表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/40

第十六話

 目が覚めた。

 反射的に半身を起こし、辺りを見回す。

 薄暗がりの中に見えるのは、乱雑なままの机と本の山。

 幼い頃から使っている、書斎を兼ねた自室の光景だ。

「夢……」

 リュートは深く息を吐き出した。

 それでもまだ、心臓の鼓動が収まらない。 

 それに汗ばんでいるのは今見た夢のせいか。

 微かに震える手をぎゅっと握りしめる。

 脳裏に蘇るのは地面に横たわる一人の少女。

 駆け寄り、その名を必死で呼ぶ。

 それは大切な人と契約を交わしたときの、忌まわしい記憶。

 鮮やかな血の色も冷たい手の感触も、あのときと同じだった。

「どうして……今頃……」

 呟き、ハッとなる。

「フェス!」

 リュートは足元で主人の様子を伺っている銀竜(ぎんりゅう)を呼んだ。

 フェスはすぐさまリュートの傍らに飛んでくる。

(みやこ)から……いや、父さんから何か連絡は?」

 ぐ、と銀竜の喉が鳴る。

「何もないか……」

 思惑が外れてホッとする。

 それに冷静に考えれば、彼女に一大事があれば夢より先に自分に変調があるはず。

「フェス……都の声まだ持ってるか?」

 フェスは金色の瞳を閉じた。

 聞こえるのは、母をねぎらう婚約者の声。

 ”さっき栄一郎(えいいちろう)さんが差し入れ持ってきてくれたの、笙子(しょうこ)先生は学会で名古屋に行ってるんだって。”

 都が伝える向こうの世界での日常に、次第に気持ちが鎮まる。

 ”明日はフリューゲルに行くつもり。リュートはいないけど、やっぱりマスターのコーヒー飲みたいから”

 その後に、一瞬ためらう間合い。

 ”その……お母さまが大丈夫になったら……真っ直ぐ帰ってきてね。あ、でも慌ててとか、無理にじゃなくていいから……”

 それは、彼女の精一杯のわがまま。

 小首をかしげながら言葉を選ぶ様子が目に浮かんで、リュートは笑みを漏らす。

「言われなくても、落ち着いたらすぐ戻る。」

 けれど今は、母親を一人にするわけにいかない。

「そっちも問題だったな……」

 はぁ、と深いため息。

 もう一度横になる気にもなれず、寝台から降りると窓を開けた。

 明け方の湿った空気が部屋に流れ込む。どうやら今日も天気になりそうだ。

 しばらく部屋で過ごしてから、着替えて階下の厨房に足を向ける。

 まだ誰もいないと思いきや……

「ケィン?」

「おはようございます!リュートさま。」

 腕まくりをした料理人が元気いっぱいの笑顔で迎える。

「泊まったわけじゃないよな。」

「まさか!おばあちゃんを一人にできませんよぉ。」

 ケィンの祖母はかつてこの家の料理人だった。病気で現役を退いてからは、ラグレス家から程近い村の中心部に孫娘と暮らしている。その孫娘であるケィンは二十三歳の若さながら祖母の覚書を引き継ぐ料理人として、祖母と同じように数年前からラグレス家の台所を守っている。

