プロローグ
足元に影が落ちる。
見上げれば頭上には深い緑の木々。
細い道を抜けると、開けた先に見えるのは尖った屋根の建物。
いつもと変わらぬ小さな神舎のたたずまいに、肩の力が抜ける。
ふと、自分はいつからここに戻っていないのだろうと考える。
十年?
いや、もっと?
ふいに名を呼ばれた。
道の向こうから、赤毛のおさげ髪を揺らした小さな女の子が走ってくる。
その懐かしい姿に、思わず笑みがこぼれる。
その場にしゃがみ、女の子を受け止めようと両手を広げた。
次の瞬間。
風景は一転して闇。
足元がゆらぎ、崩れ始める。
慌てて手を伸ばす。
とっさ少女の名を叫ぶが、小さな手は空をかくとそのまま闇に飲み込まれる。
その瞬間。
目が覚めた。
心臓の鼓動がやけに響く。
無意識に枕元に手を伸ばし、明りを覆っていた黒い布を外す。浮かび上がった天井に、自室の寝台の上に横たわっているのだと思い出す。
「夢……」
深く息を吐き出すと、大儀そうに身体を起こした。
夜はまだ冷えるにもかかわらず汗ばんでいるのは、今みた夢のせいか。それとも年を重ねた者の特徴か。
刻まれた皺の奥、青みがかった灰色の瞳が苦しげにゆがむ。
「どうして今頃……」
あれは……最後に会ったときの姿。
目を閉じればまるで昨日のことのように思い出す、幼子の笑顔。
「時間も場所も、随分離れてしまったというのに……」
彼は寝台を降りると、物書き机の引き出しから古びた本を取り出した。裏表紙を開き、一番下に書かれた文字を指先でなぞる。
「それとも……どこかで生きているのだろうか?生きて、私に助けを請うているのだろうか?」
けれど答える声はない。
ただ、春を告げる雨音が、かすかに聞こえるのみであった。