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第二十四話

 竜杜(りゅうと)の目に映ったのは、唇を一文字に結んだ恋人の顔だった。

 大声を出したせいか頬が紅潮している。

 手にしたタオルを竜杜にぐいっ、と押し付ける。

「帰る。」

「え?」

 彼女が大声を出すことも人を罵倒することも珍しくて唖然としていた竜杜は、彼その行動で我に返った。

(みやこ)、待て!」

「待たない!リュートなんか知らないっ!」

「都!」

 ずんずん歩く彼女を追いかけて、玄関の手前でようやく捕まえる。

 手首を捕まえられた都は「いやっ!」と抵抗する。

「帰るんだから、離して!」

「離さない!」

「わたしの気持ちなんて、どうでもいいんでしょ!」

「そんなこと言ってないだろう!」

「だったらなんで大切なこと、黙ってるの!」

「言っただろう!それは……」

「わたし、黙っててなんて頼んでない!ちゃんと今起こってること知りたいよ!それにリュートが苦しんでるの見たくない!」

「俺が……苦しんでる?」

「わかるもん。」

 だって……と見上げた瞳が濡れているのを見て、竜杜は思わず掴んでいた手を放した。

「だって……わたしリュートの契約相手だよ。婚約してるんだよ。だから、わかる。」

 都は自由になった手で目元を押さえ、鼻をすする。

「わたし……わたしが感じてるのがリュートの不安かもしれないって気がついてから、ずっと考えてた。どうしたらいいんだろう……って。」

「都は……そのままでいい。」

「いつまで?」

「え?」

「いつまで……リュートの不安な気持ち、知らないふりしてればいいの?一年?十年?それとも一生?」

 竜杜は言葉に詰まる。

 都は目を伏せ、ポツリと言った。

「無理だよ。」

 その言葉が竜杜を動揺させている。それがわかっていても、そのことが心苦しくても、言わずにはいられなかった。

「大事なこと聞かされないままリュートの不安感じて、でも知らんぷりしろなんて……無理だよ。そんなので一緒に暮らす自信ない。結婚なんてできない。」

 ぎゅっと都は掌を握り締めた。

 意を決して顔を上げる。

「リュート……別れよう。」

「はぁ?」

 婚約者の口から出た台詞に、竜杜は目を()いた。

「別れるって……本気で言ってるのか?」

「だって……リュートの不安の原因はわたしを襲った人なんだよ?そのせいで契約して、そのせいでリュートは封印する方法を探してる。だったら、わたしと離れたほうが……」

「別れたらもっと不安になるだろう!」

「わたしリュートのお母さまみたいに強くないもん!黙って待ってるなんてできないよ!」

「母のようにしろなんて、言ってない!」

「じゃあどうしろっていうの?っていうか、そういう言い方ずるい!」

「じゃあどう言えばいいんだ?」

「そんなのわかんないよ!」

「言ってることが支離滅裂だぞ!」

「だから!リュート一人で勝手になんでも決め付けないで!」

 吐き出すような都の言葉に、竜杜はようやく合点する。

 出会ったときから、どこか危なくてほうっておけなかった。引っ込み思案かと思えば場当たりなことをしたり、何かに気をとられて些細な段差を踏み外したり。だからいつも手を差し出し、見守るのが当たり前だと思っていた。

 彼女を襲ったあの男からも。

 プロポーズしたのも、それが安全だと思ったから……もっとも、互いの気持ちに従ったのが一番の理由だったが。

 けれど彼女は気づかぬうちに自分の不安な気持ちを感じ取り、それを受け止めようとしていた。むしろ自分はその状況に甘んじていたということか。

「リュートがいろんなことから守ってくれてるのは知ってる。だけど、わたしもリュートの力になりたいよ!だってリュートはわたしの大切な人だから……わたしの命の半分だから。なのにわたし……何にもできない。わたし、何も聞いちゃいけないの?わたしがリュートの不安の元だから?だったらわたしなんかと契約しちゃいけなかったんだよ!わたしなんて……」

「いい加減にしろ!」

 びくり、と都は震えた。

 決して大きな声ではなかったが、相手を黙らせには十分威圧的な声。

「それ以上自分を卑下(ひげ)したら、俺が怒る。俺の選んだ人は、勇気ある聡明な女性だ。だからあのとき、命を終わらせたくなかった。だから一生を共にしたいと思った。むしろ巻き込んだのは俺だし、都はそれに応えてる。契約しちゃいけないどころか、俺には勿体ないくらいだ。だから……」

