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「弁解はいたしません」冤罪の令嬢が一礼して去ったあと、壁際の近衛だけが動き出した

作者: Lihito
掲載日:2026/05/29

 「――よって、エレナ・ベルク公爵令嬢との婚約を、ここに破棄する」


 大広間に、コンラートの声が響き渡った。よく通る、得意げな声。


 一斉に、視線が集まる。値踏みするような目。扇の陰のささやき。同情は、どこにもなかった。話はもう、回っている。


「公爵家の宝剣を盗み、王家への献上品にすり替えようとした。証拠は挙がっている。――弁解があるなら、聞こう」


 弁解。


 盗んでなどいない。すり替えてもいない。何度言っても、誰も聞かなかった。証拠とやらを、私は一度も見せてもらえなかった。


 コンラートの隣で、ロザリーが口元を扇で隠して笑っている。今夜のために誂えたような、勝ち誇った顔で。


 泣くか。縋るか。床に膝をつくか。――そういう顔を、コンラートは待っていた。


(残念だけれど)


 私は、背筋を伸ばした。


「弁解は、いたしません」


 しん、と場が静まった。


「……何だと?」


「申し上げても、お聞きにならないでしょう。証拠も、見せてはいただけませんでしたから。――では、失礼いたします」


 一礼して、背を向ける。


 ざわめきが、戸惑いに変わるのが背中でわかった。期待した顔が見られなくて、困っている空気。


(最初から、私は道具だったものね)


 ベルク公爵家と、メルテンス侯爵家。家のための婚約。私はその証文に押された、ただの印だった。都合がよければ繋いで、悪くなれば切る。今夜が、その日だったというだけのこと。


 婚約への未練は、とうに乾いていた。


 けれど、盗人の汚名は別だ。このままでは、修道院送りか、もっと悪いか。やってもいない罪で。


 それだけは――どうしても、飲み込めなかった。


 広間を出る、その直前。


 壁際に、一人だけ、笑っていない男がいた。


 近衛の制服。扉のそばに、背筋を伸ばして立っている。嘲りも、好奇も、その目にはなかった。ただ、まっすぐに、こちらを見ている。


 手を、強く握っていた。何かを、抑えるみたいに。


(……誰だったかしら)


 見覚えがある気もする。ない気もする。いつも、こういう場の隅に、いた気がする。


 わからないまま、私は広間を出た。


 ***


 実家に戻っても、居場所はなかった。


 父は、私を見ようとしなかった。母は「なぜもっと、うまくやれなかったの」とだけ言った。盗みの噂は王都中に回り、ベルク家は早々に、私を切り捨てる算段を始めていた。来週には、王宮の査問にかけられるという。


 罪が確定すれば、家からも、社交界からも、消される。


(道具は、壊れたら捨てられる)


 わかっていたことだ。わかっていても――胸の奥が、しんと冷えた。


 夜。庭に出た。


 手入れもされていない花壇の、隅の方。誰も見ていない場所で、菫が咲いていた。


 ふと、昔のことを思い出しかけて――やめた。思い出したところで、何も変わらない。


 その時、門の方で物音がした。


 振り返ると、男が立っていた。あの夜、壁際で笑っていなかった、近衛の男だ。


「夜分に、申し訳ありません」


 低くて、静かな声だった。


「クラウスと申します。近衛に籍を置いています。――少し、お時間を、いただけませんか」


(近衛が、こんな時間に。罪人とされた女に、何の用だろう)


 身構える私に、クラウスは、まっすぐ言った。


「あなたは、何もしていない」


 息が、止まった。


「ベルク家の宝剣は、三月前にはもう、本物ではなかった。すり替えたのは、あなたではありません。コンラート・メルテンスと、その後ろにいる者たちです」


「……あなた、何を」


「証拠が、あります。一つではない。何年分も」


 クラウスは、懐から薄い束を出して見せた。几帳面な字で、びっしりと書かれた記録の写し。日付。名前。金の流れ。


「来週の査問には、出てください。逃げないで。――そこで、全部、ひっくり返します」


 わけが、わからなかった。なぜ、この人が。なぜ、私のために。


「どうして、あなたが……」


 クラウスは、一瞬だけ、言葉に詰まった。


 それから、目を逸らした。束を持つ指が、少しだけ強くなる。


「……それは。査問のあとに、お話しします」


 耳が、赤かった。夜目にも、はっきりわかるくらいに。


(変な人)


 あの夜と、同じだ。まっすぐ見て、それから、逸らす。


 わからないことだらけだった。でも――冷えていた胸の奥に、小さく、火が灯った気がした。


 ***


 査問まで、あと数日。


 逃げることも、できた。家を出て、どこか遠くで、罪人として息を潜めて生きる。


 でも――それでは、あの人たちの思う壺だ。盗んでもいない罪で、黙って消える。


 冗談じゃない。


(戦おう)


 初めて、そう思った。誰かの道具としてではなく、自分の意思で。


 考えてみれば、私は知っていた。盗まれたという、ベルク家の宝剣。あの柄頭には、祖母の代に入った、小さな疵がある。十字の意匠の、中央の左下。家の者しか知らない、古い疵だ。


