第十五話
肩を叩かれて、飛び上がった。
振り返ると、目をまん丸にして固まってるクラスメイトの姿。
「あ、明里さん……かぁ。びっくりしたぁ。」
土曜日の昼。授業が終わり、慌しく帰り支度をしている最中のこと。
ほーっと息を吐き出す都に、明里は呆れたように言う。
「びっくりしたのはこっちよ!何度も呼んだのに気がつかないし。」
「え?ホントに?」ごめん、と素直に謝る。
「ボーっとしてるけど大丈夫?また具合悪いとか?」
「ゆうべ写真整理してたから、ちょっと寝不足なだけ。」
「ならいいけど。昨日、さーこにお礼、言っといたわよ。」
「さーこ……あ!佐藤さん。」「
一昨日の夕方、ふいに感じた不穏な気配に戸惑っていたところに、降ってきた声。
「もしかして、都さん?」
「西……くん?」
振り返った視線の先にいたのは、同じ学校の西和臣だった。少し長めの髪に、さわやか系の笑顔の彼は、演劇部の元部長で明里の幼馴染でもある。
「やっぱ都さん。学校の外で会うなんて……」
「ちょっと!」
西を押しのけて飛び出したのは、見慣れない制服の女子だった。
長い髪を頭の上でお団子に留め、さらに都より頭一つ分背が高い。
「顔色すっごく悪いけど……もしかしてしんどい?」
「マジ!」と西も慌てる。
「えと……ちょっと立ちくらみ……っていうか……」
「無理しないで。と……どっか座れる場所……」
「ビル入ったとこに、ベンチあったよな。」
彼女は都のカバンを強引に持つと、腕を取ってベンチまで誘導する。
「ちょっと待ってて」と席を外すが、すぐにミネラルウォーターのボトルを手に戻ってきた。手渡された冷たいボトルに、都は心底ほっとする。
「あ、ありがとう……えと……」上目遣いに相手を見る。
「あたし、佐藤さやか。」
「木島都……です。」
「都さん、ってもしかして写真部の都さん?」
へっ?と目を丸くする都に、西が「こいつおれらの幼馴染」と説明する。
「おれら?」
「あーちゃん……じゃなくて篠原明里ちゃんと三人、小中おんなじで、今も同じマンションなの。カズくんとは予備校も一緒。」
西は肩を竦めた。
「それで、あーちゃん三年になってから都さんのことよく話すから、実はちょっと気になってたんだ。」
思わず都は水でむせそうになる。
「わ、わたしのこと?」
「あー、変なことじゃないから。毎日作ってくるお弁当がかわいいとか、写真が上手いとか。」
そんな会話を交わすうち、あれほど急激に沸いた不安な気持ちが治まってきた。
頃合を見て、ひとまず大丈夫そうだと都は二人に伝える。さやかは「最寄り駅まで行こうか?」と言ったが、さすがにそこまで甘えることはできないので丁寧に断り、その場で別れた。
その一件はすぐさま明里に伝えられ、翌日教室で顔を合わせるなりひどく心配された。けれど都は「大丈夫」と言い、逆に佐藤さやかにお礼を言えなかったことを明里に伝えておいたのだ。
「さーこも都さんがちゃんと帰れたか気にしてたんだって。それと都さん、華奢なのにカバン重すぎ!って。」
「あのときは一眼レフ入ってたから。普段はコンデジしか入ってないし……」
「そういう問題じゃないでしょ。今日はこれからフリューゲル行くの?」
「んーん。やることあるから直帰。」
「もしかして彼氏さん、まだ出張から戻ってない?」声をひそめて明里が言う。
こくんと都は頷く。
「お母さんの具合が悪いみたいで。」
「それも心配ね。」
そう気遣ってくれる明里に、都は同意した。
