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第9話 雨とスープと、三つの湯気

 屋根を叩く雨脚が、夜の村をまるごと包んでいた。

 修繕したばかりの梁を照らすランタンの灯は小さいが、ここが自分の家になったと思うと、心細さよりも胸の鼓動の方が勝る。


「……今のところ、漏れてないね」


 ミレイは背伸びしながら天井の継ぎ目を指でなぞいだ。板の合わせ目は乾いたまま。

 ノアは脚立の上で帳面を広げ、《21時32分 異常なし》と細字で記す。


 外の稲光が続けざまに空を裂き、続いて腹に響く雷鳴。雨量はさらに増したようだ。けれど床に落ちるしずくは一滴もない。


「これで合格? 記録係さん」


 ノアはこくりと頷き、珍しく口端だけ笑った。青白い灯は神殿に置いてきたが、代わりに胸のあたりがふわりと温かい。


 次の雷鳴と同時に扉板が強く叩かれた。


「点検だ。開ける」


 リアムの声。ミレイが閂を外すと、ずぶ濡れの村長が風と一緒に転がり込む。外套から滴が落ち、靴底が石床を濡らした。しかし彼の視線はまっすぐ天井へ向かう。


「……無事だな」


 短くそう言うと、リアムは水滴を払うでもなく梁を総覧する。鉄槌を入れた場所、補強した桁、釘の列。ひとつひとつ確認して頷いた。


「上等だ。雨粒一つ落ちない」


 称賛にしてはあまりに素っ気ない。しかし昼間の彼を思えば大躍進である。

 ミレイは胸の前で拳を作った。


「やった。じゃあ合格祝いにお茶を淹れます」


「茶葉くらいはあるのか?」


「乾かしておいたので。味は保証しませんけど」


 


 囲炉裏に火を起こし、錆びた薬罐を吊るす。薪は湿っていたが、ノアが丁寧に火口を作り、火打石を几帳面に打ち続けてくれた。

 湯が上がるまでのあいだ、リアムは座布を選び損ねたように所在なく立ち、ノアは帳面の位置を微調整し、ミレイは茶碗を拭きながら腹具合を誤魔化す――そんな沈黙が雷の隙間で幾度も繰り返された。


(うわ、気まずい……)


 それでも茶が湯気を立てる頃には、三人の間の冷気が少し和らいでいる。ミレイは茶碗を二つ差し出し、最後の一つを自分の前に置いた。


「熱いので気をつけてください」


 リアムは短く礼を言って受け取り、ノアはそっと茶碗を両掌で包む。

 雷鳴が遠のいた拍子、戸を控えめに叩く音がした。


「村長? 開いてますかい?」


 入ってきたのは、昼に土嚢を縫い合わせていた革職の女主人・ベルダ。大鍋を布で包み、肩口まで濡れている。


「雨宿りもせずに……どうした?」


「倉庫が綺麗になったお礼です。井戸の水も早く澄んで助かったしねえ。大したものじゃないが、温いスープを」


 鍋を囲炉裏に据え、ミレイに向かって柔らかく笑う。


「よそから来たお嬢ちゃんも手際が良くて驚いたよ。雨で冷えただろう? たくさんお食べ」


 湯気と共に鶏と根菜の香りが広がった。胃が鳴る音を誤魔化す間もない。


「いただきます!」


 スプーン替わりの木匙で口に運ぶ。塩と香草が控えめで、根菜の甘みがじんわり染みた。

 ノアは慎重に一口。睫が静かに震え、すぐに二口目を掬う。リアムは鍋を見据えたまま、短く礼を言った。


「助かる」


「礼はあの倉庫さ。あんなに歩きやすくなったのは何年ぶりかねえ」


 ベルダは鍋をかき回し、火にくべた薪を整えて去っていった。戸が閉まる頃には、囲炉裏の前に湯気と静けさが残った。


 


「村の人が褒めてくれると、ちょっと照れますね」


「……口で言わないだけで、皆感謝している」


 リアムは匙を置き、焚き火の枝をつついた。火花がぱちりと弾ける。


「記録も役に立った。雨量と風向を合わせて測ったのは初めてだ」


「じゃあ、次は畑の種在庫をまとめましょう。撒き時を色分けした表を作れば――」


「仕事は昼間に話せ」

 リアムがわずかに口元を緩める。雷光が薄く照らし、ノアの頬にも色が乗った。


 天井を再び見上げる。板の合わせ目から、雨音だけが伝わり、しずくは落ちてこない。

 安堵して身を預けると、背後でノアのペンがさらりと動いた。


《22時5分 屋根異常なし 石壁 湿度低》


 ミレイは湯気に頬を温めながら、小さく呟く。


「星を見る約束が、ほんとうに叶いそう」



 リアムは火かき棒を止め、わずかに首を傾げた。

「……約束?」


「昼間、倉庫を手伝ってくれた子たちとね。屋根が直ったら星を見に行こうって」


灰色の瞳が一拍だけ揺れ、すっと窓の向こうへ向けられる。

「あの丘なら雲が抜けた後が早い。……晴れたら案内してやる」


ノアが石板に《星丘 晴れ待ち》と書き添え、鞘にペンを納める。

 


 夜半。雨はまだ強いが、囲炉裏の火は丸く収まり、湯気はゆっくり天井へ溶けていった。三人は言葉少なに碗をすすり、雷が鳴るたび火影が揺れて、気まずさも少しずつ薄れていく。


 屋根修繕1日目、雨漏りゼロ。

 その記録が帳面に刻まれ、ページを閉じる音が乾いた室内に心地よく響いた。


 外で雨が石畳を叩き続ける。だが、その音はもう“恐るべき試練”ではなく、“確かめる胸の鼓動”に似ていた。

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