第九話
「その……きみの婚約者は反対してないんでしょうか?」
トラン・カゥイは目を丸くして手紙から顔を上げた。
眼鏡の奥の灰色の瞳が困惑している。寝癖の残る茶色の髪と相まって、まるで叱られた学生のようだ、とリュートは思う。
「それはまったく。」リュートは彼を安心させるように言った。
「トランのことは説明してあるし、逆に面倒じゃないかと心配してた。」
「ぼくは一族でも、親戚でもありません。」
その不安に答えたのはセルファ・アデルだった。
「伯父上からの手紙にあるとおり、伯父上とリュートの友人として契約の儀に立ち会っていただきたいんです。ご存知の通り、ラグレス家は親戚が少ない。それにミヤコもガッセンディーアでの知り合いが少ないので、縁のある方たちに立ち会っていただければ我々も体裁が整うというもの。」
そうですか、とトランは肩の力を抜く。
「光栄です。」
「そんな大げさな。」と、リュート。
「子供たちに自慢します。」
「だから、大げさすぎる。」
「そんなことありません。」トランはようやく笑みを見せる。
「以前、リュートが空からぼくを訪ねて来たでしょう。フェスと一緒に。」
「伝承の調査を頼みに行ったときか。」
「あれ以来、ぼくは子供たちに尊敬されてるんです。カゥイ先生には竜騎士と銀竜の友達がいる、って。」
それは「黒き竜の魂を封印する方法を探してほしい」と、トランに直談判に行ったときのこと。たまたま竜の降りた先が村の学校のそばで、授業を終えた子供たちが物珍しさに集まってきたのだ。子供達に引っ張り出されたトランが、ここぞとばかりに子供たちに竜と銀竜のことを説明したのはいうまでもない。
トランはリュートの父、加津杜の研究仲間であった。
年齢こそ二十近く離れているが、銀竜の研究者として活動していた加津杜と意気投合し、一緒に古い伝承を調べたこともある。しかしその後、加津杜は店を継ぐために自分の世界へ戻り、トランもまた、大学卒業と同時に郷里に戻って教師として子供たちに勉強を教えていた。
けれど竜に関する伝承を集め、解読することは続けていたらしい。たまたまリュートと出会ったときも、彼は自ら「竜の研究をしているんです」と言っていた。
その後黒き竜と対峙し、けれど封印する方法を探し出せずにいたリュートにトランを推薦したのは父だった。彼の古い言語に関する知識と恐ろしいまでの集中力があれば、あるいは古い文献から「黒き竜を封印する方法」が見つかるのではないかと提案したのである。それに彼は加津杜が自ら門番であることを明かした、数少ない一人。充分、信頼もおける。
果たして目論見どおり、トランは二つ返事で調査を引き受けてくれた。すぐさま膨大な量の古い文献を紐解いたその行動力と集中ぶりは「声をかけるのがためらわれる」と、セルファに言わしめたほど。
けれどこうして他愛ない話をしているときは、いかにも子供好きな先生といった雰囲気。
「あれからしばらく、みんな竜の絵ばかり描いてたんです。」思い出し、嬉しそうにトランは言った。
「みんな上手なんですよ。それに英雄とリラントの話をせがまれるんです。」
「親から苦情とか来ないのか?」
「親たちも子供の話を聞くのが楽しいんだそうです。以前も言いましたよね。あんな田舎では竜も一族も伝説に等しい。けれどああやって本物の竜と銀竜を見たことで、きっとこの先の人生が変わる子もいるはずです。ぼくがそうだったように。」
そこまで言って、手の中にある加津杜からの手紙を思い出す。
「それでこのお返事は?」
「後日、正式な招待状をお送りします。もちろん伯父上への返事を書いて下されば、リュートがお渡しします。」
「わかりました。カズトさんへの返事は、この後に書きます。それと当面は自宅に篭ることになるので、連絡はそちらにお願いします。」
「自宅ってことは、ハンヴィク家には来ないってことか?」
「リュートにはまだ説明してませんでしたね。」セルファが頷く。
首筋で束ねた明るい茶色の癖毛は父親譲りだが、従弟のリュートと同じ漆黒色の瞳は明らかに母親から受け継いでいる。
リュートより年上の二十八歳。父親の経営するアデル商会を支える法律家として活躍する一方、連絡係として早瀬家のために奔走することも多い。
今日も例によって「ついでです」と言って、ここハンヴィク家に同行しているのだ。
「要は一通り目を通したので、ここでの作業は見切りをつけるそうです。」
「目を通した?ここの蔵書に全部?」
リュートは思わず部屋を取り囲む、天井までの書棚を見回した。
そこに収められているのは一族であるハンヴィク家の、先代と現在の当主が集めた竜と一族に関する本。一体どれだけの蔵書があるのか、当のハンヴィク家の人間ですらすらわからないという代物だった……はず。その幅広さと多様さ……簡単に言えば何でもアリの膨大な資料の閲覧を、父の友人であるキルム・ハンヴィクに願い出たのはたった半年前のこと。
「久しぶりにわくわくしました。これだけの資料に一度にお目にかかれることは、そうそうありませんから。本当はゆっくり読みたい資料もありますが、今は優先順位がありますから……」トランは残念そうに書棚を見る。
「それはわかったが、これはどうするんだ?まさかそのままにしていくんじゃ……」
リュートは書棚に入りきっていない山積みになった本を示す。
「ハンヴィク家のご当主には、休暇が取れたら片付けるといってあります。それまでは指一本触れないようにお願いしておきました。」
