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第7話 借り物の鍵

 固くなったパンを歯で割りながら、ミレイは水路脇の石に腰を下ろした。

 空はすっかり青みを帯び、夜明けの冷えも泥の匂いも、まだ村のあちこちに残っている。

 

リアムは向かいの石へ無言で腰を降ろし、パンを三口でかじり取ると木桶の水で流し込んだ。ノアは二人より少し離れた所に立ったまま帳面を捲り、インクを乗せる手を止めない。


「――お水、いただきます」


 ミレイが桶を指差すと、リアムは短く頷く。木の柄杓にくぐもった朝日が反射し、泥の匂いと一緒に乾いた喉へ流れた。ひんやり甘い。


「助かります。それにしても、水路が決壊しなくてよかった」


「運が良かっただけだ」


 リアムの声は低い。けれど先ほどまでの突き放す棘は少し鈍っている。ミレイはパン屑を払いつつ、なるべく当たり障りのない声を探した。


「村長さんは毎朝、水門の様子を?」


「夜明け前が一番水位を読みやすい。昼は交易、昼過ぎから畑と工房の様子を見て回る」


「……寝る時間、あります?」


「4時間で十分だ」

 即答だった。責任感からくる強がりなのか、本当にそういう体質なのか判断がつかない。


 パンの残りを口に押し込みながら、ミレイは本題に踏み込むことにした。いつまでも神殿の床で寝起きするわけにもいかない。


「実は――しばらく、この村に滞在できる場所を探していて」


 リアムが目を細める。石畳の隙間で水がかすかに鳴った。


「神殿の裏手に空き家があると聞きました。屋根は抜けてますが、荷物を置ければ十分です。住まいとして貸してもらえませんか?」


「ただで、か」


 その言い方に棘は無いが、簡単には頷かないという意思がはっきり滲んでいる。ミレイは頬のパン屑を指で払った。


「もちろん対価を払います。あいにくお金は無いけど……昨日見ましたよね? 私、整理と雑務は得意なんです。神殿の記録も少し手伝っただけで、ログが読みやすくなったはず」


 ノアが帳面をこちらへ向け、《整頓 助かる》と一行追記した。


「それから――」

 ミレイは水門の木枠を振り返る。「水路の板や道具、番号を振って倉庫にまとめれば、もっと作業が回りやすい。村の在庫表も作れると思います」


 リアムは黙った。灰色の瞳がミレイを測るように動き、やがて水門へ視線を滑らせる。夜明けの光が背で揺れ、金髪に淡い藍を落とした。


「仕事は結果で判断する。今日一日、俺と歩け。出来栄え次第で空き家を貸す」


「取引成立、ですね」


 ミレイが手を差し出すと、リアムは眉をひそめ、それでも汚れた手袋を外して握り返した。手のひらは硬く、土と木の匂いが染み込んでいる。


「あの空き家、雨漏りがひどい。直す木材も、日暮れまでに確保しないと」


「了解。――記録係さん、手伝ってくれる?」


 ノアは帳面を閉じ、こくりと大きく頷いた。青白い灯は神殿奥に退いて見えない。それでも胸の真ん中で、まだ小さくゆらいでいる気がした。



 午前の陽が石畳を温める頃、ミレイはリアムと共に倉庫と水門の間を何度も往復した。

 錆びた工具を並べ、木板の長さごとに束ね、欠けた土嚢袋を縫い合わせる。少年達が土砂を運ぶ横で、ミレイは資材の数を大声で読み上げ、リアムが紙片に書き込んでいった。


「杭、短いのがあと16! 板の長尺は残り3本!」


「了解、次の便で切り出す!」


 声が重なり合い、作業は驚くほど早く回転した。昼前には倉庫が歩けるほど整理され、予備資材リストが二枚の紙に収まった。

 リアムは汗を拭い、紙をまじまじと眺める。


「……読みやすい。今まで“どこに何が”を勘で探していた」


「数字と場所が分かれば、誰でも次の手順を引き継げます。ブラック部署の教訓です」


「ブラック……?」


「思い出すと胃が痛むので、そのうちお酒でも飲みながら」


 リアムの唇がわずかに緩んだ。ノアは石板に《在庫表 写本 後日》と追記する。



 夕暮れが近づく頃、三人は問題の空き家へ向かった。

 屋根は数カ所抜け、石壁には蔦が絡んでいる。けれど基礎はしっかりしていた。


「土間を掃いて、屋根板を打ち直せば住める。手伝いは出す。ただし資材は自前で探せ」


「分かりました。――ありがとう、村長さん」


「リアムでいい。呼びにくいだろう」


 その言葉にミレイが微笑むと、リアムは軽く咳払いしただけで背を向けた。


「今日のところは扉に鍵をかけておけ。夜は獣が出る」


「……え? 獣?」


「明日の仕事だ」

 リアムは振り返らず手を振った。ノアも静かに礼をして神殿へ戻っていく。残されたミレイは、崩れた屋根から差す夕陽を見上げた。


(思ったより早く、居場所ができた……かも)



 埃を払い、深呼吸する。胸の奥で、小さな鈴がまた鳴った気がした。夕陽が背中を押し、神殿の青白い灯を思い出させる。まだ弱い光だけれど、きっと今日の分だけ強くなったはずだ。


 長い一日が終わる。けれど物語は、ようやく動き始めたばかりだった。

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