 異国人であった母親譲りの茶色の瞳は闊達(かったつ)で、長い赤毛も邪魔にならぬよう三つ編みにし、さらに動きやすいようにズボンに前掛けといういでたち。

 すでに火を起こし、湯を沸かし、何かを作る気満々である。

「夕べも今朝もおばあちゃんと顔合わせたし……それにエミリアさまの具合がよくないのはおばあちゃんも心配してますから。逆に早く行きなさい、って言われたんです。」

「気遣いさせてすまない。」

「当然です。」そこまで言ってケィンは首をかしげる。

「リュートさまこそこんな早く、どうしたんですか?」

「目が覚めたんで、コーヒーを淹れようと思って。ケィンも飲むか?」

「リュートさまが淹れるんですか?」

「無理に、とは言わないが……」

「ぜひ!お相伴(しょうばん)させてください。」

 リュートは普段料理人が開けない戸棚から、口の細い薬缶(やかん)とコーヒー豆の入った缶、それにコーヒーミルやドリッパーを取り出す。

 ミルで豆を挽き、ペーパーフィルターと挽いたコーヒーをドリッパーにセットする。ケィンが沸かした湯を薬缶に分けてもらう。

 やがて、厨房に香ばしい香りが漂う。

「カズトさまが淹れるのと同じ香りです。」ケィンが目を閉じる。

 そして手渡された茶器を両手で包むと、まず香りを思い切り吸い込んでから口をつける。

「苦いだけじゃないんですね。少し酸っぱい味がします。」

「さすがだな。これはそういう品種なんだ。」

「カズトさまが淹れてくれるのと少し味が違うけど……でも、いい香りであったかくて、それに気持ちが和らぐっていうか……」

「うん。それは俺も思う。」

 エミリアが倒れてから、家の中には緊張感が漂っていた。命に別状がないとはいえ、臥せったままのエミリアを気遣う皆の気持ちが、痛いほど感じられる。

 だからこそ、リュート自身もコーヒー一杯分の息抜きをしたかったのかもしれない。


「体が弱ってるなら、食べやすい物がいいですよね。」

「それはそうだが……」リュートは空の茶器を置いて腕組みをする。

「負担になる仕事って、なんだったんだ?いまさら庭仕事が重労働だったとは思わないし……」

 何しろ倒れた本人がほとんど口を利かないので、不調の原因がまったくわからないままなのだ。

「それなんですけど……あの日、家に帰ってエミリアさまのこと話したら、おばあちゃんが変なこと言ったんですよね。」

「ナセリが何て?」

「今度は誰が怪我をしたんだい?って。」

「怪我?」

「エミリアさまは疲れてるだけ、って言ったら安心してたけど……何か心当たりありますか?」

「ない。」

 きっぱりとリュートは言った。

「俺が怪我をして母親が倒れた記憶もないし……」

「昔リュートさまが木から落ちたときも、怒ってましたもんね。もっと登りやすい木を選べ、って。」

「そういう女性(ひと)だ。」

「それに……お医者様は疲労って言ってましたけど、直前までのお食事もいつもどおりだったし……何を食べたいって言うこともなかったし。」

 ケィンの言葉にリュートは首をかしげる。

「特定の食事を指示すること、あったのか?」

「時々ですよ。今日はだるいから暖かい物を、とか。リュートさまがカズトさまのところに行かれて、この家にお一人になられてからですけど。イーサが言うには、離れて暮らすカズトさまやリュートさまに心配かけないよう、ご自分で気をつけてらっしゃるんだ、って。」

「母さんらしいな。」

 だとすると、なおさら疲れが過ぎたとは考えにくい。

 ケィンが仕事に戻るというので、リュートは居場所を図書室に移した。

 書棚に囲まれた部屋の中央に立って思案する。

 ケィンとイーサの話だと、母親はここで倒れたらしい。

 それすら、激しく疲弊(ひへい)する場ではない気がする。

 と、イーサが朝食を持ってやって来た。

「本当にここでよろしいのですか?お食事しながらお仕事をするのは勧めませんが……」

「一人のときはそのほうが落ち着く。それよりイーサ、この本の山は?」

 リュートは低い机の上に積んであった本に手を置く。

「倒れる前にエミリアさまが読んでらした本です。またお読みになるかもしれないと思って、床に散らばっていたのをまとめておいたんです。」

「花の害虫に、植物病理学……」背表紙を見て、なるほどと呟く。

 そんな本が数冊続いた一番下、明らかに本ではない紙束にリュートは眉根を寄せる。

「イーサ、これも床に散らばってたうちの一つか?」

「ええ、そうです。もしかしたら、表紙が折れてしまっているかもしれませんが……」

「それは構わない。」

 そうですか、とイーサは安心する。彼女は通り一遍給仕をすると、「エミリアさまの様子を伺ってきます」と図書室を後にした。

 リュートは母親の引っ張り出した本を書き物机に避難させると、手にした紙束をひっくり返した。

「これが……落ちてた?ということは母さんはこれを読んだのか?」

 それはリュートが部屋に持ち帰るのを忘れた、とある事件の記録の写しだった。ガッセンディーアの公安隊に所属する幼馴染からダール預かり、彼に手渡したもの。

「こんなもの読むとは考えにくいが……」

 お茶を飲みながら改めてページをめくる。

 と、フェスがけたたましく鳴いた。

 何事かと窓の外を見たリュートは、目を丸くする。

 それは今まさに庭に着地しようとしている竜の姿。

 リュートは庭に飛び出すと、先に出ていた庭師の隣に並んだ。

 竜の背に乗っていた二人の人物のうち、小柄な一人が大股で二人に近づく。上着もズボンも竜に乗る者のそれだが、かなぐりすてた風除け眼鏡と帽子の下は綺麗にまとめた髪と金色の耳飾。およそ竜に乗る者とは思えない風貌である。

 しかも彼女の漆黒色の瞳は、明らかに怒りを含んでいた。

「シーリアお嬢さま、お帰りなさい。」

 庭師のビッドが当然のように眼鏡と帽子を受け取る。

「叔母さん……いったい……」

 口を開いたリュートを、シーリア・アデルはキッと睨みつけた。

「リュート!姉さまが倒れたこと、なぜ早く知らせなかったの?」

「セルファにはすぐ……」

「セルファでなく、あたくしにということです!」

「母上……何度も言うようですが、不在だったのは母上のほう……」

 竜を空に帰したセルファが、慌てて後ろから追いかける。

 シーリアは(きびす)を返した。

「滞在先は知っていたでしょう!それを知りながら、連絡しなかった。そんなズボラな息子に育てたつもりはありません!」

「大事な取引先だったのでしょう。そもそもリュートを怒るのはお門違いです。」

「母親に口答えするんじゃありません!」

「私は子供じゃありません!」

 すでに親子喧嘩の様相に飛び込んだのはイーサだった。

「まぁまぁ、何事かと思えばシーリアお嬢さま!」

 とたんにシーリアは泣きそうな顔になる。

「ああ、イーサ!姉さまの様子は?」

「今、お食事をなさってるところです。」

 イーサはエミリアの様子を説明しながらシーリアを家の中へ連れて行く。

 リュートは……というと、嵐のごとく通過した状況に呆然としていた。

「すまない。」セルファがうなだれる。

「つまり……叔母さんは今朝になって母さんのことを知った?」

「昨夜帰ったのが遅かったんで、今朝話した。そうしたら……あの調子だ。」

「シーリア叔母は飛ぶのが苦手だったんじゃ……」

「妥協するから、一刻も早く連れて行けと言われた。まさか、母があんなに取り乱すとは思わなかった。」

 いつになく気弱なセルファに、リュートは「そうでもないだろう」と言う。

「母もシーリア叔母が来て気が晴れるだろうし、たった二人の姉妹なんだから心配するのは当然だ。」

 ただし早瀬(はやせ)の家に戻るのが遅れることは確定したな、と心の内で呟いた。

恐らく初登場のシーリアさん、登場です。

そして次回の更新は火曜日を予定。ただ、時間は未定になります。

よろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