実際エミリアが倒れたという知らせをコギン経由で聞いたとき、都はひどく動揺して意味もなく部屋の中を歩き回ってしまった。タイミングよく帰宅した冴が、エミリア・ラグレスの夫である早瀬加津杜から聞いた話を伝えてくれて状況を理解したものの、すぐに飛んでいけないもどかしさを痛感した。それに看護のために竜杜の帰宅が遅れることも、寝不足になる程度の不安を感じるには充分だった。
欠伸をかみしめながらバスと徒歩で帰宅する。
「ただいまぁ。」
いつものように玄関を閉めると同時に、コギンが飛んでくる。
「お昼……冴さん作ってくれたんだ。」
「ぎゃう!」
ダイニングテーブルにラップのかかった大皿があるのを見て、都はちょっと嬉しくなる。添えられたメモには、施主との打ち合わせが終わり次第帰宅とのこと。
「じゃあ、そんなに遅くならないかな。」
呟いてカバンと上着を部屋に放り込むと、アッサム紅茶を淹れてコギンと一緒にランチタイム。
ハムときゅうり、卵とマヨネーズのシンプルな冴特製サンドイッチは、都が小さい頃から馴染んだ味だ。コギンも、都が「食べすぎ」というほど食べてご満悦だった。
食後、都はそのままリビングの安楽椅子に移動した。
横になり、部屋から持ってきたボイスレコーダーの再生スイッチを入れる。
それは昨夜フェス経由でコギンが届けてくれた竜杜の声。
母、エミリアの具合がよくないので早瀬の家に戻るのが遅れること、そしてマーギス司教に手紙を渡した報告が彼の声で伝えられる。
早瀬が受けた連絡によれば、エミリアは極度の疲労状態にあるらしい。命に別状はないが、今までそんなことがなかっただけに大事をとっているのだという。
”そちらは大丈夫と思うが、銀竜のことでも困ったことがあれば遠慮なくフリューゲルを頼れ。もっとも、写真を撮るのに忙しくてフリューゲルに顔出してないのかもしれないが……”
締めくくりは、彼女を思いやる優しい言葉。
はーっと都は深いため息を吐き出す。
「頼れって言われてもなぁ……」
あの時感じたのが本当に「彼」の気配だったのか。
ほんの一瞬だったし、まわりに人も多くて特定することはできなかった。
もし予定通り昨夜のうちに竜杜が帰宅していれば、直接会って話すつもりだった。けれどそれは叶わず。かといって遠く離れた世界で母親の看護をしている彼に、わざわざ不確かなことを言いたくなかった。それは早瀬に対しても同じ。
そんなこんなで昨夜は考えばかりが頭の中を駆け巡り、浅い眠りしか得られなかったのである。
それに……。
「十日……会ってないのか……」
もっと長く会わなかった時期もあるが、婚約してからこんな長い時間離れているのは初めてだ。
「……会いたいな。」
会って、大きくて暖かい掌に触れたい。挨拶のような優しいキスをしたい。
そんな欲求に、我ながらわがままが増したと都は思う。
「仕方ないのはわかってるけど……」呟き、欠伸をする。
「お昼食べたせいかな?」
睡魔に襲われるまま、都は目を閉じた。
そこは新緑が眩しい森の中。ちらちらと緑が足元に影を作る。
地面が近いところ見ると、自分はどうやら小さな子供らしい。
差し出した手は、細くて柔らかな手をしっかり掴んでいる。
見上げると、長い髪の女性が佇んでいる。
彼女は空を見上げたまま動かない。
(おかあさん……)
けれど答えはない。
(おかあさん!)
(どうしたの?)
ようやく振り向いたやさしい笑顔。けれどその笑顔はどこか悲しげだ。
(おかあさん、かなしいの?)
(大丈夫よ)
(ないてるよ)
(そんなこと、ない)
そう言って自分を覗き込む。
(綺麗な瞳、本当に……お父さまにそっくり)
(とうさま?)
