月とサスペンス
ある日唐突に、夜空に月があることに気づいた。
もちろん、それまでも見えてはいた。しかし、その不気味な存在性に気づいたのは、仕事帰りのその時が初めてだったのだ。
昼間はまだ夏のように暑く、何もまともに考えることなどできなかった。
しかし夜になると9月らしい涼しさで、私の脳味噌にも正常な狂気が戻ってくる。
白すぎるほどの満月は髑髏に似ていた。
罅割れたようなその表面を突き破り、私の脳味噌がそこにセットされた。
そうして私は芸術の表現欲に取り憑かれたのである。
街を歩けばさまざまな人が歩いているように見える。月並みな言い方をするなら『人の海』だ。
つまり、さまざまな人が歩いているように見えて、じつは同じような、それらは海の一滴に過ぎない。
私がそんなありふれたもののひとつを掬い取り、澱みがあれば捨て、私のイメージ通りの紺碧の風景を実現しようと試みることに、どんな罪があるといえるだろうか?
私が心の中で「不要」と唱えた人間はたちまち干上がり、空にむかって蒸発するように消えた。
月から授かった能力に、しかし私は高揚するでもなく、ただ海岸の美化に務めるボランティアのように、淡々と地球の美化に務めた。
これは芸術なのだ、人間好みでない自然の中に、人間らしい人間のいない、観る者の心震わす風景を創るのだ。
夜になればあのおそろしい月を浮かべる、死後の風景のような、まったき静謐を湛えた海を創るのだ。
誰も私のこの力に、まだ気づいてはいない。
このまま、世界を髑髏の赴くがままに──
高い崖の上に立ち、すべてを見下す私の後ろから、地の底より響きあがるような、男の声が、私に言った。
「不要」