寿綾乃という女 第3部 88
菊池リン…
五井家が私に差し向けたスパイ…
かつて、彼女は、五井家に命じられ、私にまとわりついた…
会社で、担当する部署が、違うにも、かかわらず、
「…綾乃さん…」
「…綾乃さん…」
と、言って、ことあるごとに、私に近付いてきた…
私は、そんな、彼女に、すっかり、騙されてしまった…
本来、用心深い、私の性格は、どこへやら?…
すっかり、ガードを解いて、彼女を受け入れてしまった…
彼女は、犬で、言えば、チワワというか…
とにかく、可愛く、愛くるしい…
誰が、見ても、誰からも、一目で、好かれる顔だった…
おまけに、人懐っこい…
だから、誰が見ても、安心できる…
警戒心を抱かない…
それは、私も例外では、なかった…
私、寿綾乃も、例外ではなかった…
私は、彼女のペースに、巻き込まれ、うっかり、彼女の仕掛けた罠に、はまってしまった…
彼女の仕掛けた罠というのは、私を観察すること…
私と親しくなって、私の胸の内に飛び込むこと…
私が、五井家前当主、諏訪野建造の隠し子だと、思っていたからだ…
そして、私が、諏訪野建造の隠し子だと、すれば、当然、莫大な相続金を得ることができる…
五井家は、それを、恐れたのだ…
私に、五井家の財産を譲ることを、恐れたのだ…
これは、五井家の立場になってみれば、わかる…
それまで、存在も知らなかった、前当主、建造の娘がやって来た…
きっと、莫大な財産を得たいのでは、ないか?
莫大な、財産を相続するために、突然、現れたのでは、ないか?
五井家の人間は、皆、私を、そう、見たに違いない…
だから、この菊池リンを使って、私に接触した…
私、寿綾乃に接触した…
どんな人間か、知るためだ…
どんな人間か、知るには、その当人と親しくなって、身近に接するのが、一番だからだ…
親しくなれば、その人間の本性がわかる…
例えば、会社とか、学校とか、公の場では、決して、言わないことも、誰もが、たやすく、口にするからだ…
わかりやすい例で、言えば、会社で、出世は、難しいと、思う人間…
が、
それを、誰もが、会社で、当人の前で、ハッキリと口外する人間はいない…
だが、例えば、居酒屋等で、当人がいない場所では、
「…アイツは、ダメだな…」
とか、
「…出世は、まず無理…」
と、言っているものだ(苦笑)…
つまり、本音を言っているものだ…
だから、親しくならなければ、その本音は、誰も、言わない…
だからこそ、その人間の本音や、その人間の人間性…
どんな人間か、知るには、親しくなるしか、方法がないと、いうことだ…
だから、その例の通り、この眼前の菊池リンは、私に接した…
わざと、仮面をつけて、私に接した…
そして、その仮面の下にある、素顔は、狡猾…
その愛くるしい顔と、真逆な狡猾な素顔だった…
私は、それを、思い出した…
すっかり、忘れていたことを、思い出した…
いや、
すっかり、忘れていたわけでは、ない…
あの長井さんを見て、この菊池リンを思い出していた…
なぜなら、キャラが、そっくりだから…
二人とも、愛くるしく、頼りない…
だから、誰もが、彼女たちの面倒を、見たくなる…
すっかり、警戒心を解いて、彼女たちと、接してしまう…
そういうことだからだ…
私が、そんなことを、考えていると、
「…お久しぶりです…綾乃さん…」
と、以前と、同じく、愛くるしい顔で、私に接してきた…
私は、一瞬、戸惑ったが、
「…ええ…お久しぶりね…」
と、返した…
心の中では、決して、彼女のペースに乗っては、いけないと、固く心に誓いながら、返した…
彼女の頼りなさ、愛くるしさは、武器…
この私、寿綾乃にない武器だった…
おおげさに言えば、人たらし…
その愛くるしいルックスと、頼りない印象で、あっけなく、他人の懐に入ることが、できる…
だから、こっちが、油断すると、いつのまにか、つい、彼女に、言っては、いけないことも、言ってしまう可能性がある…
口にしては、いけないことも、つい、口にしてしまう可能性もある…
それは、ちょうど、さっき、長谷川センセイが、言ったのと、同じ…
私が、美人だから、つい、親しくなろうと、おしゃべりが過ぎたと、言った…
それが、ホントか、ウソかは、わからない…
が、
それは、ありがちなこと…
世間では、ありがちなことだからだ…
そして、私が、そんなことを、思っていると、
「…どうしたんですか? 綾乃さん…そんな怖い顔をして…」
と、目の前の菊池リンが、愛くるしい顔で、言った…
以前、私を罠にかけた…
そんな過去があるにも、かかわらず、そんな過去など、まるで、ないように、接してきた…
私は、そんな彼女を見て、当惑した…
文字通り、当惑した…
なにより、そんな彼女と、どう接して、いいか、わからなかった…
彼女は、五井一族…
伸明に接する上では、避けては、通れない人間だ…
が、
正直、接したくない…
正直、付き合いたくない…
が、
そういうわけには、いかない…
なにより、
「…アナタとは、付き合えない!…」
と、彼女に言う、子供のような真似はできない…
私は、大人…
彼女もまた、大人だからだ…
だから、できない…
だから、困った…
彼女と、どう接して、いいか、わからず、困った…
すると、彼女が、
「…綾乃さん…今日は、どこかに、行っていらしたのですか?…」
と、聞いた…
実に、無邪気な様子で、聞いた…
私は、
「…ええ…ちょっと…」
と、返した…
具体的に、五井記念病院に行っていたとまでは、言わなかった…
彼女に、言っても、仕方がないことだからだ…
だから、言わなかった…
すると、彼女は、
「…それは、そうですよね…外出していたから、今、ここに戻って来たんですよね?…」
と、言った…
当たり前のことを、言った…
私は、それで、ピンときた…
おそらく、この菊池リンは、長谷川センセイから、聞いたのでは、ないか?