 竜杜は都を引き寄せた。

 細い肩を抱きしめる。

「……不安なんだ。」

「えっ?」

 思いもよらぬ言葉に、都は戸惑う。

 大きい掌が、細い髪をくしゃりとなでた。

 そうして広くて暖かい胸に顔を押し付けていると、言いようもなく安心できる。

「夢を見た。」竜杜は言った。

「夢?」

「あのときの……」

「あのとき?」

「都と契約を交わしたとき……」

「契約って……」

「去年の夏。」

 都は驚いて顔を上げる。

 竜杜は恋人の目元を親指で拭うと、そのまま指先を彼女の首筋に滑らせた。

 傷跡一つない白く滑らかな肌。

 けれどあのとき、確かにここに深い傷があったのを覚えている。血が止まらず、冷たくなっていく手を握り締めたことも。

「なんで……今頃?」

「わからない。」

「夢……なんだよね。」

 わかっている。けれど……

「急に怖くなった。」

「どう……して?」

「もし今同じことが起こっても、二度目の契約はありえない。」そのことに気付いたのだと言う。

「でも契約は互いを守るためにあるって!」

「それだって、絶対ではない。」

 特にこの世界で、その効力が弱いのは確かだ。

「何よりあのときと、状況が違いすぎる。」

「状況?」

 何がそんなに違うのだろう、と都は首を傾ける。

 そんな彼女の耳元で低い声が囁く。

「……こんな風に、誰かを好きになるなんて思わなかった。」

 突然の告白。

「そっ、それは……」

 みるみる真っ赤になる都を、竜杜はもう一度抱きしめる。

 命の半分。

 その通りなのかもしれない。

 こうして間近で息遣いを感じ、温もりを享受(きょうじゅ)すればするほど、互いの存在感を、目に見えぬ流れのような繋がりを感じる。何より腕の中に大切なものを抱いている充足感、そしてあるべきところに戻った安心感は何ものにも代え難い。

 ここが……彼女のいる場所が、自分のいるべき場所なのだと実感する。

 栄一郎(えいいちろう)の言葉を思い出す。

(……それって竜杜くんだけが支えるんじゃなく、都ちゃんが支える場合もあるってことだよね)

 今この瞬間なら、その言葉の意味もすんなり理解できる。

 自分もまた、彼女に支えられているのだということを。

「都に出会わなければ、こんなに誰かを大切だと思わなかったはずだ。」

 竜杜の言葉に、都は胸がいっぱいになる。

 それが彼の心からの言葉だから。

 彼女に触れる指先から、その全身から、都を思う気持ちが伝わってくる。

 それは暖かくて優しくて、この上なく幸せな時間。

 彼の言葉が嬉しくて自分の気持ちも言葉にしたいのに、切なさが邪魔をして、今はただ竜杜の胸に顔を埋めるしかできない。

 竜杜の声が続く。

「だから……もし今、都に何かあれば、俺はきっと正気でいられない。」

 一瞬、冷たい何かが足元を駆け抜けた気がした。

 それが彼の不安の元だと、ようやく都は理解する。

 それは漠然としていて、見えるようで見えなくて、そしていつ現れるかわからない澱みのようなもの。

 波多野(はたの)が「わかりにくい」と言ったとおり、竜杜は感情を(あらわ)にすることが少ない。性格もあるのだろう。竜隊という仕事柄もあるかもしれない。それに彼はずっと年上なのだから、と思い込んでいた節もある。

 けれど彼もまた、形のない不安を抱えていたのだ。自分と同じように。

 だたそれが表面に出てこなかっただけ。都にそれを感じさせなかっただけ。

 都は手を伸ばして、広い背中を抱きしめた。

「リュート……わたし……わたしもね、夢を見たの。わたしじゃない誰かだけど、大切な人と門の向こうとこっちで離れ離れになって……会えないのがすごく悲しくて辛くて……それで目が覚めた。それで急に怖くなったけど、夢は夢だって気づいたら安心して……。」

「夢は……夢?」

 だって、と都は漆黒色の瞳を見上げる。

「基本的に夢ってフィクションでしょ?あ、正夢……っていうのもあるけど。」

「まぁ…そう言われれば……」

「だから大丈夫って思ったの。だってそんなことありえないし、登場人物も知らない人たちだし。だから!リュートの夢も、ただの夢。」

 ね、と見上げる笑顔。

 竜杜は一瞬なにか言いかけたが、観念したように「そうだな」と呟いた。

 澱みが少し遠のく。

「それにね、栄一郎さんが言ってたけど、少し緊張感あるほうが、いざとなったら危険回避しやすいって。だから……」

「危険回避?」

 突然出てきた場違いな単語に、竜杜は何か思い出す。

 次の瞬間。

「わぁっ!」

 膝裏をすくわれた都が、声を上げた。

 予期せぬ視線の高さに、慌てて竜杜の首にしがみつく。

 気がつけば婚約者の腕に抱きかかえられ、居間に連れ戻されているところだった。

「な、なんでっ?」

「膝のケガ!危険回避できなくて転んだんだろう。」

「ああ……ええとそれは……」自分ですら忘れていた事実に、都は慌てる。

「っていうか、それ波多野くん情報?それとも栄一郎さん?」

「両方。」

「二人とも?じゃなくて!そんなに痛くないし、自分で歩けるし……」

「ダメだ。」

「だから勝手に決めないで!」

「これは契約相手としての義務。ああ、でも都は俺と別れたいんだったな。」

「あれはそういう意味じゃなくて!」

「じゃあ、どうする?」

「わかってるくせに!」

 もちろん、わかっている。

 互いに離れられないことを。

 今も。

 そしてこれからも。

「なら契約相手として義務を果たしても問題ないな。傷跡、残したくないだろう。」

「そんなにひどく転んでない。」

「転んでる時点で問題だ。」

「だからそれはリュートが……」

 言葉が遮られる。

 唇に触れる、軽いキス。

 不意打ちに、都は「もう」と頬を膨らませる。

「そういうの……ずるい……」

 言いながらも、きゅっと竜杜の首にしがみつく。

 顔を見合わせ、ため息のような笑みを交わす。

 そしてもう一度。

 目を閉じて、唇を重ねた。 

気がついたら10万文字越えてました。量の多い文章にも関わらず、読んでくださってありがとうございます。

そして次回は、来週木曜日の更新です。

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