第十八話
「なんて格好してるんだい。」
欠伸をしながら居間に入ってきた息子に、早瀬は眉をしかめた。
「エミリアが見たら、間違いなく何か言うだろうね。」
「その母さんのおかげで、偉い目に会ったんだ。」
「エミリアじゃなくてシーリアのおかげ、だろう。」
「セルファから連絡が行ってるなら、大目に見るのが親心だろう。」
竜杜は冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出すと、食器棚から染付けの蕎麦猪口を出して注ぐ。鴨居に止まっていたフェスが飛んできて蕎麦猪口に顔を突っ込むのを見ると、自分はボトルから直飲みした。
一息ついたところで、竜杜は父親がすでに仕事用の服装なのに気付く。
壁にかかっている時計を見て、指折り数え、
「十二時間も寝てたのか。」
「親心で起こさないでおいたんだが……それは大目に見るうちに入らないのかな?」
竜杜が門を通って早瀬の家に戻ったのは昨日の宵の口。
叔母シーリアの過剰なまでの悲嘆ぶり献身ぶりにつき合わされ、自宅にいながらまったく身動き取れない状況に陥っていたのだ。最終的にエミリアが「もう大丈夫」と床上げして収まったものの、疲労困憊だった。
そんな竜杜にエミリアもさすがに悪いと思ったらしい。
「シーリアも悪気があるわけではないのよ。あの子は昔から心配性だから……」
「わかってる。」
「でも今回はあなたとミヤコに、迷惑をかけてしまったわね。」
膝の上にカルルを抱いた母親がいつもより頼りなげに見えたのは、病み上がりのせいか。それとも長い黒髪を下ろしていたせいか。
「それより俺が向こうに戻って、本当に大丈夫なのか?」
「言ったでしょう。あなたたちのことが決まって気が緩んだだけ。」
「けど……」
言いよどむ息子にエミリアは言い放つ。
「あなたがいつまでも戻らなければミヤコが不安になります。また彼女が勝手に来て、何かに巻き込まれたらどうするんです。」
「どうして何かに巻き込まれる前提なんだ?」
「いいから早く帰ってあげなさい。それにあなただって、何かを感じている頃でしょう。」
「それは……」
「遠距離恋愛経験者の言うことは聞くものです。」
「遠距離……って……」
エミリアはにっこり微笑む。
「そういう言葉を使うと、ミヤコが教えてくれました。」
そう母の様子を報告すると、早瀬は「なるほどなぁ」と感心した。
「エミリアにとっても、都ちゃんは良い刺激になっているということか。」
「そこで感心するか?」
「それで実際、竜杜は何かを感じたのかい?」
「はっきり感じたわけじゃない。」
ただ、漠然とした頼りなさが付きまとっていた。それはいつも心のどこかにあって、足りない何かを無意識に探していたような気がする。
「今は?」
「落ち着いてる。それにこっちだと感覚が鈍るというか……」
「大気が違うから仕方ない。」
「父さんも……そういう感覚があるのか?」
そりゃあね、と早瀬は笑う。
「じゃあ夢を見ることは?」
「夢?」
「その……母さんの出てくる……」
「エミリアなら、しょっちゅう夢に出てくるよ。小さい頃のお前も時々出てくる。あれは……」
「だから……そういう話はしなくていい。」
聞くんじゃなかった、と竜杜は額を押さえる。
「まぁでも、今回は竜杜がいてくれてよかった。もちろんイーサやビッドもいるが、状況がわからないほど不安なことはないからね。」
その後、各方面から言付かった連絡を伝えると、ここ数日の疲れと相まって急に眠気に襲われた。竜杜はフェスと荷物を父親に押し付けると、服を脱ぐのももどかしく、ベッドに倒れこんだのである。目が覚めて、その辺にあったものを引っ掛けて起きてきたのだが……
「とりあえず風呂入って髭剃っといで。疲れてるところ悪いが、今日は店に出てもらうよ。」
「それは構わないが……」
「それと明日の定休日と合わせて三日ほど臨時休業にする。その間僕は出かけるから、留守番を頼む。」
「急だな。」
「うん。土曜までには戻るつもりだが、場合によっては間に合わないかもしれない。」
「土曜日……」外し忘れたままの腕時計に目を走らせてから、壁にかかったカレンダーを確認する。
「土曜日は休日か。だとしたら、店は開けたほうがいいんだよな。」
「できるかい?」
「え?」
言われた意味がわからず、竜杜は目をぱちくりさせる。
「誰かに手伝いを頼むとしても、肝心の部分はお前がやるしかないだろう。それともまだ、不安かい?」
いや、と竜杜は首を振る。
「やれ、と言われればやる。」
うん、と早瀬も満足そうに頷く。
「けど夕べはそんな話もなかったのに。」
「夕べの話を聞いて、ちょっと家の様子を覗いてこようと思ってね。」
「家?」
「ラグレスの家だよ。」
「は?」
「それに言ってたじゃないか。ケイリーの息子からも長老の見舞いを催促されたって。」
「言ったが、年末年始以外は戻らないんじゃ……」
「それは一人で店を切り盛りしてたから。だけど今回は竜杜がいる。墓参りにもいい季節だし。」
「墓参り?」
「スウェン・オーロフの墓参りも行こうと思ってるんだ。セルファには連絡して、今夜ルーラと一緒に迎えに来てもらう。留守の間のことは店で話す。おっと、もうこんな時間か。」