今日、私が、五井記念病院に診察に行くと、聞いたのでは、ないか?
それで、ここで、私を待ち伏せた…
そういうことでは、ないか?
あるいは、あの後…
診察が終わった後、長谷川センセイが、この菊池リンに教えた…
直接ではなくても、間接に教えた…
関節=ひとを介して、教えた可能性が高い…
そして、さらに言えば、もしかしたら?
もしかしたら、あの長谷川センセイと、おしゃべりをしたとき…
あのとき、長谷川センセイが、
「…おしゃべりが、過ぎました…」
と、言ったのは、この菊池リンのことでは、ないか?
菊池リンと、キャラが、似ている、あの長井さんについて、言及した…
そのことで、私が、菊池リンを連想してしまうのでは、ないか?
それを、恐れたのでは、ないか?
あらかじめ、この菊池リンと、長谷川センセイが、打ち合わせしていた場合は、それを、私に知られるのは、困る…
だから、長井さんの話をして、
…しまった!…
と、思ったのではないか?
それが、あの態度や表情に現れたのではないか?
私は、思った…
私は、考えた…
あるいは、思い過ぎ…
考え過ぎかも、しれないが、そう、思った…
そして、私が、そんなことを、考えていると、
「…どうしたんですか? …綾乃さん…そんな難しい顔をして…」
と、目の前の菊池リンが、屈託のない笑顔で、私に話しかけた…
私は、その笑顔を、見つつ、
…この顔に騙されちゃ、ダメ!…
と、自分に、言いきかせた…
必死になって、言いきかせた…
さもないと、つい、私の警戒心が、緩みかねない…
うっかり、私に不利な情報を彼女に提供しかねない…
そう、肝に銘じた…
同時に、思った…
私と彼女、菊池リンは、9歳違う…
32歳の私に対して、彼女、菊池リンは、23歳…
大学を卒業したての年齢だ…
にもかかわらず、私が、彼女に、用心しなければならないなんて…
話が、逆ではないのか?
23歳の彼女が、私に警戒心を抱くのが、普通だろう…
が、
真逆…
実際は、私が、彼女に警戒心を抱いている…
そして、それを、考えると、つくづく、人間は、年齢ではないな、と、思う…
いくら、歳を取っても、頭が良くなるわけでは、まったくない(苦笑)…
ただ、歳を取るだけ…
それが、事実…
現実だ…
一部のわけのわからない人間だけが、歳を取れば、頭が良くなると、思っている(苦笑)…
たしかに、歳を取れば、多少は、頭が良くなるが、それは、前にも、言ったように、女が、化粧をしたレベル…
大半の女が、化粧をすれば、別人のように、美人になれるわけではない…
が、
稀に、歳を取れば、若いときとは、別人のように、頭が良くなると、信じているものが、いる…
要するに、そんな人間は、相手にしないのが、一番なんだが、仮に、職場で、そんな人間といっしょに、仕事をさせられでも、したら、目も当てられない…
例えば、いかに、自分が優れているか、一日中、自慢している…
学校で、勉強はできなかったが、会社では、出世すると、大言壮語している人間が、いる…
信じられないかも、しれないが、そんな人間が、この世の中には、稀にいる…
そして、そんな人間は、この目の前の菊池リンとは、違って、厄介…
実に、厄介だ…
自分の実力がわからない…
他人の実力も、わからない…
ただ、出世志向が、異常に、強いからだ(爆笑)…
そして、そんなことを、考えたとき、まだ、それを、思えば、この菊池リンの方が、マシ…
わけのわからないことを、言う人間より、マシだと、思った…




