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第二十二話

「本当にごめん!」

「もう、いいですよ。」

 頭を下げる栄一郎(えいいちろう)に、竜杜(りゅうと)は今日、何度目かの台詞を言う。

笙子(しょうこ)先生に付き合ったのは俺の責任です。これ以上栄一郎さんに頭下げられたら、こっちの立場がなくなる。それに昨日は(みやこ)が世話になったみたいだし……」

 その話を聞いたのは今朝のランニング中。途中で合流した波多野(はたの)がもたらした情報だった。

「てっきり木島から聞いてると思ったんだけど……」

 驚く波多野に「昨日は夜中まで宮原医院の小児科医に捕まっていた」と説明すると、あっさり納得された。

「笙子先生、酒好きだもんなー。」

 実際、宵の口から夜中まで延々付き合わされたのには閉口した。しかも栄一郎が笙子を強制的に迎えに来なかったら、明け方までつき合わされていたかもしれない。それがろくでもない結果をもたらすのは目に見えていたので、むしろ栄一郎には感謝していると言ったのだが……

「うちの奥さんのせいで都ちゃんと会う時間が取れなかったんだよ。謝っても謝り切れない。」と、譲らなかった。

「とにかく、笙子さんには二人の邪魔しないように念押ししておいたから。」

 繁華街にあるチェーンのコーヒーショップで顔を合わせた栄一郎は、いつになく厳しい表情で言った。

「竜杜くんが家のことで大変なの、笙子さんもわかってるはずなんだけど……」

 ぼやく栄一郎に、竜杜はフェンス破損事件は警察に任せたと説明する。それに銀竜(ぎんりゅう)を通して返ってきた父親の反応は、さほど驚いた風でなかった。そういうトラブルが近隣で話題になっていたこともあり、むしろ「利用者に被害がなくてよかった」とホッとした様子だった。

「それに今回の件は近所も親身になってくれたので、逆に申し訳ないくらいです。」

 竜杜の言葉に栄一郎は嬉しそうに微笑む。

「竜杜くんも跡継ぎらしくなったよね。こっちで暮らし始めた頃は、ご近所さんどころじゃなかったみたいだし。」

 竜杜も思い出し苦笑する。

「けっきょく何年経とうと俺は“早瀬さん()の竜杜くん”で、それがわかったら気楽になった反面、下手な悪さはできないと実感しました。そういえば栄一郎さんは俺の仕事、最初から知ってましたよね。」

「笙子さんから“早瀬くん家の竜杜くん”の話は聞いてたし、直前に早瀬さんから生活面で何か困ってたらサポートしてほしいって言われたんだ。今だから言えるけど、早瀬さん、竜杜くんが来るって決まったとき渋ってたんだよね。」

「え?」

「もちろん上の命令だから取り消しできないけど、そんな役目を竜杜くんに負わせる義務はない。そのために自分が門番としてここにいるのに、って笙子さんに愚痴ったらしいよ。」

 初めて聞く話だった。

「でも結果として……もちろん都ちゃんのこともあるけど、竜杜くんが店に入って嬉しかったんじゃないかな。だってずっと一人でがんばってきたんだもん。それに常連としては、後継者がいると思うと安心できるし……と、これはまだわかんない話だったね。」

 いえ、と竜杜は首を振る。

「俺もできればそうしたいと、思ってます。」

「それで、ぼくに聞きたいことがあったんだよね?」

 そのためにわざわざ待ち合わせをしたのだ。

「簡単な確認です。笙子先生に母親のこと話したのは栄一郎さんですよね。」

「うん。早瀬さんから竜杜くんが戻るの遅れるって聞いたとき、笙子さん学会で不在だったんだ。その後ぼくも急ぎの仕事が入って……だから話したのは竜杜くんが帰って来た日になるのか……」

「そのとき笙子先生何か言ってました?」

「文句言われたよ。エミリアさんが具合悪いなら、もっと早く言うべきだろうって。」

「やっぱり……」

「やっぱり?」

「昨日やけに母のことを聞かれたから。父さんが向こうに戻ったのも、ひどく具合が悪いからじゃないかと勘ぐられた。」

「勘ぐるなんて……笙子さんらしくないな。」

「確かにあんな風に母が倒れることは今までなかったし、叔母が飛んできた事にも驚いたが……」

 二人きりの姉妹で心配だったのだろうが、あまりにも大仰な看護に付き合わされ辟易(へきえき)したのは記憶に新しい。

「そんなに具合悪かったの?」

「医者は疲れが溜まっただけだろうと。」

「納得してないみたいだね。」

「家の人間に言わせるとそんな予兆もなかったらしいので。それに昨日の笙子先生の様子を見ると、昔、同じようなことがあったんじゃないかとも思うし……そういう話を、笙子先生から聞いてませんか?」