 すり替えられた贋物に、その疵は、ないはずだ。


 それを、査問で言えばいい。


 クラウスは、その後も、何度か来た。


 査問の段取り。証言の組み立て。淡々と、けれど、隙なく。この人は、ずっと前から、この日のために動いていた。話すほどに、それがわかった。


 一度、訊いた。


「どうして、ここまでしてくださるんですか。私、あなたに、何もして差し上げていないのに」


 クラウスは、手を止めた。


「……してもらいました。一度」


「え?」


「ずっと、昔に」


 それ以上は、言わなかった。耳だけが、また、赤くなった。


 その夜。庭の菫を見て――今度は、思い出すのを、やめなかった。


 十年前。割れた、白い花瓶。私のものにされた、罪。罰として、一人で庭の草をむしらされた、午後。


 あの時、隅に、もう一人いた。みすぼらしい身なりの、孤児の下働きの子。その子もまた、やってもいないことで叱られて、そこに、うずくまっていた。


(あの子……まさか)


 思い出しかけて、けれど、顔は、もう霞んでいた。


 ***


 査問の日。


 王宮の一室。正面には、王太子殿下。両脇に、文官と査問官が並んでいる。


 コンラートは、勝ち誇っていた。


「この通り、証拠の宝剣でございます。エレナ・ベルクが盗み出し、贋物とすり替えようとした。卑しい根性が、家柄に表れたのでしょう」


 ロザリーが、隣で、大げさに頷く。


 台の上に、抜き身の宝剣が置かれていた。ベルク公爵家の宝剣――の、はずの、それ。


 私は、一歩、前に出た。


「殿下。一つだけ、申し上げても、よろしいでしょうか」


 コンラートが、鼻で笑う。「往生際の悪い」


 構わず、私は、宝剣を指した。


「その剣の柄頭を、検めてくださいませ。本物のベルク家の宝剣には、祖母の代に入った、小さな疵がございます。十字の中央、左下。家の者しか知らない、疵です」


 査問官が、剣を手に取った。柄頭を、検める。


 ――疵は、なかった。


「……ない、な」


 査問官の声に、場が、揺れた。


「それは、本物では、ありません」私は、静かに続けた。「本物がすり替えられたのなら、贋物を用意できたのは、すり替えた者だけ。私では、ありません。私は、本物の疵を、知っているだけの者です」


 コンラートの顔から、笑みが、消えた。


「で、でたらめだ! その剣は、お前の部屋から見つかった――」


「いつ、誰が、私の部屋から見つけたのですか。私は一度も、その剣を、見せていただいておりません」


「……っ」


 追い詰められた人間は、よく喋る。


「黙れ! お前が盗ったに決まっている! 本物がどこにあるかも、お前なら――」


 言いかけて、コンラートは、口をつぐんだ。


 遅かった。


 盗まれて、行方知れずのはずの、本物の在り処。それを彼は、知っているような、口ぶりだった。


 しん、と場が静まる。


 その時、ロザリーが、甲高い声を上げた。


「わ、私は、知りませんわ! 剣をすり替えたのも、コンラート様が勝手に――! 私は、何も!」


「ロザリー!」


「離して! ベルク家を潰せば借金が消えると、あなたが言ったのよ!」


 崩れていく。


 自分たちで、勝手に。


 私は、何もしていない。ただ、本当のことを、一つ、置いただけだ。


 その時。


 壁際から、足音がした。


 クラウスだった。


 近衛の制服のまま。けれど、背筋の伸び方が、いつもと、違う。彼は王太子の前に進み出て、片膝をついた。


「殿下。お時間を」


「許す。――話せ、クラウス」


 殿下が、彼の名を、知っていた。


 クラウスは立ち上がり、分厚い束を、査問官に渡した。あの夜、私に見せた記録の、すべて。


「殿下のご下命により、二年にわたり、メルテンス侯爵家の不正を調べておりました。公爵家宝剣のすり替え。王家献上金の横領。証文の偽造。――すべて、ここに」


 メルテンス侯爵が、椅子から腰を浮かせた。「き、貴様、ただの近衛が――!」


「ただの近衛で、結構です」クラウスは、振り返りも、しなかった。「ただの近衛が、二年かけて集めた証拠です。覆せるものなら、どうぞ」


 殿下が、束を、検めていく。


 頁をめくる音だけが、長く、長く、続いた。


 やがて、殿下は、静かに束を閉じた。


「――メルテンス侯爵家を、査問にかける。当主ならびに、コンラート・メルテンスの身柄を、拘束せよ。エレナ・ベルク公爵令嬢にかけられた嫌疑は、すべて、晴れたものとする」