店を開けてるよ、と言って早瀬は母屋を出て行く。
残された竜杜は呆然とその場に立ち尽した。
今までてこでも動かなかった父親が、いともあっさり向こうに行くと言う。
「何が……どうなってるんだ?」
カバンを抱えて、都は商店街を急いだ。
古い鉄の門扉をくぐり、石を置いたアプローチを進む。玄関ポーチを数段上り、無垢板の扉を力いっぱい開く。
ちりん、とドアベルが鳴った。
「すみません。いま満席……」
出迎えた人物に都は「えっ?」と目を丸くした。
「え、栄一郎さん?」
「ああ、都ちゃん。」
宮原栄一郎はホッとしたように微笑んだ。
「もしかして、冴さんから連絡が行った?」
こくんと都は頷く。
竜杜が戻ることは、フェス経由のメッセージで本人から聞いていた。けれどさすがに昨日の今日は遠慮しておこうと思った矢先、冴から竜杜が店に出ているとメールが入ったのである。駆けつけて、まさか栄一郎の出迎えを受けるとは思わなかった。しかもジーンズの上にエプロンをかけた格好は、まるでバイトの学生のようである。
「栄一郎さん……何やってるんですか?」
「臨時の手伝い。ランチに来たんだけど二人とも忙しそうで、なのに今日に限ってお客さんが切れないもんだからそのまま……」
言われて見れば、さほど広くない店内はカウンターまで満席である。
「平日に混んでるの、珍しい……」
「忙しい理由はそれだけじゃないんだけど……」栄一郎はカウンターを振り返る。
目を向けると、ワイシャツにネクタイそれに黒のエプロンをつけた仕事着の竜杜が見えた。カウンターの中にいる彼は一心に手元に集中していて、その真剣な表情に都はいつもと違う雰囲気を感じ取る。
「もしかして……リュートがコーヒー淹れてる?」
「うん。早瀬さんの代理ができるように、実践なんだって。」
傍らには、腕組みをして竜杜の手元を見つめる早瀬の姿。時折、竜杜に何か言葉をかけている。
そうやって並んでいると、やはり二人は親子なのだと実感する。なにより竜杜がコーヒーを淹れる手つきは早瀬の所作とよく似ている。
「都ちゃん?」
「あ、えと……」
都は慌てて栄一郎に向き直る。
「今日は帰ります。リュートが戻ってきたの確認できたし……」
「伝えておくことは?」
都は首を振る。
「それは……直接言いたいから……」
そう言う都に、栄一郎も「そうだね」と同意する。
アプローチまで見送りに出てくれた栄一郎にぺこんと頭を下げると、都は門扉をくぐって商店街に引き返した。
その後ろで、栄一郎が思案するように首をかしげていることには、当然気付いていない。
足の向くまま歩いてたどり着いたのは、駅の反対側にある図書館前の広場。
見上げれば、夏にあれほど茂っていた木は葉を落とし、まだ落ちていない葉も強い風が吹けば全部落ちてしまいそう。
都はベンチに腰を下ろした。
ほーっと息を吐き出し思い浮かべるのは、先ほど見た婚約者の姿。
あのとき。真剣にコーヒーを淹れる彼の姿に見とれてしまった。今も戸惑いながら、熱を帯びた頬を両手で包む。
プライベートでは何度もコーヒーを淹れてもらっているのに。
フリューゲルで仕事をする姿も、飽きるほど見ているのに。
何より婚約までしている相手なのに。
……ドキドキが止まらない。
二週間ぶりに会ったせいなのか、それとも今まで見たことのない表情を見たせいか。
それは見習い店員でも、竜を繰る者でもない。店を切り盛りするフリューゲル三代目の表情。
「リュートって……指、綺麗なんだ……」
コーヒーを淹れる仕草を思い出し、今更そんなことに気づく自分が情けなくなる。
「落ち着け、自分。」都は掌で頬をぱしぱし叩く。
でも……と顔を上げる。
「元気そうで良かった……」呟き、しばしの間クールダウン。
と、ポケットが震えた。
うわっ!と声を上げて携帯を引っ張り出す。
発信相手の表示にドキリとする。
「はい……」
一瞬の沈黙。
「……リュート?」
「ああ。」
”お店、いいの?”
「ようやく人が切れたから、休憩。今、大丈夫か?」
”うん。今、図書館の外だから……”
「そうか。さっきは済まなかった。」
”栄一郎さんに聞いたの?”
「いつも言ってるだろう、都の気配はすぐわかる。」
”気がついてたんだ”
フェスが飛んできて受話器に向かって「くぅ」と鳴く。
”もしかして母屋にいるの?”
「ああ、フェスも都に会いたかったらしい」
”コギンもフェスに会いたがってるよ。それより、リュートがコーヒー淹れてるからびっくりしちゃった”
「俺も驚いてる。」
”でも、どうして?”
「そのことなんだが……」
竜杜は手短に父親の帰省を説明した。
「今夜セルファが迎えに来る。それを送り出すまで、時間が取れそうにないんだ。」
”そっか……”
「済まない」
”んーん。リュートがこっちにいてくれるだけで、安心できるから。”
「都……その……」
”なに?”
「いや……なんでもない。そろそろ店に戻る。」
”あ、と……”
「どうした?」
忘れるところだった、と呟く声。そして、
”お帰りなさい”
竜杜の表情がほころぶ。そして言った。
「ただいま。」
次回の更新は木曜日です。