 栄一郎は首を振る。

「エミリアさんと友達だっていうのしか……それ以上のことは全然。それより早瀬さんはなんて?」

「本人が大丈夫と言うなら大丈夫だろう、と。」

 ははぁ、と栄一郎は納得する。

「早瀬さんはエミリアさんを信用してるんだね。」

「そうじゃなければ、こんなに長く離れて暮らせないでしょう。」

「そんなに離れてるのが辛いんだ。契約って。」

「普通に考えれば不自然なことですから。」

「それ、竜杜くんと都ちゃんにも当てはまる?」

 突然矛先が自分に向いて、竜杜は言葉に詰まる。

「竜杜くん、都ちゃんの気配はわかるんだよね。」

 竜杜は頷く。

「それよりもっと踏み込んだ……えーと、感情とかメンタルの起伏も感じるのかな?」

「向こうの世界にいるときほど強くないが、大きな起伏があればわかる……か。」

「それ、都ちゃんも感じてる?」

「そういう話は聞いてないが……」

「昨日都ちゃん“わたしは大丈夫”って言ったんだよね。その意味がわかんなくて……でも今の話聞いてると、竜杜くんのメンタルに同調したような気もするんだよね。」

「ありえないことじゃない。他にも何か言ってましたか?」

「質問された。笙子さんも落ち込むときあるのか、って。」

 赤信号を待つ間、栄一郎は言葉を選びながら助手席の都に言った。

「そりゃあ笙子さん、ああいう仕事だからね。ただ個人のプライバシーに関わることが多いから自分からは話さないよ。」

「それでも栄一郎さん、わかるんですか?」

「一緒に暮らしてるからね。」

「そういうとき、どうするんですか。」

「基本ほっとく。もちろん陰ながら笙子さんの好きなおかず作ったり、気が済むまでなにかできるようサポートするけど……気づいてるかどうかは不明。」

「それで解決するんですか?」

「たぶん。解決するのは笙子さん自身だから。もちろん愚痴を言うこともあるけど、そういうときはほとぼりが冷めてるかな。冴さんはそういうの、ないの?」

「最初から言いたいこと言って、ビール飲んでおしまい。」

 らしいね、と栄一郎は笑う。

「お母さんが生きてたとき、何日も持ち越さない。でも一日だけ、言いたいこと言ってよし……っていう約束だったみたい。」

「共同生活を続けるルールだったんだね。ぼくは……ぼくも笙子さんも一人暮らしが長かったから、結婚してしばらくはタイミングの取り方わかんなかったな。笙子さんが急に拗ねたり甘えたりして、どうしようって思うこともあったから。」

 そんな会話をしたと話す栄一郎を、竜杜は信じられない面持ちで見た。

「甘える?あの人が?」

「だから、ぼくにとって笙子さんはライオンじゃなくて猫なんだって。」

「どう考えても猫に見えないぞ。それに……都には悟られないようにしてたんだが……」

 今の話だと、自分の気持ちの揺らぎに気づいていたということか。

 考え込む竜杜に栄一郎は首をかしげる。

「悟られないようにする必要、ある?」

「え?」

「もちろん竜杜くんは年上だけど、そこまで都ちゃんに遠慮する必要あるのかな。そもそも竜杜くんたちの繋がりって、互いを支え合うためなんだよね?それって竜杜くんだけが支えるんじゃなく、都ちゃんが支える場合もあるってことでしょ。」

「それはそうかもしれないが……」

「ぼくも笙子さんより年下だけど、笙子さんがそのことでぼくに変な気を遣ってるとは思わない。もちろん考え方の男女差はあるかもしれないけど夫婦に上下関係はないと思うし、一緒に暮らすってそういうことじゃないかな。竜杜くんたちはこれからだけど。」