「触れないように?」
ええ、とトランは頷く。
「分類してあるんです。ただ、今の段階ではぼくしかわかりません。」
その言葉にリュートは改めて、目の前の三十過ぎの朴訥とした男を見る。
たった半年。
それも週末の安息日ごとの作業で、この書庫の膨大な蔵書全てに目を通し分類したというのか。
ふと、彼の集中力、行動力は半端じゃないという父親の言葉を思い出す。
「それゆえに突っ走るところがあって、誤解を招くこともある。」
その言葉の意味を、今なら理解できるかもしれない。逆にいえばこれほどの人材が埋もれていることに驚異すら覚える。
トランは安楽椅子の上に置いてあった小さな本を手に取った。
「ひとまずこの二冊をじっくり読みたいので、許可をもらってお借りすることにしました。」
「それは?」
「日記と旅行案内書の類です。」
「日記?」
「ええ。何代か前のハンヴィク家のご当主が、英雄に憧れて南を旅したときの記録です。そしてこちらは、そのときに携帯したと思われる案内書。」
トランが示す本は薄汚れ、しかもかろうじて読み取れる表題が何語なのか、リュートには判読できなかった。
そうでしょう、とトランは頷く。
「これは昔アバディーアで使われていた言語です。つまり、ぼくのご先祖が使っていた言葉。」
「アバディーア?」
「州都ヘデラは今も昔も交易の盛んな場所です。恐らく、そこを行き来する人のために書かれたものでしょう。主に南の……今のホルドウルの史跡案内のようなものです。」
「ということは連合国になる以前のもの?」
「その直前。ですから百五十年か六十年くらい前ですね。その頃には小国同士のいざこざはおさまり、他国に行くのも難しくなかったようです。日記の主は結婚前の最後のわがままで英雄と聖竜の史跡を巡る旅に行ったみたいですね。当時南には英雄に関する遺跡が今より多かったらしく、大概“勇者の遺跡”とか“竜の遺跡”と呼ばれていたそうです。」
「ガラヴァルでも、リラントでもない、ということか?」
「英雄ガラヴァルは南にいた一族です。黒き竜を倒し、英雄となって凱旋する以前の姿が伝えられていたのでしょう。」
「それほど古い文化が残っていた、ということか。」
「ええ。そういう文化が残っていた場所ならば、もしかしたら手がかりがあるかもしれない。」
「黒き竜の魂を封じる方法の?」
「いいえ。黒き竜の本当の姿の。」
「本当の、姿?」
トランの思いがけない言葉に、リュートは一瞬ぽかんとする。
追い討ちをかけるように、トランは言った。
「黒き竜はなぜ門の向こうに追い出されたのか?」
「なぜって……この世界を闇に陥れたからじゃないのか?」
「なぜ、そんなことをしたのでしょう。」
「それは竜に呪術を施した奴がいて……」そこまで言って、リュートはトランが言わんとしていることに気付いた。
「つまり“黒き竜”が“黒き竜”となった理由を調べる……ということか?」
「雲を掴むような話だと承知しています。けれど黒き竜を封じる方法を見つけるには、あの伝承の背景に何があったか知る必要がある。そうすれば対応策は見つかるはず。」
「ちょっと待ってくれ……」リュートは額を押さえる。
あまりにも話が大きすぎて思考が追いつかない。
「言いたいことはわかる。けどそんな大昔のことを、どうやって調べる?」
「だからこれが必要なんです。」トランは本を持ち上げる。
「仮に遺跡そのものが消滅しても、住んでいる民族が変わらない限り、そして戦争かなにかで従属させられない限り、物語は継承されていきます。だからこの本にある遺跡があった近辺で話を聞けば、きっと伝承の真実の姿が残されているんじゃないか。そう仮説を立てたんです。」
「適当に言ってるんじゃないよな?」
「もちろん。昔、ぼくとカズトさんが銀竜の伝承を南で調べたのも、そこから埋もれていることを見出せないかと思ったからです。その経験があるから、不思議に思ったんです。」
「不思議?」
トランは頷くと背後の書棚を振り返る。
「ハンヴィク家の蔵書は、聖堂の書庫に引けを取らないすばらしい物です。ガッセンディーアのみならず、カーヘル、ホルドウル、そしてアバディーア。全ての地域の古い時代の本を網羅している。けれどそのどれにも、黒き竜がなぜ黒き竜になったのか。なぜガラヴァル兄弟が門の向こうに行くことになったのか、断片すら書いてないんです。何というか……意図的に物語を作り上げたような……と言えばわかりやすいでしょうか。それだけじゃありません。」
そうですね、とトランは呟く。
「もしきみたちが呪術を使って世界を支配しようとしたら、何をどうしますか?」
リュートとセルファは顔を見合わせる。
「言い方を変えます。空の同胞に呪術を施して、世界支配ができますか?」
「まず……無理でしょうね。」セルファが言った。
「私だったら呪術を使って、気象か海をどうにかするでしょう。」
「だから、です。もちろん、呪術の力による竜の暴走は事実なのかもしれません。けれどなぜ竜に対して呪術を使う必要があったのか。それに彼は門とどのような関係があったのか。」
そこまで言って、トランは突然リュートに向き直る。
「先に謝っておきます。」
「え?」
「きみの承諾なしに、セルファから調書の下書きを拝借しました。」
やんごとなき用事により、更新時間がいつもより遅れました。お待ちいただいた皆様、すみません。
そして次回は火曜日更新予定です。