 衛兵が、動いた。


 コンラートが、何か叫んでいた。ロザリーが、泣き喚いていた。侯爵が、青ざめて、床にへたり込んでいた。


 でも、もう、誰も、その三人を見ていなかった。


 あの夜、得意げに私を切り捨てた男を。家のための道具に、家柄の卑しさを見たと、嘲笑った男を。今はただ、衛兵に引きずられていく、男を。


 ***


 査問官たちが退室し、殿下も、席を立った。


 広い部屋に、私とクラウスだけが、残された。


 彼は、まだ、こちらを見ていなかった。床の一点を見つめて、何か、言いあぐねている。


「クラウスさん」


「……はい」


「査問のあとに話す、と。言いましたよね」


 クラウスの肩が、わずかに、揺れた。


 それから、彼は、懐に手を入れた。出てきたのは、古い、薄い紙。丁寧に折り畳まれた、その間に――。


 一輪の、押し花。


 菫だった。


 色は褪せて、けれど、形は崩れていない。十年、大切にされてきたことが、ひと目で、わかった。


「……これ」


「十年前です」クラウスは、ようやく、顔を上げた。「公爵家の庭で。割れた花瓶の罪を着せられて、あなたは、一人で草をむしっていた」


 心臓が、跳ねた。


「隅に、もう一人いました。下働きの孤児で。やってもいない盗みを疑われて、震えていた、子供です。――俺、です」


 あの日の、霞んでいた顔が。


 ゆっくりと、像を、結んでいく。


「あなたは、自分が罰を受けているのに。その子に、菫を一輪、くれた。そして、言ったんです」


 クラウスの声が、少しだけ、掠れた。


「『誰も見ていなくても、本当のことは消えない。見ている人が一人でもいれば、それでいいの』と」


 ――言った。


 確かに、言った。幼い私が、自分に、言い聞かせるみたいに。


「俺は、その一人に、なりたかった」


 息が、できなかった。


「だから、騎士になりました。あなたの近くにいられる場所を探して、近衛に入った。あなたが夜会に出るたび、壁際に立って、見ていました。――あなたが、本当のことの側に、いられるように」


「十年……?」


「十年です」


 クラウスは、押し花を、そっと、私の手に乗せた。


「メルテンスがあなたを陥れようとしていると知った時、殿下に願い出て、調べる役目を、いただきました。間に合わせたかった。あなたが、誰にも見られないまま、消されてしまう前に」


 涙が、出た。


 査問の場でも、家に切り捨てられた夜でも、出なかった涙が。


 道具だと、思っていた。誰の目にも留まらない、家の印に過ぎないと。


 違った。


 十年。ずっと、見ていた人が、いた。


「エレナさん」


 クラウスが、私の前に、立った。手を、伸ばしかけて――触れずに、止めた。あの夜と同じ。委ねる、みたいに。


「あなたの家も、爵位も、要りません。何かを、してくれなくて、いい」


 まっすぐな、目だった。今度は、逸らさなかった。


「ただ――俺のそばに、いてくれませんか」


 誰かに、そう言われたのは、初めてだった。


 何かの役に立つからでも、家のためでもなく。ただ、私が私であるというだけで、そばにいてほしいと。


 私は、菫を、握りしめた。


 それから――伸ばされたままの、彼の手に。自分の手を、重ねた。


 自分の、意思で。


「……十年も、よく、黙っていられましたね」


 クラウスが、目を、見開いた。


「言える、わけが、ありませんでした」掠れた声で、彼は、笑った。「あなたは、ずっと、遠くにいたので」


「もう、遠くないです」


 私は、握っていた菫を、彼の手のひらに、返した。そして、その手を、両手で、包んだ。


「これからは、近くで見ていてください。……私のことも、本当のことも」


 クラウスの目が、潤んだ。あの夜、壁際で笑っていなかった人が。耳まで、真っ赤にして、子供みたいに、笑った。


 ***


 メルテンス侯爵家は、爵位を剥奪された。


 横領した王家への金は、すべて没収。コンラートは辺境送りとなり、二度と、王都の地を踏むことはない。共謀していたロザリーの家も、連座で取り潰された。


 私にかけられた嫌疑は、王宮から、正式に取り消された。あれほど私を切り捨てたがっていたベルク家は、手のひらを返したように、「不憫な娘」として私を迎え入れようとしたけれど。


 私は、家を出た。


 道具に、戻るつもりは、もうなかった。


 ***


 あれから、一年。


 私は、クラウスと、小さな家で暮らしている。彼はあいかわらず無口で、あいかわらず、私を見ては、耳を赤くする。


 庭には、菫を植えた。


 手入れの届かない隅っこではなく、一番、日の当たる場所に。


 十年、押し花になって彼の懐で守られていた花の、子孫みたいなものだ。


「……また、見てますね」


 花に水をやる私の背中に、彼の視線を感じて、振り返る。


 クラウスは、慌てて、目を逸らした。耳が、赤い。


「……警護の、癖です」


 近衛は、もう辞めたのに。


 まあ、いい。


 誰も見ていないと思っていた、あの庭の午後から。


 ずっと、見ていてくれた人が、いる。


 私はもう、誰の道具でもない。


 日の当たる場所で咲く菫を、私たちは、二人で、見ていた。


【完】

ここまでお読みいただきありがとうございます。

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別作品ですが長編も連載中ですので、よろしければどうぞ。

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