻を思い出し、ぼうっとしそうになって慌てて首を振る。
「たった一週間なんだし……」
それに、彼が戻れば向こうの知り合いの近況も聞ける。
マンションのエントランスロックにキィを差し込みながら、都は竜の飛ぶ空に思いを馳せていた。
次回更新四日後です。