第二十三話
シャワーからほとばしる湯に、都はホッと息をつく。
まとわりつく汗を、夢の中で見た闇を払拭したくて丁寧に浴びる。
バスルームを出ると、タオルだけ巻いて脱いだ制服を抱えて自分の部屋に駆け込んだ。私服に着替え髪を乾かし、最後に机の上の小物入れから華奢なネックレスを取り出す。留め金をはめ、その先についた銀細工の花にくるまれた小さな緑の石に触れると、ようやく安心する。
ベッドに腰かけると、すぐにコギンが膝の上に飛んできた。
見上げる金色の瞳に「もう大丈夫」と言い聞かせる。
「でも……なんであんな夢見たんだろう。」
そういえば、以前見た夢にも銀竜が出てきた。ということは、向こうの世界と関係あるのだろうか?夢の中で叫ぶ相手の名前がわかれば、手がかりになるのだろうか?
そんなことを考えて、ふと我に返る
自分は向こうの世界のことを詳しく知らない。
知ろうとして、文字の勉強をしている最中なのだ。だから仮に夢で向こうの世界が出てきたとしても、それが本当に正しい情報かわからない。
「それに夢って……フィクションだよね……」
呟き、枕元に置きっぱなしの本を引き寄せる。
白黒の挿絵だけ見ればヨーロッパの神話集のようにも見えるが、中を開けば並んでいるのはこの世に存在しない文字。
一番最後の見返しを開き、インクで書かれた手書きの文字に触れる。都にこの本をくれたガッセンディーアの司教、マーギスが書いただろう文字を。
そもそもこの本は、幼い姪に贈るつもりで渡し損ねたものだと、マーギスは言っていた。
「マーギスさまの親戚……かぁ。」
もう十年以上、南に帰っていないと聞く。そう思うと、竜杜や早瀬が門を通って頻繁に帰るのは、むしろ珍しいのかもしれない。
でも、もし門が何らかの理由で閉ざされたら?そしてそのとき、竜杜が向こうに行っていたら?
ふいに、夢の中の光景が蘇る。
都はハッと顔を上げた。
もちろん今まで考えなかったわけではない。
けれど自分が向こうの世界に足を踏み入れ繋がりができたことで、「そんなことありえない」と思い込んでいた。
「でも……そんなの理由にならない、よね?」
不意に湧き上がる不安。
きゅ?と首をかしげるコギンをまじまじと見つめる。
もし離れ離れになってしまったら、互いの消息を知るのは銀竜を使って声のやり取りをするしかない。もしもそんなことになったら、きっと自分は一日千秋の思いで小さな白い竜が声を届けてくれるのを待ち続けるに違いない。でも……
「そんなの……やだっ!」
声に出して言ってから、反射的に立ち上がる。
クローゼットからカメラバッグを出すと、必要な物を放り込む。家の中を慌しく駆け回り戸締りをすると、ぱたぱた飛んでいるコギンに向かって言った。
「早瀬さん家に……フェスに会いに行こう!」
「ここも気配なし……か。」
十台ほどの車が並ぶ駐車場を一巡した竜杜は、息をついて空を仰いだ。
栄一郎と別れて足を向けたのは、自宅近くに点在する早瀬家所有の駐車場。その中にはフェンスの壊された件の場所もあり、改めてその場に立った竜杜はあることに思い至る。
すなわち、フェンスを捻じ曲げたのは“黒き竜を宿した男”ではないだろうか、と。
それは栄一郎が見せた画像がきっかけだった。
携帯の小さな画面に写るのは、商店街に佇む一人の男。
帽子を目深にかぶっているので表情はわからないが、一見してごく普通にその辺を歩いている今時の若い男に……見えた。
「店の看板撮る振りして撮影したから、人物が小さくて申し訳ないんだけど……」
栄一郎に言われて画面を凝視した竜杜は眉を寄せた。
「この男……いや……だけど雰囲気が違う?」
「最初に気づいたのは、都ちゃん家の帰り。あのマンションの近くのコインパーキングで車のミラー越しに気づいたんだ。」
「最初ということは……」
「その次はフリューゲル手伝った……ほら、竜杜くんが初めてコーヒー担当になった日。都ちゃんをポーチまで送ったとき、目に留まったんだ。」
竜杜はもう一度画面を見る。
服装も髪の色もまるで違うが、背格好は確かに黒き竜を宿した男に似ている。もっと特徴がないかと探すが、小さな画像ではそれ以上把握できない。
「これ……隣駅ですよね?」
駅前のスーパーが点在するエリアは、都が通学で通る場所でもある。
「昨日の午前中、買い物に行ったとき気がついて。もちろん、たまたま目に留まっただけかもしれないけど、二十歳くらいの男子がそんな時間にいる場所でもなかったから撮ったんだ。やっぱり例の因縁相手?」
「可能性は否定できません。だけどそんな気配、一度も感じなかった。」
にも関わらず、彼は自分の周りに出没していたのだろうか。
しかも……
「栄一郎さんに探りを入れてた?」
「まるで探偵だね。」
「そんな悠長な……」
呆れる竜杜を、栄一郎は「まぁまぁ」と制する。
「こんなに普通の格好して目立たないってことは、人目のあるところで何かするつもりないんじゃないかな。彼が殺意なり悪意を持てば、竜杜くん言うところの“気配”を感じるはずだよね?それを感じさせないってことは……」
「観察してるだけ?でもどうやって気配を消してるんだ?」
「思うんだけど、一つの身体に本人と別の魂が入り込んだら、記憶とか経験値も二人分……この場合一人と一匹分になるはず。それをほうっておいたら、きっと相当混乱すると思うんだ。スイッチのオンオフみたいに切り替えるほうが、当人達も楽じゃないかな。」