(声を、聞いたでしょう)
子供は小さく頷く。
(本当は会わせてあげたいけれど……でもそれは叶わないことだから)
彼女は立ち上がると森の奥に目を向ける。
不意にこみ上げる悲しさと切なさ。
それは子供ではなく、彼女の感情。
愛する人と離れ離れになった悲しさ。そして声しか聞くことのできない切なさ。
白く小さな竜が、肩に止まる。
まるで慰めるように喉を鳴らす。その声は……
「ぎゃう!」
「ふぇ?」
耳元で鳴く銀竜の声に、都は飛び起きた。
すかさず目の前に携帯を掴んだコギンが舞い降りる。ぼんやりしたまま手に取ると、液晶画面に一分前の着信履歴が表示されていた。
「うわ!栄一郎さんだ!」
都は目元の涙を拭いながら、慌ててリダイヤルする。
すぐに相手が出た。
「す、すみませんちょっと出られなくて。あ、はい。今、家……」
二分後、用件を終えた都は思い切り脱力した。
「うたた寝してたのか……コギン、ありがとね。」
うきゅ!とコギンが羽根をばたつかせる。
「それで、栄一郎さんが差し入れ持ってきてくれるから……うわ、着替える時間あるかな?」
都は部屋に戻ると大急ぎで私服に着替えた。ついでに洗面所に飛び込み顔を洗い、髪を整える。
果たして、予告ピッタリの時刻にインターフォンが鳴った。エントランスのロックを解除すると、程なく玄関チャイムが鳴る。
「わざわざすみません。」
玄関先に招き入れた相手に、都は恐縮する。
「こっちこそ、忙しいのに邪魔してごめんね。」
言いながら、宮原栄一郎は臆することなく銀竜に手を差し伸べた。コギンもまんざらではない様子でその手に止まる。
「今日もご機嫌かな。」
「さっきサンドイッチいっぱい食べたから。」
そうかそうか、と栄一郎は嬉しそうに頷く。
四十も半ばを超えた年齢は都の親と言っても差し支えないのだが、長目の髪のせいか眼鏡のせいか、はたまた絵本作家という職業のせいか、まるで学生がそのまま年を経たような年齢不詳の雰囲気がある。
もともと宮原夫妻は早瀬加津杜の旧友で、早瀬家が門番であることを知る数少ない共犯者でもある。竜杜と関わりを持ったことで都とも付き合いが始まり、今ではコギンのドラゴンシッターを頼むほど。そして先日、二人が婚約した際には媒酌人も務めてくれた。都にとっては親戚のお兄さんのような、頼もしくも親しみのある存在なのだ。
「父親が入院したもんだから、お見舞いついでに実家に顔出してきたんだ。そしたら妹がいろいろ持たせてくれて……」
栄一郎は手にした紙の手提げから大きな瓶を取り出す。
「これ、妹の作った栗の渋皮煮。ぼくが言うのもなんだけど絶品。それと親戚にもらった自家製のお米とか……」
はい、と渡された紙袋の重さに、都は「うわっ」と声を上げる。
「こんなにもらっていいんですか?」
「うん。例によってうちも二人だからそんなにいらないし、特に今週末は笙子さんもいないから。」
「笙子先生いないんですか?」
栄一郎の妻、宮原笙子は宮原医院の小児科医で、平日は忙しいが休日は栄一郎と一緒に過ごすことが多い。
「週末挟んで名古屋で学会。」そこまで言って、首を傾ける。
「そういえば竜杜くん、戻るのが遅れるんだって?」
「お母さまの具合が悪いから様子見るって……」
「都ちゃんは大丈夫?」
「わたし?」
「竜杜くんと離れてる時間が長いから、寂しくなってきたんじゃない?」
「そ、それは……えと……」否定できず口ごもる。
「確かに竜杜くんも大変だと思うけど、そういう気持ちは遠慮しないほうがいいんじゃないかな。」
「でも……」
「ぼくが思うに、きっと竜杜くんも都ちゃんに会いたいはずだし。」
「笙子先生も……そういうこと言うんですか?」
「うちはぼくが主夫だから長期で離れることないけど……でも今回みたいに学会とかで出かけると”栄一郎くんの料理が食べたい”ってメールが来るよ。」
「それは……」
「微妙でしょ。でも笙子さんらしいよね。」
そんな会話を交わした十分後。
栄一郎はコインパーキングに留めたオフロード車に乗り込んだ。シートベルトをしようとしてメールの着信音に気づき携帯を開く。表示された妻からのメールにくすっと笑う。
「もうちょっと早ければ、都ちゃんに見せてあげたんだけど……」
呟きながらシートベルトを締めると、サイドブレーキに手を伸ばした。
久しぶりの栄一郎さん登場です。
そして次回は金曜日に更新予定。