 返す言葉がなかった。

「都ちゃんは勘がいいから、竜杜くんのそういう気持ちを敏感に感じ取ってるような気がするんだ。」そこまで言って照れたように頭を掻く。

「ちょっと偉そうだったね。」

 いえ、と竜杜は首を振る。

「栄一郎さんが言うと、実感します。」

「そんなこと……と、そうだ!」

 栄一郎は携帯を取り出すと、手際よくキィを操作する。

「ぼくも竜杜くんに聞きたいことがあるんだ。」

 そう言って画面を竜杜に向けた。


「ただいまぁ……」

 どんよりした空気をまとったまま、都は自分の部屋に直行する。

 コギンの頭をなでると、カバンをその辺に置いて制服のままベッドに転がった。

 ポケットから携帯を取り出し、昨夜届いた栄一郎からのメールを開く。

 そこに並ぶのは「ごめん」の文字。

 少し時間を置いて届いたもう一通のメールには、宮原笙子が竜杜を連れ出し酒につき合わせた経緯と、貴重な時間を邪魔した謝罪が書かれていた。その時点で竜杜に連絡することは諦めたが、けっきょく気持ちが落ち着かなくて、夕べは浅い眠りしか得られなかった。

 結果、授業中も欠伸をかみしめ、そしてクラスメイトには昨日の怪我を心配され、気分は滅入る一方。仲の良い友人たちも都の不調を察したのか、今日は体調を気遣う言葉しかかけてこなかった。

 はぁ、と大きなため息。

「会いたいけど……」

 ここまで落ち込むと、どんな顔で会えばいいのかわからない。

 こてん、と転がり、床の上で遊んでいるコギンを眺める。

 コギンは鍵爪を器用に使って絵葉書を並べていた。その上をパタパタ飛んで写真を眺め、満足するとまた別の絵葉書を並べる。

「お母さん、いろんなとこ行ってたんだな。」

 コギンが並べているのは、母親が主に仕事先から都に宛てて送ったものである。

 誕生日デートで竜杜と海を見に行ったあと、留守番していたコギンに海を説明する写真を探したのをきっかけに、久しぶりに引っ張り出したのだ。その雑多な匂いに狂喜したコギンは、以来、飽きることなく箱ごと出しては眺めているらしい。 

 コギンが一枚の絵葉書を手にして飛んできた。

 写真は白い砂浜が続く海岸線。

「コギンも海、見たいよね。」

 車の免許があれば一緒に行かれるのかな……などと考えながら絵葉書を裏返す。

 そこに書かれた宛名は「木島都」。そして差出人は「母より」。懐かしい少し癖のある文字を指でなぞる。

「これ……インクで書いてある。万年筆かな?」

 都はペンケースに入っているお守り代わりの古い万年筆を思い出す。

 そこに書かれているのは、運動会で派手に転んで落ち込む都への励ましのエール。

「結果はどうあれ、忘れられない運動会だったよね」

 そのポジティブな書きかたがいかにも母親らしくて、都はくすっと笑う。

「なんか……昔も今も変わってないんだな。わたし……」

 読みながら大きな欠伸(あくび)に見舞われる。

 少しだけ……と言い訳をして目を閉じた。


 波の音が聞こえる。

 けれど辺りは真っ暗で、どこを歩いているのかわからない。

 それはまるで、今の自分の心の中のよう。

 月も星も出ていない空を見上げ、ありったけの声で叫ぶ。

(お願い!声を聞かせて!)

 けれど声は闇の中遠く吸い込まれ、返事も聞こえない。

 絶え間なく寄せる波のように、心の中に不安が押し寄せる。

(どうして、応えてくれないの?)

 胸がひどく苦しくて、その場に崩れるようにしゃがみこむ。

 心は繋がっているはずなのに、苦しみを分かち合うことができない。 

 こんな状態がこの先もずっと続くのだろうか?

(そんなの……)

「やだっ!」

 自分の叫び声に、都は飛び起きた。

 驚いたコギンが傍らに舞い降りる。

 肩で息をしながら周りを見回す。

 そこにあるのは闇でなく、冬の夕暮れを告げる薄明かり。

 指先に触れた携帯を引き寄る。液晶表示された時刻を見ると、先ほどから三十分しか経っていない。

 こくり、と唾を呑みこむ。

 額に触れると……額のみならず背中もじっとり汗ばんでいた。

 コギンが不安そうに都を覗き込む。

 その滑らかな背に触れて、ようやく自分が現実世界にいることを認識する。

「なんて夢……見たんだろう……」

お待たせしましたの、更新です。

ちょっと解説すると・・・笙子が「ライオンではなく猫」というのは第四作目「ハザクラ咲くころ」に収録の「バー・インヴァネス」に由来してます。

そして次回は一週間後の木曜日に更新します。

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