「つまり、今は器になってる人間本来の理性が勝ってる?」
「素人考えだけど。」
栄一郎は謙遜するが、あながち外れてないような気がする。
「これ、印刷できますか?」
「できるだけ拡大してみるよ。」
栄一郎にも充分気をつけるようにと言って別れると、その足で竜杜は壊されたフェンスがある駐車場に向かったのである。
曲がった支柱に触れ、そして改めてこれは“黒き竜を宿した男”の警告なのではないだろうかと思う。
けれどそのときも、その後他の駐車場を見回ったときも、不穏な気配はまったく感じなかった。
「こうなると……感覚よりフェスの眼を借りたほうがいいな。」
時間と共に雲の厚くなってきた空を見上げる。
ひとまず今日の探索は切り上げようと歩きかけ、思い直して駐車場の傍らにある小さな祠に向かった。小さい頃、散歩中の祖父の見よう見まねをしたことを思い出しながら、手を合わせる。
と。
ポツリ、と冷たいものが額に触れた。
「そういや降水確率高かったか。今日はもう……無理だな。」
雨の中でもフェスは飛ぶことをいとわないが、できれば視界のいいときを選びたい。
そんなことを考え帰路に着いたそのとき。
足を止めた。
「都?」
呟き、走り出す。
その間にも雨は強くなり、家のすぐ前で本降りとなった。
息を切らして玄関先に飛び込む。
先に軒下で立ちすくんでいた少女が「わわっ!」と声を上げた。
「えと……」
竜杜を見上げ、戸惑い、そして言う。
「お帰りなさい……だよね?」
「傘、持ってこなかったのか?」
脱いだ上着をその辺に放り出し、竜杜はエアコンのリモコンを探す。
「慌てて出てきたから……」
「コギンがいるならフェスを呼べばよかっただろう。」
家の中から錠を開けるくらい、銀竜にとって造作もない。
「だって……勝手に上がるの悪いと思ったし……」
竜杜はフェスが持ってきたリモコンを受け取ると、スイッチを入れリビングを出て行く。
用を終えたフェスが、カメラバッグから這い出したコギンの傍らに降りた。二匹の銀竜は会話をするように喉の奥を鳴らしあう。
その光景も見るのも、こうやって早瀬家の母屋にいるのも、それに竜杜と直に言葉を交わすのもひどく久しぶりだ。会えば感動するかと思いきや、あまりにあっけなくて都は拍子抜けする。
竜杜が戻ってきて、手にしたタオルを都の頭にふわりとかけた。
「そんなに濡れてない……」
「風邪引いたらどうする。」
タオル越しに大きな手でくしゃりとなでられて、都は肩を竦める。
「なにか暖かいもの淹れるから待ってろ。ミルクティーかカフェオレか……」
「あ、あのね、リュート……」
「と、そういえば冴さんにはここに来ること言ってあるのか?」
「今日……日帰り出張で遅いから……」
「なら後で送っていくときに……」
「一人で帰れる……」
「ダメだ!」
間髪いれず返ってきた厳しい口調に、都は目を丸くする。
「近頃この辺が物騒だって話……大地から聞いてるだろう?」
「駐車場のフェンスが壊されたのは聞いてる。」
「だから、だ。帰りは送って行く。」
もちろん送ってもらうのは珍しいことではない。けれど竜杜の言葉は、どこか言い訳めいて聞こえた。
都はきゅっとタオルを掴むと、
「それだけじゃ……ないよね?」
「何がだ?」
「リュートの不安の元。」
「不安の……元?」
都は頷く。
「たぶん……リュートが戻ってからずっと。わたしは普通なのに、気持ちだけが落ち着かないの。それが何なのかわかんなくて……そうしたら波多野くんがリュートも不調っぽいって……」
「大地の奴、何を……」
「波多野くん、リュートのこと心配してるんだよ!それにわたしだって……それ聞いて、もしかしたら落ち着かないのは契約の力なのかも、リュートの不安なのかもって思って……」
都の告白に、竜杜は大きく息をついた。
「感じてたのか……」
「じゃあやっぱり、あれ……リュートの不安?」
「不安というか……慣れない事やったり、急に父親が向こうに行くと言い出したから……」
「慣れないって、コーヒー淹れること?でもお店にいるとき全然感じなかったよ。」
そこまで言って都は「もしかして……」と呟く。
「あの人が何かした、とか?」
「あの……人?」
「黒き竜と同居してる人。」
竜杜がハッとなる。
「会ったのか?」
「よく……わかんない……」
「わからないって……」
「だって一瞬の気配だったし……姿見えなかったし……」
「いつ?」
「リュートが向こうに帰ってるとき。」
「なんで言わなかった?」
「学校の友達もいたし……何もなかったし……」
「そういう問題じゃないだろう!」
竜杜の険しい口調に、都は確信した。
「やっぱり……リュートもあの人に会ってる?」
ああ、とリュートは認めた。
「俺も直接見たわけじゃなく、気配だけ感じた。」
しかもそれが二ヶ月以上前のことだと聞いて、都は愕然とした。
「そんな前?っていうか聞いてないよ!」
「言うわけないだろう。」
「わたしだって関係者だよ!」
「言ってまた発作でも起こしたらどうする?」
「あれはリュートのこと冴さんに反対されたストレスだって、笙子先生言ってたもん!」
「奴だってストレスの一因だ。」
「全然違う!」
「何か起きてからじゃ遅い。」
「そんなの聞いてみないとわかんないよ!」
平行線の会話が続く。
「だから……」
とうとう都が痺れを切らした。
「っ……リュートの馬鹿っ!」
発作云々の話は2作目をご参照ください。
ということで、次の更新は来週木曜日です。




